宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年6月28日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝

エレミヤ書28章5節~9節
ローマの信徒への手紙6章12節~23節
マタイによる福音書10章40節~42節


「聖書をどう見ますか」

説教者 江利口 功 牧師

おはようございます。

昔、大学の合格発表が電報で届いた時代があったそうです。電報なので多くの文字がかけません。ですので、「サクラサク」とあれば合格、「サクラチル」とあれば不合格・・・そういう意味だったと聞いたことがあります。本当かどうかはわかりませんが、なかなか粋なやりかただと思います。もし合格通知が郵便で届くのだとしたら、家で待っている本人や家族の人は、郵便配達員の人をどきどきしながら待っていたと思います。そう考えると、その通知を運んで来る配達員の人は、ただの配達員ではなくて、特別な知らせを運んでくる存在だったことです。もちろん、配達員の人が合格を決める人ではありません。入学を認める人でもありません。ただ、学校から出された“一通の通知”を届けるだけです。でも、家で待つ人には特別な人に見えますよね。しかも、それが合格通知ならば、家族の人にとっては、幸せを運んでくれる人ですよね。「お茶でもどうぞって」、“ねぎらいたくなる”のではないでしょうか・・・。もし、合格通知なら・・・それはピザの広告とは違います。不特定多数に配られる案内チラシでもありません。「あなたに」と、本人に宛てられた学校からの良い知らせです。その人の人生を大きく変えるグッドニュースなわけです。イエス様は、御国の福音を、人を通して伝えさせられます。聖書を見ると、まず、その前触れを弟子たちに託されました。その時の話を見たいと思います。マタイによる福音書10章40~42節です。新約聖書19頁をお開きください。

イエス様はこう言われます。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」イエス様は、遣わされた人を受け入れる人はわたしを受け入れる。報いを受けるとおっしゃっています。ちなみに、「報いを受ける」と聞くと悪いイメージがあるかも知れませんが、聖書で、「報い」は報酬という意味にも使われます。さて、弟子たちを遣わせる時の話を見ているのですが、先ほども言いましたが、“遣わせる”というのは、聖書全体に流れている深いテーマなんです。神さまは“ご自分の恵み、命”を、“人の手を通して届けられる”のです。イエス様の命は、何かこの世の手段を通して私たちの所に届けられます。私たちは、それを信仰によって受け取ります。ここでイエス様がおっしゃっているのは、弟子たちに、ただ、「伝道に行きなさい」と言っておられるのではなく、ご自身の使者として(神さまの言葉を携えた人として)遣わされて、(携えて)行きなさいとおっしゃっているんです。イエス様は彼らにその証として、病を癒す力とかを与えられました。でも、大事なのは彼らが持っていたメッセージなんです。昔、王や権威ある人は、自分のメッセージを紙に記し、その紙に印を押した手紙を持たせて、人を遣わせたそうです。遣わされた人自身は、普通の人です。しかし、その人が手にしているのは、王の直接の言葉です。力があるわけです。ですので、その人を王の遣いとして受け入れることは、王の想いを受け取ることができます。逆に、もし拒めば、王を否定したことになりますので、それなりの報いも受けます。これは、聖書をどう見るかということにも深く関わっていると思います。私たちは聖書を、どのように見ているでしょうか。本ですか?メッセージですか?多くの人が、古代の人の思想が書かれた本として見ていると思います。また、生きる上で必要な教えが記された宗教の本として見ていると思います。でも、私たちは違います。これは、神さまの言葉です。神さまが人を通して書かせ、人を通して私に手渡し、今日、私に語ってくださるのです。それを神の言葉として受け入れるなら、その報い、恵みを受けとることができます。もちろん、聖書は、歴史的な出来事が記されています。教えも記されています。しかし、それだけではありません。聖書は、神さまが語る命の言葉です。神さまの命を運ぶ本です。ですので、聖書を手にして「これはわたしに送られて来た神さまのメッセージだ」と受け取る時に、その報い(命)を受けることができます。イエス様は言われます。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」そして、そこには、信仰が関わってきます。神さまは、天から直接、私たちの心に直接語られるのではありません。神さまは、預言者を遣わし、御子を遣わし、そして、弟子たちを遣わし、人を遣わされます。そして、今、私たちをも遣わされます。私たちは、聖書という本を届けるのではなくて、神さまの命を届ける使者なのです。しかし、ここには難しさもあります。中々、人々は福音を神さまのメッセージとして受け取りません。でも、その内容が、本当に命であることを聖書は記しています。42節にこう書いてあります。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」という言葉にも表されています。神さまの言葉を運ぶことは、いつの時代も簡単なことではありませんでした。特に、ユダヤ人社会の中で「十字架につけられたイエス様のこと」を語ることは、命がけのことでした。ですので、イエス様は「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(16節)ともおっしゃっています。これはいつの時代もそうです。イエス様の愛に動かされる人は、世の罪の中で福音を語ります。時に、耳に痛いことを語らなくてはなりません。「それは宗教です」という受け入れ難い空気を感じます。その中で語る時、下手をすると、その人との間が壊れる危険性もあります。でも、イエス様はそのことをよくご存じです。エスさまは、ある時、ぶどう園の譬えを語られました。ある主人がぶどう園を丁寧に作り、それを農夫たちに任せて旅に出ます。収穫の時が来たので、主人は僕たちを送ります。ところが農夫たちは、その僕たちを受け入れません。打ち叩き、殺し、石で打ちます。それでも主人は忍耐して、別の僕たちを送ります。しかし彼らも同じように扱われます。そこで、主人はこう考えます。一番のメッセンジャー、わたしの愛する子を送れば、彼らは聞いてくれるだろう。そう思って、息子を遣わしますが、農夫たちは殺してしまいます。受け入れるのではなくて、拒んだのです。「この息子を殺せば、彼の財産は私たちのものだ」と言っていますが、本当に浅はかだと思います。息子を殺せば、ぶどう園が自分たちのものになるわけありません。むしろ、主人が怒るのは当然のことです。この譬えを聞いた、祭司長やファリサイ派の人も、そのことを認めています。けれども、彼らは、イエス様を十字架で殺してしまうのです。イエス様の「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それに相応しい実を結ぶ民族に与えられる。」という言葉に躓いたんです。でも、これは、彼らに限ったことではなくて、これが人間の罪の姿です。人間の罪は、神さまの言葉をひたすら拒絶しようとします。神さまを拒否したら、自分は自由になれるという思いです。でも、これは、罪から出ています。人類は神さまを十字架にかけました。でも、ここで、神の大きな愛が現れます。赦しと義を与えるという神さまにしかできない愛が示されます。神さまは、ご自身の命、恵み、愛を、人の手を通して私たちに与えようとされます。その人は、神さまの愛に動かされている人です。洗礼も聖餐式もそうです。神さまは、ご自身の命、恵み、愛を、人の手を通して与えられるんです。そこに必要となってくるのが信仰です。見えているものの背後にある神のメッセージを受けとる信仰です。聖書とは何でしょうか。聖書は、単に昔の人の思想や体験談が書かれた書物ではありません。神さまから私たち一人一人にあてられたメッセージです。そこには福音が記されています。あなたが、聖書を“わたしの言葉(神の言葉)”として受け入れるならば、あなたは、永遠の命(復活の命・毎日の命)を受けとることができると約束してくださっています。私たちは、この聖書を、“私への神さまの生きた直接の言葉”として受け入れるとき、私たちは報いを受け取ります(命を受け取るのです)。聖書をどう見てくれるか、私たちが人に伝える時の一番の悩みどころですよね。思想を伝えているのではない。相手に永遠の命、今日の命を与えるメッセージがここにある。でも、その人にとって、これが何かということが大前提として違っていれば、まったく伝わりません。でも、それが神さまのメッセージであると考え方が変わると命に変わります。同じことが、わたしは、洗礼や聖餐式にも表れていると思います。洗礼が「わたしの信仰の表明(教会の入会式)」「イエス様の十字架を思い起こす食事」だと思えば、そうでしかありません。でも、これが、神の救いの御業の水、地上に降りて来た神の食卓(イエス様の体)だと思って受けるなら、その報いを受けることができます。そのように受け入れる人はその報いを受けるのですね。神さまはご自分の「恵み」、「命」を、人の手を通して届けられます。牧師は特に、礼拝でそのことをしています。また、私たちは命のメッセンジャーとして遣わされています。ただ、この世界の罪は神さまを拒否します。福音に力がないのではなくて、それだけ罪が大きいのです。ですので、伝えた内容が福音となるために、私たち自身、正しく福音を理解する必要があります。また、祈る必要があると思います。そして、最後にもう一つ、イエス様の言葉を覚えてください。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイによる福音書25章40節)

遣わされた私たちのことでもあります。このことから分かるように、福音を携える人とイエス様は、深く結びついてくださっています。このことを覚えてください。「それは、わたしにしてくれたことだ」とおっしゃるくらい、私たちとイエス様は一つになっているのです。人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。