宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年3月1日 四旬節第二主日礼拝

創世記12章1節~4a節
ローマの信徒への手紙1節~5節
ヨハネによる福音書3章1節~17節


「イエスの凄さ」

説教者 江利口 功 牧師

 おはようございます。今日の聖書箇所ですが、イエス様の処にひとりの男性がやってきます。その人の名は「ニコデモ」といいます。彼は、ユダヤ人たちの議員(アルコーン:統治者、指導者)だったとあります。そのニコデモという人がイエス様のところにやってきて、こう言うんです。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師(ディダスカロス)であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネによる福音書3章2節)ニコデモは、イエス様が人を癒したりなさる、いくつかの“奇跡”を見聞きして、これは普通の人ではない、神から遣わされた教師に違いないと思っていたのです。ここでのポイントは、ニコデモが、「あなたのなさるような奇跡」と言わず「あなたのなさるように“しるし”」と言っていることです。もし、私がここで、どなたかの病気を癒したとします。すると、皆さまは、“凄い”って感じると思います。いわゆる、“奇跡を起こす人”になるわけです。もし、TV局がそのことを聞きつけて私の所にやって来たとすると、おそらく「奇跡を起こす人」として番組を作るのではないかを思います。でも、中には勘違いして、私がする奇跡を、神である証しとして捉える人もいるかも知れません。その人にとっては、私のすることは“しるし(サイン)”に見えるわけです。今、四旬節ですよね。この四旬節には、何か自分にとって受難とも言える事って起こりませんか?その時に、その生じた問題を、単に生じた問題として見るのではなくて、ああ、“四旬節だな”って思わされることってあると思います。

勿論、このようなこと=“しるし”ではありませんが、このような出来事があると、その背後に具体的な神さまのメッセージを感じとろうとし、神さまに心を向けるじゃないですか?そのような感じです。ニコデモは、イエス様のなさる奇跡をみて、そこに神さまを感じ取っていたのです。ただ、この“しるし”というのは、もっともっと、意味を含んだ、“しるし”となることもあります。例えば、ヨハネによる福音書の2章では、イエス様が結婚式で水をぶどう酒に変える奇跡を起こされました。でも、それは、単にワインが無くなったので、近くにあった水をぶどう酒に変えたという出来事ではありませんでした。

確かに、祝宴がイエス様の奇跡によって、盛り上がったという結果になりましたが、もう一つ、大きな意味が顕されていまして、それは、これまで清めに使っていた水を最高のぶどう酒に変えることで、儀式的な清めを終わらせ、ご自身の血による清め、そして、祝福された喜びをもたらすお方であるといことを暗に示されたわけです。つまり、その時に、示される“しるし”の中には、イエス様が誰で、どのようなお方なのかということが顕されることもあるのです。さて、ニコデモという人は、議員(アルコーン)であり、教師(ディダスカロス)でもありました。その彼は、イエス様のなさることを見て、“凄い人”ではなく、“神が共におられる方”、“神から遣わされた教師”だと思ったわけです。ですので、イエス様に教えを乞おうと思ったのだと思います。そのように近づいて来た、ニコデモに対して、イエス様が返された言葉が、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネによる福音書3章3節)という言葉でした。一見、頓珍漢な返事のように聞こえますが、これは、イエス様のなさることを“しるし”つまり神さまからのサインだと答えに近づきつつあるニコデモに、このしるしを理解するためには、あなたは生まれ変わらなければならない、生まれ変わらないとわたしのしるしは理解できない・・・そうおっしゃったんです。さあ、イエス様はニコデモを真理に導こうとしておられます。ニコデモが“しるしである”と気づき、次に、イエス様が誰かに気付かせようとしています。まず、イエス様は、新しく生まれ変わるということについてニコデモに説明します。ユダヤ人の人達は、イスラエルの民として生まれ、律法のもとで忠実に生き、そして、罪を悔い、また、従順に歩む・・・そうすると、終わりの日に、永遠のいのちを相続すると考えていました。しかし、イエス様は新たに生まれ変わらなければならないとおっしゃいました。しかも、この“新たに”という言葉は“上から(の力によって)”という意味を含んでいました。イエス様は、“新たに”と“上から”の意味を分かりやすく、“水と霊とによって生まれ変わらなければ”という風に、具体的におっしゃいました。さらに、それが、どのようにして起こるのかは見える形ではなく、風が吹くようにとおっしゃいます。この“風”という単語は“霊”とも訳せる言葉です。つまり、イエス様は、人が新しく生まれ変わるのは、“人間の業ではない”“神の業である”そして、人にはそれがどのようにしてからは“見える形ではわからない”という風におっしゃるのです。永遠の命は相続ではなく、上から来る恵みであるとおっしゃるのです。私たちは、“信仰によって救われる”という風に言いますよね。勿論、間違えではありません。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とヨハネは16節で書いていますよね。でも、ここで、わたしが信じたからという風にしてしまうと、人間の業になってしまいますよね。そうではなくて、私たちが信仰を持ったのは、神の業なのです。風がどこから吹いてくるのかは分からないように、私たちの信仰は与えられるものであり、また、水と霊とによって、私たちを造り替えてくださるのは神の業なんだということを中心にいつも持ってこないと駄目ですよね。その上で、私たちは、受けとる手である信仰を喜び、他の人にも「信じようよ」って誘うわけです。さて、イエス様は、ニコデモに彼がやがて見る“しるし”について教えます。それは、イエス様の十字架です。イエス様は、十字架で示される“しるし”について、旧約聖書に書かれている“青銅の蛇”を重ね合わされます。この青銅の蛇の話は、ユダヤ教の人達にとって、有名な出来事でした。イスラエルの民が、荒野で神さまを信頼せず文句を言い始めた時、神は、炎の蛇を送りました。その炎の蛇に咬まれて行く人は死んでいきました。そこで、民が悔い改めモーセに救いを求め、モーセが神に憐れみを求めた時、神は、蛇を竿に掲げよと命じました。そして、「それを見た者は癒される」とおっしゃいました。モーセが言われた通りにしたところ、人は癒されて行きました。ユダヤ人にとって、この出来事は、天を見上げる時、救いは上からやってくるという教え(教材)となっていたようです。現代でも、薬も大事、現代医学も大事、でも、神さまに癒してくださると祈ることを忘れてはならないという風に、ここから教えられることもあるようです。私は聖書を読んでいて凄いなと思うのは、旧約聖書って、後に大事な意味を明らかにする“しるし”が凄く多いなって思います。アブラハムがイサクを捧げるのもそうですし、アブラハムの処にやってきたメルキゼデクもそうでした。モーセが岩を打つと水が出てくるのもそうですし、天から降ってくるマナもそうです。全ては、イエス様が誰なのかが良く分かる“未来のしるし”でした。イエス様は、ヨナの話を通して、ご自身が3目に蘇ることを説明なさいました。旧約聖書には、隠れたイエス様のお姿がいくつも記されているんですね。さて、ニコデモですが、恐らく、この時点では、イエス様が何をおっしゃっているのかは良く分からなかったと思います。でも、このニコデモはこの時から、イエス様と弟子達側に着くようになっていました。そして、彼は、最後に、イエス様を十字架から降ろす時に、手伝っていた一人なんです。

彼は、その時、もしくは、後に、目が開かれて、青銅の蛇のイメージを通して、イエス様の十字架の姿を理解したのだと思います。それは、裁かれて死んでいくメシアではなくて、この十字架に神さまのメッセージが深く刻み付けられている、これは、神のご計画の中で起こったメシアの受難であったと理解したはずです。次週は、イエス様が井戸端でサマリアの女性と対話される話しです。ヨハネによる福音書の1章から4章って見方を変えれば、凄いメッセージを含んでいる話なんですね。1章では、ヨハネは創世記の1章を思わせるように、イエス様のことを私たちに示します。この世界は、神がお造りになった、その神とは、イエス様であった、そのイエス様は言によって創造された。

その言が人となって私たちの間に受肉されたと言います。そして、単に言葉が受肉しただけではなく、旧約聖書の出来事も受肉していくわけです。

イエス様は、カナで、ぶどう酒がなくなったという会話から、ご自身が血を流され、人の罪を清め、祝福を与える方であるしるしをお見せになられました。そして、神殿で商売人を蹴散らす出来事をとおして、ご自身こそ、生きた神殿であること、そして、死んで3日目に復活することを教えられました。

そして、今日の話では、生まれ変わるという会話をしながら、ご自身が天からもたらされた救い主であることをお示しになりました。

そして、次週、井戸端では、水の話をしながら、将来、ご自身が、霊と真をもって礼拝される神となることをお示しになりました。私は、イエス様って、わたしの全てだなって思います。この世界を造られた者、イエス様です。

そして、私に命を与えてくださったのもイエス様です。そして、罪人である私を救うために、人となられ、そして、苦しみを受け、十字架で贖ってくださったのもイエス様です。そして、復活し、「あなたも将来同じように復活します」と希望を与えてくださっているのもイエス様です。そして、この罪深い世界に終わりの時を定め、私たちを永遠の世界へといざなってくださるのもイエス様です。イエス様は、大きく、そして、力強く、しかし、弱々しく見えるようで、揺るがない主です。そして、愛と慈しみに誰よりも優ったのがイエス様なんです。理想や憧れを超えた、大きな存在、それが、イエス・キリストといいうお方なのです。