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◯この聖書にわたしの永遠の命がある
おはようございます。「聖書は神さまの御言葉が書かれた書物」ですよね。わたしが持っている「この聖書」、皆さまが今、手にしている「その聖書」。“この聖書の中に、わたしの永遠の命に関わる言葉が書かれている”そのことを意識して欲しいと思って、今日は、途中で、説教箇所を引用する時に、その聖書箇所をご自身の聖書を開いて、見て欲しいと思います。ポイントは、“ここにわたしの永遠のいのちについて書かれているんだ”ということを意識することです。すると、開ける時の気持ちが違ってくるかと思います。
◯聖書は難しいけれども
この聖書ですけど、誰もが思うのは「難しい」ということではないでしょうか?聖書は、“神さまのことを理解するために、分かりやすく示した書物である”というのは違いますよね。むしろ、研究すればするほど、私たちの理解をはるかに超えておられるということがわかります。さっそく、聖書をお開きください。イザヤ書55章8節~10節(1153頁)です。難しい方は、原稿を見てくださって結構です。『わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。』ここでは、神さまのお考えは、私たちの理解の外側(経験や常識の外側)にあるということを言っていますよね。もちろん、理解できないことはあっても、私たちを潤し成長させる生きた力だというわけです。また、ローマの信徒への手紙11章33節~36節にはこう書いてあります。新約聖書の291頁をお開きください。『ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。』パウロでさえ、神さまのご計画を完全に説明し尽くすことはできないと言い、そして、逆に、“理解できないが故の神さまのすばらしさを賛美”していると思います。私たちは、病院に行くと、お医者さんが私たちの病状を聞いて、適切な薬を処方してくださいます。恐らく、血圧の薬の恩恵を受けておられる方もいらっしゃると思いますが、血圧が下がることは知っていても、どんな成分で、どんな風に働くのかって知りませんよね。お医者さんが「これを呑んでください」と言われたら、難しいことは考えず、そのまま受け取って飲むかと思います。もちろん、頂いた薬を理解しようとする人もいますよ。でも、薬の科学的な何かを理解しないとだめなのかというとそうではありません。お医者さんを信頼して飲む人が治っていくわけです。聖書の書かれていることも似ていると思います。神さまは、私たちに全てを理解することを求めていません。できないことを神さまはご存じです。
神さまは、もちろん、聖書を学ぶことは大事です。ただ、聖書は、神さまの言葉(わたしたちへのメッセージ)を、そのまま信じて受け入れること(全てを信じて受け入れること)を求めています。アーメンという言葉がありますよね。私たちは、祈りの最後に「アーメン」と言います。何気なく言っているかも知れません。でも、このアーメンという言葉は、古くから信仰者達の中で用いられて来た言葉で、深い意味を持つ言葉なんです。アーメンは「はい、その通りです」「本当にそうです」という意味で、また、「あなたの約束に委ねてます」という意味を持つ言葉です。つまり、アーメンとは、「わたしは理解しました」という時に使う言葉というよりは、「あなたの言葉とその約束は真実で、その通りになりますか、そのことを信じて委ねます」そういった信仰者ならではの言葉でもあります。
◯理性と信仰
お友達っていらっしゃいますよね。小さい頃から、お友達がいたと思います。でも、みんなが、良い友達だったかと言うとそうでないこともあったのではないでしょうか?そして、時に、悪いことに誘う友達っていたのではないでしょうか。「理性」「信仰」もそんな友達のように考えて見てもいいのかも知れません。「信仰」というのは良い友達で、良いアドバイスをします。神さまの言葉を「そうだよ」「そうなるよ」って言ってくれます。一方で理性は、賢そうで良い子に見えるのですが、「そんなことある?」とか「信じられる?」見たいな言葉をかけてきます。先ほど、お医者さんが出してくれる薬の話をしましたが、「その薬呑んだらえらいことになった」と誰かが言ったら、急に心配になりませんか?でも、「大丈夫、あのお医者さんはとても腕のいいお医者さんだからね」って言ってくれる人がいると安心しますよね。これが「信仰」です。私たちの傍にいる「信仰」って大事だと思いませんか?信仰というのは、私たちが造りだした宗教心ではありません。聖霊なる神さまが私たちの内に働かれて、その信仰を造りだしてくださっているのです。今、私たちのうちに信仰を造りだしてくださる神さまが、この世界で生き生きと働いておられるのですが、そのことを来週のペンテコステの礼拝でお話したいと思います。
◯キリストの昇天
では、本日の福音書の箇所を開いてください。ルカによる福音書24章44節~43節(新161頁)です。目を聖書の本文に落としながら聞いてくださって結構です。今日は、イエス様が昇天された日を覚える礼拝です(次週は、聖霊が降臨してきた時の話です)。イエス様が昇天されたという出来事は、多分、私たちの理性だけで考えれば、とても理解しづらいことだと思います。
周りの学生の子に話をしたら「は?」って思われそうな感じです。イメージしやすいけれども、理性では理解しづらいと思います。でも、アーメンと受け取ればいいのです。また、イエス様は昇天されて、神の右に座されたということも他の聖書箇所で示されていますが、こちらも、イメージしやすいけれども、理性では理解しづらいです。ただ、聖書は、明確なことを私たちに教えていまして、それは、イエス様が遠くに行って、無関係な存在になってしまわれたのではなく(不在なのではなく)、神の右に座された、つまり、世界を今、支配しているのは、国の大統領や王様ではなく、イエス様であるということです。
どういう風に座っておられるのか、イメージが大事なのではなく、一切の権能を授かっておられ、今まさに、復活したキリストとして、高く上げられ、この世界を権威をもって支配されているということを知って欲しい・・・これが神さまのメッセージです。聖書は、「確かなことは何か」を理解することを求めています。44節をご覧ください。こう書いてあります。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』
イエス様は、旧約聖書がご自身のことが書かれた書物であることを言っておられます。そして、45節では、イエス様はそのことが理解できるように目を開かれたと書かれています。つまり、人間の力では信仰は生じないということです。そして、46節『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』そして『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』つまり、旧約聖書の預言が、あなたがたの目の前で起こっているというのです。そして、48節、『あなたがたはこれらのことの証人となる。』つまり、弟子たち、そして、私たちは、福音を伝える者として“今”生きているということですね。そして、49節、『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。』と聖霊が与えられる約束をなさいました。聖霊なる神さまが今私たちと共にいて(内にいて・側にいて)、目を開き、霊的に強め、また、励まし、また、助け、私たちにイエス様を見させ、そして、世に福音の宣教者として、また、隣人に仕えるように遣わされているということです。聖書に、「ムナ」の譬えというのがあります。そこを見たいと思います。ルカによる福音書19章の11節からをご覧ください(新146頁)。(12)この話しでは、立派な家柄の人が、王の位を受けるために遠い国に旅立つんです。(13)そこで、その人は、10人の家来を集めて、それぞれ、10ムナのお金を渡します。そして、『わたしが帰って来るまでにこれで商売しなさい』と命じます。これは、イエス様が天に挙げられた後の私たちのことを言っています。(15)そして、王になって帰って来たその人は、それぞれの僕の報告を聞きます。(16)ある僕はそれで10ムナもうけ、ある僕はそれで5ムナ儲けました(18)。ところが、一人の僕が出て来て、彼は、それを布でくるんでしまっておきました・・・そう報告するんです(20)。加えてその僕はその理由を言うのですが、それは『あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』という理由でした(21)。主人は、その僕を悪い僕と呼び、彼がもともと持っていた1ムナを取り上げてしまいました。そのような例え話です。イエス様は、昇天されました。それは、どこか遠いところに行かれたのではありません。神の右に座された、つまり、今、キリストはこの世界を支配しておられる状態です。そして、キリストは天において、この世界を統治しておられますが、同時に、私たちに賜物を託し、それを用いて、福音を宣べ伝えるように、また、隣人に仕えるように遣わされています。ただしその時に大切なことは、「信仰」です。主人のことをどう理解して仕えているのか、歩んでいるのかということなんですね。あの悪い僕は、主人のことを「厳しく、恐ろしい人だ」と思っていました。だから、「せっかくの賜物」を生かすことができなかったんです。一方で、良い僕は、こう云っています(16)『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』。この言葉は少し、修正する必要がありまして、彼は、「あなたの1ムナが10ムナになりました」と言っているんです。自分の功績を伝えようとしているのではなく、あなたの1ムナを用いたら、10ムナになったんです。と喜びを伝えているんです。彼が主人のことをとても良い人だと思っていたので、必然的に、実りが多くなったのです。この表現から判ることは大事なことだと思います。イエス様は、天に昇られました。しかし、私たちに宝と賜物を与えてくださいました。宝物とは福音です。そして、賜物とは、私たち一人一人に与えられている特別なものです。「わたしはあの人とは違って、大したものは与えられていない」と思う必要はありません。
あなたにしかない大切な賜物を、神さまは、与えてくださっています(みんなに羨ましがられる必要はありません)。そして、それをどう用いるのか・・・わたしは、信仰が関わってくるのだと思います。良い「信仰」という友達を持つと、良い、実りが必ず生じます。わたしは果たしていい人だろうか?それは関係ありません、どれだけ神さまが愛の方であるのか知っていること、それが、豊かな実を結ぶことに繋がります。
◯最後に
聖書は、神さまがご自身を理解することよりも、ご自身の愛を理解すること、また、イエス様を知るため、そして、永遠のいのちをわたしたちが得るために与えられています。聖書を開く時、傍にいる聖霊なる神さまが信仰を起こさせてくださいます。この聖書から、わたしの命について神さまが語り掛けてくださるそう思っていただければと思います。私たちは、使徒信条の中で、天に昇り神の右に座し給えりと告白しています。イエス様は、もう私たちに関わりを持たれなくなり、遠くに行ってしまわれたと云うことではありません。この世界を支配し、とりなしておられ、さらに、実際に、聖餐式では、ご自身がパンとぶどう酒と共に現在(リアルプレゼンス)されています。そして、時が来れば、世を裁くために再臨されます。この後、聖餐式を行いますが、遠くへ行ってしまわれたのではない・・・。そう思って、受け取って頂ければと思います。
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