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◯先週の内容
おはようございます。先週、「神のみ名」についてお話いたしました。神さまの名は、「太郎」「花子」のように他の人と区別するものではなくて、神さまの本質を表すものでしたよね。そして、それは私たちがつけた名ではなくて、神さまが示された名でした。ですので、「わたしはこういうものだ」というのが名前に現されています。その神さまの名はYAHWHヤハウェでした。神さまの名を口にするというのが畏れ多いので、イスラエルの人たちはYAHWHと書いて、【主】と呼んでいました。さて、神さまが教えてくださったその名の意味は、「永遠に存在する方(わたしはある)」でした。聖餐式で、「昔いまし、今いまし、永遠にいます、主を讃えん」と私たちは賛美しますが、「ただ、います神」ではなく「今もわたしたちと共にいます神です」と私たちは告白しています。さらにもう一つありました。それは、神さまが礼拝を司る祭司がそのみ名を民の上に置く時、神さまはその民を祝福するとおっしゃいました。このように、ご自身に名によって、民を守り、恵みを与え、そして、平安を与えるというのも、神さまの本質でしたと、先週お話ししました。
◯み名が豊かに現れる礼拝
さて、普段私たちは、YHWMヤハウェと呼ばず、「主」と呼んでいます。でも、神さまの名(ヤハウェ)を呼ぶ時があるんです。それは、「ハレルヤ(アレルヤ)」という時です。最後の「ヤハ」という言葉が「ヤハウェ」を短く表現した「ヤハ」なんですね。すごくないですか?ハレルヤという時、私たちは神さまのみ名を最後に言っているんです。ちなみに、ハレルヤとは「ヤハウェ(主)をほめ讃えよ」という歓呼の声(みんなで喜んで叫ぶ声)です。 そう考えると、礼拝ってすごいと思いませんか?「父と子と聖霊のみ名によって」と三位一体の名が牧師によって告げられますし、私たちは、みんなでハレルヤとほめ讃えています。さらに、主のみ名によって、もしくは、「父と子と聖霊のみ名によって、最後祝祷いたします。牧師が「父と子と聖霊の名によって」と言って十字を切る時、この空間は、神聖なる神のみ名によって聖別・聖化されています。もちろん、牧師が凄いのではなくて、神のみ名が凄いのです。この場所は、天の玉座と同じようになります。そこには神の臨在があり、私たちはこの場所でこの場所にしかない祝福を受け取ります。
◯神の名、神の声は目を開く
是非、知って頂きたいのは、礼拝の中心にあるのは神さまの臨在、神さまの言葉、神さまの恵み、神さまの祝福であるということです。それに対して、私たちの側からでるのが、祈りであったり、告白えあったり、神さまをほめ讃える、賛美の歌・歓呼の声、そして、ささげものだということです。イエス様は「“インマヌエル”と呼ばれる」とありましたよね。インマヌエルとは「神は私たちと共におられる」という意味です。「インマヌエルと“呼ばれる”」この“呼ばれる”というのはとても大事なことです。なぜなら、そう呼ばれるということは、それが、本質である証拠だからです。「わたしは美しい」と思っている人がいても、「あなたは美しい」と言ってくれる人が必要ですよね。それと似ています。
◯父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい
さて、礼拝と三位一体の神さまのみ名についてお話していますが、洗礼の中にとても素晴らしい約束があります。是非、ご自身の聖書をお開きください。マタイによる福音書28章18~20節(新 60頁)です。こう書いてあります。(18節)『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(19節)だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(20節)あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」まず、イエス様は「天と地の一切の権能を授かっている」と言われました。一部ではなく、一切の権能です。それは十字架で死んで復活されたことによって得られました。イエス様は、罪と死に打ち勝ち、悪魔をご自身の足の下に従わせられました。イエス様は、天に昇り、神の右に座され、今、この世界をその権能によって支配しておられます(いわゆる教会の時代・千年王国)。その一切の権能を有するイエス様が、まさに、弟子たちに本格的な使命をお与えになりました。それは、全世界の人に福音を宣べ伝えること。悔い改めさせ、三位一体の神のみ名によって洗礼を施し、罪の赦しを得させることです。
◯洗礼の時 何がおこるのでしょうか
イエス様は、『父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。』とおっしゃいました。ここで、注目したいのは、「父と子と聖霊の名によって」という言葉です。イエス様は、ただ、「洗礼を授けなさい」とはおっしゃいませんでした。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」とおっしゃいました。
「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」というのは、とても深い意味があります。「名によって授ける」と書いてありますが、これは、ただ、三位一体の神の名を唱えて(名前を使って)、洗礼を施しなさいという意味ではありません。実際に、ギリシャ語ではeis、英語ではintoという単語が使われています。結論から言いますと、皆さまが洗礼を受けた時、「三位一体の御名の中に包み込まれた」んです。別の言い方をしますと、洗礼を受けた時に「神の子として迎え入れられた」んです。三位一体の神のみ名によって洗礼を受けた私たちは、キリストの義の衣を着せてもらい、また、神の子として迎えいれられたのです。信仰は受けとるためのものであって、信仰がそれを勝ち取ったのではありません。ルカによる福音書に放蕩息子の譬え話がありますよね。親を敬わず、自分のしたい事を優先して出て行った息子はどうなったでしょうか?自分では生きて行くことができなくなり、父のもとに帰ろうと決意しました(悔い改め)。彼自身は、子と呼ばれる資格はない。僕(奴隷)の身分が相応しいと思って父の家に向かっていきました。でも、何が起こったのか覚えておられますか?父は、近寄り、抱きしめ、接吻し、服を着せ、指輪をはめさせ、履物を履かせたのです。どれも、奴隷に対してはしないことです。着せた服、履かせたくつ、はめさせた指輪、どれも、その親の子である証しです。洗礼の際、私たちは罪の告白をいたしますが、これは、内側から生じて来た悔いる心です。また、神にすがりたい気持ちです。ここには、何も私たちが誇ることができません。神さまは、そのように悔いる私たちを受け入れてくださり、喜んでくださり、義の衣を着せて下さり、「わたしの子よ」と、神の子の身分として受入れてくださったんです。それが、洗礼を通して与えられました。
◯礼拝の初めに唱えるみ名
牧師が「父と子と聖霊の名によって」と言って十字を切る時、この空間は、神聖なる神のみ名によって聖別・聖化されますとお話しましたが、6月21日の献堂60周年記念礼拝の時からから、罪の告白をする前に、「父と子と聖霊のみ名によって」と唱えたいと思います。その時、「三位一体の神の名の洗礼を受けて神の子とされた私たちが、今、三位一体の名が唱えられるこの空間に集められている」そのよう思って欲しいです。もちろん、これは私が考えた方法ではなくて、伝統的な教会では、礼拝の初め(罪の告白の前に)この場所を聖別する意味も含めて「父と子と聖霊の名によって」と言うんです。
◯聖餐式における神の臨在と祝福
さて、次に、神さまがお定めになった礼拝における祝福の場所をお伝えしたいと思います。それは、聖餐式です。イエス様は、弟子達に、最後の夜、過ぎ越しの食事をしながら、パンを取り、「これはわたしの体です」とおっしゃいました。そして、杯を取り、「“これはわたしの血”による新しい契約です」とおっしゃいました。そして、イエス様は、記念としてこれを行いなさいとおっしゃいました。これはどういう意味でしょうか。ここで言う記念とは、主イエスキリストの十字架の犠牲の記念です。一か所、聖書を見たいと思います。出エジプト記20章23節です(旧127頁)。是非、皆さまの聖書をお開きください。こう書いてあります。まず、22節の前に何と書いてありますか?「祭壇について」と書かれています。そして、24節から見てください。あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。と、約束をしておられます。神さまは、モーセに祭壇を作るように命じました。そしてそこで、犠牲の動物を捧げるようにと命じられるのですが、神さまは、わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。と約束されています。これは、礼拝の仕方です。そして、ここに、とても興味深い言葉があります。それは、24節の言葉 わたしの名の唱えられるすべての場所において・・・という言葉です。ここで「わたしの名の唱えられる」とおっしゃっていますが、これは「わたしが名を覚えさせる(記念させる)その場所において」という意味になります。簡単に言いますと、神さまが、こうしなさいと覚えさせる(記念させる)場所において、わたしはそこに臨み、あなたを祝福するとおっしゃるのです。つまり、教会の時代、それは、犠牲ではなくて、罪の赦しを与えさせるために、ご自身の体を裂き、血を流された、イエス様の体と血がここにあると覚えさせる(記念させる)その場所において、神さまが臨み、私たちを祝福してくださるとおっしゃっているのです。
◯礼拝は神さまとの豊かな交わりの場
礼拝という漢字がどうしても「私たちの行為」を意味する言葉なので、誤解されやすいのですが、礼拝は、神さまが定められた恵みの手段を形にしたものです。神さまのみ名が呼ばれる場所、それは、神の家です。そして、そこには、食卓があります。つまり、聖餐です。もちろん、その神の家に入るのに相応しい姿に変えられるのが洗礼です。三位一体の神のみ名によって洗礼を受けた私たちは、み名によって聖別された礼拝において、神さまからの恵みを豊かに受け取ります。そして、み名による祝祷の言葉を頂き帰っていくのです。もちろん、私たちはこの場所を離れたら独りぼっちになるのではありません。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とイエス様はおっしゃっています。また、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」とも約束して下さっています。私たちが、イエス様の名によって父に祈る時、父なる神さまは、耳を傾けてくださいます。なぜなら、愛する御子の名だからです。さらに、イエス様によって清められた私たちの姿がそこにあるからです。礼拝って特別な空間です。み名によってそこは特別な空間となっている。そこで、私たちは共にいる神さまを知る。そして、恵みを受けとる。そのように思っていただければと思います。
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