宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年2月22日(日)四旬節第1主日礼拝

創世記2章15節~17節
創世記3章1節~7節
ローマの信徒への手紙5章12節~19節
マタイによる福音書4章1節~11節


「揺るがない主」

説教者 江利口 功 牧師

 おはようございます。

四旬節に入りました。聖壇の布も紫色に変わりました。四旬節というのは、イエス様が私たちのために十字架で死んでくださったことを覚える期間です。

ただし、それは、知識として覚える期間ではなくて、“わたし”のこととして、改めて神さまの愛に立ち帰る大事な期間です。キリスト教会ではこの期間を大事にしています。是非、この期間を大切に過ごしてください。

さて、四旬節という言葉ですが、この「四旬」というのは「40」を意味しています。そして、聖書の中では「40」という数字はよく出てきます。

例えば、ノアの方舟の話では、「40日40夜」雨が降り続いたとあります。出エジプト記では、モーセは、シナイ山で「40日40夜」神の臨在もと過ごしたとありますし、イスラエルの民が荒野でさまよった期間は「40年」でした。聖書で「40」という数字が出て来る時、それは、「試練」の期間であったり「備え」の期間であったりします。共通しているのは、「その期間に人は霊的に深く研ぎ澄まされる」ということです。そして、その期間は、神さまのご計画の中で起こる出来事であるということです。今日の聖書箇所を見ましても、イエス様は荒野で「40日の間」断食されたとあります。

そしてその後、悪魔の誘惑を受けられたのですが、聖書を読むと“聖霊”が荒野に導いて行ったというのがわかります。そして40日後。イエス様の苦しみが最も最高値となった状態の時、悪魔の誘惑する声が聞こえて来たのです。長期間の断食で空腹になった時の心の状態って、想像できるかと思います。しかも、周りは何もない「荒野」です。理性よりも本能が全面に出てくる時だと思います。私たちは、「荒野」にいるわけではありません。でも、長い期間、しんどいことや悩み、苦しみが続くと、場所はこの世界であっても、心は「荒野」にいるような状況になってくると思います。そのような時、普段は見えてこないもう一つのわたしの姿が「揺さぶられて」表に出てきます。例えば、心に余裕がなくなってくる時ありますよね。忙しすぎたり、疲れていたり、また、嫌なことが連続すると、普段はそんなことでは怒る事ないのに「つい人にあたってしまう」そんなことありませんか?また、体が元気で健康な時は、口から出てくる言葉は「未来は明るいんだよ」って元気な言葉なのに、大きな病気にかかると気持ちが落ち込んで、不安になり、口から出てくる言葉が「暗いトーン」になってしまう。これも誰にでもあることです。信仰についても同じことあると思います。困った時には「神さま、神さま」って祈るけれど、問題が解決すると、祈りを忘れてしまうことありますよね。また、試練が続くと、神さまを疑うようになります。「神さまって本当いるのか」「神さまは愛ではなく、優しくない神さまなのか」って感じるようにもなります。また、熱心に信仰していても、他の事に心が向いてしまうと、神さまから遠く離れてしまう。このように、「状況によって信仰が揺らぐ」ということを私たちは良く経験するかと思います。心に余裕がなくなる時に露出しやすいのは、私たちの肉の弱さです。その時に「何が求められるのか」、「何が大切になってくるのか」を見て行きたいと思います。

さて、イエス様は洗礼を受けられた後、荒野に行かれてそこで40日間の断食をなさいました。そして、イエス様が極限状態になられた時、悪魔がやってきて、イエス様を誘惑してきました。聖書には三つの誘惑が記されています。一つ目は、「石をパンにかえること」二つ目は「飛び降りて見ること」そして、三つ目は「悪魔を拝むこと」です。この三つの誘惑を見るに際に、一つのキーワードに注目して見ると、見やすくなると思います。そのキーワードとは何かと言いますと・・・それは。「待てない、今すぐに」です。

悪魔の一つ目の誘惑は、「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑でした。40日断食すれば、もう体の限界です。目の前に食べ物があったら、気づいたら口に入れているような飢餓状態です。「何か食べたい」「今すぐに食べたい」このよう状態になっています。これは「味見」と称して「つまみ食い」をするのとはちょっとレベルが違いますよね。もう、本能が支配しています。空腹になれば人は食べ物を盗んだり、奪い取ったりします。理性は正常に働かない状態になります。イエス様もそのような状態でした。しかし、イエス様は、神の子ですから自分でパンを造りだすことができるんです。石をパンに変えることなど朝飯前です。イエス様は、この天地をお造りになりました。すべてを「ことば」でお造りになりました。

そのイエス様が石をパンに変えることなど大したことはありません。

「命じる」だけでいいんです。でも、今日の箇所とは違う箇所になりますが、“イエス様が群衆におっしゃった言葉”覚えておられますか?「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうか思い悩んではいけません」とおっしゃいました。何故でしょうか?何故、思い悩んではいけないのでしょうか。

イエス様はこうおっしゃいました。「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである」。父を最後まで信頼し続けなさいということですよね。何故なら、神さまは人とは全然違う、慈しみと愛に満ちたお方だからです。ですので、イエス様が石をパンに変えるということは、どういうことを意味するのでしょうか・・・。それは、「子」が「父」を信頼しなくなった(捨てた)ことを意味します。イエス様はおっしゃいました。

『「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と書いてある』世の人たちは、パンと神さまを別々にしています。

しかし、私たちは、“必要な糧は全て神さまから来ると信じています”。

ですので、イエス様は、「日毎の糧を今日もお与えください」と祈りなさいと教えられます。これによって、糧が何処から来るのかを私たちが知るためです。羊飼いは自分の群れの羊を牧草地へと導いて行きます。羊は、羊飼いが連れて行く場所でお腹を満たします。勿論、良い羊飼いは、羊のお腹の状態を知っていますので、必ず(何とかして)食事や糧を与えようとします。

でも、もし、羊が、羊飼いの声を無視して自分の力で餌を探し始めたらどうなるのでしょうか?結果的に餓死するか、獣に襲われたりします。羊に大切なのは羊飼いに着いて行くこと。羊飼いはそのために、羊を鞭や杖を使って獣たちから守ってくれます。詩編23編にこのような言葉があります。

『主はわたしの羊飼い。わたしには何も欠けることがない。』ここで「欠けることがない」と言っていますが、これは、“満ち足りていて何の問題もない”と言っているのではなく、「主は、どんな状況になっても、私を必ず満たしてくださる」という信頼を表現しています。私たちの人生においても、「石をパンに変えたくなる時」あると思います。それは食べるものだけに限らず、固い状況を柔らかいパンの状態にしたくなる時沢山あります。問題があれば、早くなくなって欲しいし、お金がない状況では、そのような苦労をしなくていいようになって欲しいと願います。不安があれば、すぐに解決することを願いますし、病気になれば、すぐにでも治りたいって思います。「待てない(もう待っていらなれない)」「今すぐに」って私たちは思うわけです。多分、石をパンにする力があれば、私たちは、すぐに「神さまの時」を待つこともなく、すぐに安心を造りだそうとすると思います。イエス様は、石に命じることでパンに変えることができます。でも“ご自分のためには”なさいませんでした。必要を全て知っている(誰よりも知っている)父なる神を信じておられたんです。

このような信仰は美しくないでしょうか。「神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」これは、「あなたの必要を全て(誰よりも)知っている、神の声を聴いて歩み続けなさいということです。そして、これは、良い羊飼いであるイエス様の声を聴いて生きて行くということになると思います。さて、二つ目の試練は何だったでしょうか?それは、神殿の屋根に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ」という誘惑でした。悪魔は続けてこう言います。「そうしたら聖書に書いてある通り、神はお前を助けるはずだ」。これは巧妙な誘いで、神さまを信頼(御言葉を信頼)している姿に見せかけて、実は、神さまを試す行為なんです。昔イスラエルの民は、エジプトを出て、荒野で生活していましたが、彼らは「神さまはなぜ私たちをこんな所に連れて来たのだ」とか「本当に神が私たちの見方であるならばそれを証明して見せよ」そんな勢いでモーセに迫ったことがありました。ここまでくると信じていても、信仰者の美しい姿ではなくて、むしろ、不信仰で神さまより自分を上に置いている姿です。

しかし、私たちであっても、ここまではないにしても、試練が続く時、苦しいですよね。人生が上手くいかない事ばかり起こる時、信仰していて本当に意味があるのかって思います。

それは、暗い(深い)闇の中を歩むようなものです。先ほど詩編23編の言葉を引用しましたが、詩編23編にはこうも書かれています。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。詩編23編では「正しい道に導かれる」と言い、でも「死の陰の谷を行く時もある」という風に言っています。「しかし、わたしは災いを恐れない」と信仰告白しているんですね。「正しい道」とありますが、これは、ゴールは青草の原であったり、命の泉であったりしますが、そのために通っていく道のことだそうです。そして、大きな道よりは“羊飼いが”知っているルートだそうです。つまり、羊には、「え、この道?」って感じなんですが、羊飼いにとっては、それが最善の道で、その先に、素晴らしい場所が広がっているのを知っているんですね。羊飼いを最後まで信用して羊のようであれと聖書は言っています。イエス様は子供のように神の国を信じなさいとおっしゃいますが、小さい子供は本当に親を頼ります。不平を言っても、親の選ぶ道をついて来ます。試練が続く時(連続する時)、「これ以上待てません」「今すぐに終わらせてください」って思います。「死の陰の谷」というのを「深い闇の中」に変えて読むと、「深い闇の中を行く時もわたしは災いを恐れません」ってなると思います。羊飼いは、羊の限界を知っています。

だからこそ、私たちが超えることができない試練はないと聖書は言うのです。でも、その道を通るとその先に新しい何かが待っているんです。三つ目の誘惑。それは、完全に「父」を捨てるということでした。私たちでいうならば、「神」を捨てるということ。そして、この世的な喜びこそ、わたしの喜びだと考えその手っ取り早い繁栄を求めて進んでいくことです。イエス様にとって、悪魔を選択することは、神さまの御心である、十字架の道を捨てることです。イザヤ書の53章に次のようなみ言葉があります。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。(イザヤ書53章11節)私たちは、手っ取り早い祝福を好みますよね。でも、祝福は手っ取り早く来ないんです。でも、耐えることは豊かにされることです。信仰は本物に磨き上げられます。それだけではなく、多くの実りを経験していきます。悪魔は、この試練の後、イエス様から離れて行きますが、最後にイエス様が十字架にかかられた時、再び現れてきます。

父なる神さまは、イエス様を死の陰の谷を通らせました。しかし、それは神の道でどうしても通らなければならない道でした。

イエス様は、「わたしの願いではなく、あなたの御心どおりに」とおっしゃり、「父」を信頼して歩まれました。十字架で死なれましたが、復活されました。そして、イエス様は主となられ、多くの人が神との関係が回復された姿を見ることができたのでした。私は、今日の説教題を「揺るがない主」といたしました。それは、「わたしたちには揺るぎない主がいらっしゃる」ということを覚えたいからです。私たちの心も気持ちも信仰も「揺らぎます」。

しかし、揺らがない人が一人いて、それが、イエス様なんですね。荒野の試練は私たちの日常の試練です。その試練をイエス様は同じように体験してくださいました。だからイエス様は私達の弱さ、苦しさを十分味わってくださったのです。そのうえで、「私の声を聴いてついて来なさい」とおっしゃるわけです。神の口から出る一つ一つの言葉は、羊飼いであるイエス様の言葉でもあります。私たちは、自分の信仰を信頼するのではなくて、「揺るがない主がいらっしゃる。だから勝利することができる」という信仰を持ちましょう。