宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年6月14日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝

出エジプト記19章2節~8a節
ローマの信徒への手紙5章1節~8節
マタイのよる福音書9章35節~10章8節


「恵みの王国の民」

説教者 江利口 功 牧師

◯ 旧約聖書と新約聖書

 おはようございます。聖書には旧約聖書と新約聖書があります。皆さまは、この二つをどう関連付けて考えおられますか?わたしは昔、旧約聖書が神さまの最初の計画で、上手くいかなかったので、イエス様による新しい契約(新約)が立てられた・・・そのように考えていました。でも、実際はそうではありません。神さまの計画は初めから一つです。エフェソの信徒への手紙(1章4節)には、こう書かれています。『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。』パウロはここで、キリストによる救いは、初めから(天地創造の前から)定められていた秘められた計画(9節)でしたと言っています。そして、旧約聖書で約束されていた救いが、イエス様において「明らかな形」示されたんです。

◯ 今の時代に突然来たならば

では、神さまの救いの契約は、旧約聖書と今を生きる私たちとどのように結び付けているでしょうか。そこで、簡単なクイズを出したいと思います。

皆さんも一緒に、考えてみてください。旧約聖書に登場するアブラハム。信仰の父とも呼ばれるアブラハムです。そのアブラハムが、もしタイムスリップして、現代に来たとしたら、アブラハムは、どこで礼拝すると思いますか?彼はエルサレムにある神殿に行くでしょうか、もしくは、シナゴーグに行くのでしょうか。それとも、キリスト教の教会に行くでしょうか。答えは、キリスト教の教会です。「え、アブラハムは、旧約聖書の登場人物で、また、ユダヤ人の祖先ではないのですか?なぜ、ユダヤ人の礼拝場所であるシナゴーグに行かず、キリスト教の教会に行くのですか?」そんな風に思われるかも知れません。アブラハムが教会を選ぶ理由は、アブラハムは神の約束に生きていたからです。アブラハムは、自分の子孫から生まれる「特別な人」を待っていました。神さまはアブラハムにこう約束しました『地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。』(創世記22章18節)アブラハムはその子孫を楽しみにしていたのです。私たちも多分「あなたの子孫を通して、わたしは全世界を祝福で満たす」と約束されれば、嬉しいですよね。自分は見ることができませんが、希望・幸せを感じますよね。アブラハムがイエス様を待ち望んでいたことは、イエス様ご自身も『あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。』(ヨハネによる福音書8章56節)と言っています。ですので、アブラハムが現代に来たなら、彼は、間違えなく教会に行きます。そして、福音の言葉に耳を傾けると思います。そして、自分に与えられた約束が、イエス・キリストによってどのように成就していったのかを聞いて、主を高らかに賛美すると思います。さらに、洗礼の恵み、聖餐の恵みという「見える形」で与えられる祝福を喜び受けとると思います。同じ様に、アダムとエバがこの時代に来たならば、やはり、シナゴーグではなくて、教会で礼拝すると思います。新約聖書のみ言葉を通して、イエス様の救いを聴きたいと思います。というのも、彼らは、罪を犯した時、裁きだけではなく、救いの約束を神さまから聞きました。それは「女の子孫が蛇(彼らから祝福を奪った悪魔)の頭を砕く」と約束でした。ですので、アダムとエバもまた、悪魔に勝利する「子孫」を待ち望んでいたんです。ですので、彼らが、クリスマスの礼拝に来たら感動でしょうね。なぜなら、救い主が聖霊によって処女マリアから(つまり女の子孫)から生まれてくるからです。さらに、アダムとエバは、イエス様が十字架で血を流されたことを聞いて、自分達の罪がエデンの園で皮の衣を着せてもらったことを思い出すと思います。キリストは血を流され、命をささげ、そして、義の衣を私たちに与えてくださったからです。多分なんですが、私たちよりも、喜びが大きいと思います。聖書の言葉に熱心に耳を傾けると思います。アブラハム、アダム、エバ・・・共に神さまの声を聴いていた人達ですから、福音書が読まれる時、それは、今、語り掛けてくる神さまの声だとわかったと思います。ノアも、モーセも、ダビデも・・・やがてくるキリストを待ち望んでいた人達は、福音を喜んで聞き、そして、キリストが与える、聖餐の恵みを私たちより実感して受けとるのではないかって思います。

◯ 私たちの本国は天にあります

さて、私たちは、今、イエス様による恵みの時代に生きています。死んで復活され、そして、天に昇られたイエス様は、今、神の右に座し、一切の権能を持ってこの世界を支配されています。それを「恵みの国」といいます。もしくは、イエス様による「恵みの王国」と言ってもいいと思います。聖霊なる神さまは、イエス様による罪の赦しを世界の人に与え続けておられます。恵みの王国の民が加えられているのが今の時代です。「恵みの王国」であるならば、そこには民がいます。それが私たちです。パウロはこう言っています。『しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。』(3章20節)私たちは、「恵みの王国の民」特別な民としてこの地上で生きています。そして、私たちは、キリストの再臨を待ち望む民でもあります。そして、キリストが再臨された時、この時、「恵みの国」に続いて、「栄光の国」が現れます。この時、私たちは本当の栄光の体を頂くことができます。また、この世界もこれまでの世界とは全く違う世界となります。私たちは、今、「恵みの支配」の中で生きています。私たちは、その民です。所属がもう違うのです。

◯「恵みの王国」の民として

 さて、私たちはキリストを王とする「恵みの王国」の民なのですが、その私たちにイエス様は大事な使命を託してくださっています。そのことをお話したいと思います。まず、今日の聖書箇所ですが、開いて一緒に見たいと思います。お手持ちの聖書・新約聖書の17頁をお開きください。マタイによる福音書9章35節~10章8節です。35節にこう書いてあります。『イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。』イエス様は、町や村を残らず回られたとあります。これは、神の国の到来を告げ知らせているお姿です。さらに、そのしるしとして、病気や患いを癒されていました。イエス様の目に写っていたのは、霊的に弱り果てている人達、生きる辛さを抱えた人達でした。そのような彼らを見て、イエス様は、深く憐れまれました。イエス様は弟子達にこうおっしゃっています。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』そして、イエス様は12弟子を選び、派遣されました。

◯ 私たちのつとめ

先週、イエス様はこうおっしゃっています。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』イエス様は、教会に対する使命をお語りになっているだけではなくて、私たち一人一人に、福音を宣べ伝える使命を与えておられます。それは、民を増やすということではありますが、やはり、大事なのは、「イエス様は、人をご覧になって、今も、深く憐れまれている」ということです。私たちは、「隣人を愛しなさい」という聖書の教えは大切にしますが、「すべての人をわたしの弟子にしなさい」という命令も同じように大事なんですよね。なぜなら、愛するとはイエス様をその人を繋ぐということだからです。

◯「同情するなら金をくれ!」

でも、私たちには、こんな思いってあるのではないでしょうか。教会に誘おうとしても人は来ないって。皆さまは、「同情するなら金をくれ!」という台詞、覚えておられますか?流行語大賞だったそうです。平成の時代(確かバブルが崩壊した時代)のドラマでわたしは見たことないのですが、その台詞はとてもインパクトがあったようです。でも、どこか、現実を語っているような気が私はいたします。ずっと、人は同じ状態なような気もします。つまり、今、多くの人が必要としているのは、目に見える助け。すぐに効果のある助けなんだと思います。でも、本当は違うんです・・・イエス様は群衆を見て、深く憐れまれました。9章36節にこう書いてあります。『群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。』「深く憐れまれた」というのは、「同情」とは全く違います。イエス様は、人々から、人生の苦しみ、重荷をおろさせたいと願っておられます。神さまに目には、本当に、人が失っているものを与えようとしてくださっているんですね。しかし、この世界は、神さまの福音が価値のないようなものに見せてしまうんです。一か所、聖書を見たいと思います。新約聖書137頁、ルカによる福音書14章15節からです。お読みします。『食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』この譬え話は、「神の国で食事をする人はなんと幸いでしょう」という言葉から始まっています。しかし、実際には、多くの人が招きを断るのです。ユダヤ人もそうでした。そして、イエス様の十字架によってようやく準備が整ったのに、異邦人でさえ、日常的な理由で来ないんです。「福音が力がない」のではなく、人間の罪は神さまの招きを、大したこないと感じてしまうのです。そして、『収穫は多いが、働き手が少ない。』というのは、単に「来たがっている人が多いのに・・・」という意味ではないのでしょう。聖書にこう書いてあります。『群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。』「飼い主のいない羊」それは、今の時代にあてはめれば、自覚していないという意味だと思います。自分がいかに危険な状態にいるのか分からない状態です。私たちは祈る必要があるのだと思います。私たちの目には、「招いても来ない人が多い」ように見えますが、イエス様の目には「福音を必要としている人は本当に多い」そのように見えています。今の私たちは、働き手を祈りつつ、さらに、私自身が福音をしっかりと知り、そして、わたしの口からでる招きの言葉を研ぎ澄ませてください・・・。そのように祈る必要があるのだと思います。

人のすべての思いにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。