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おはようございます。「物忘れ」今日は説教題をそうさせていただいたのすが、人の名前が出てこない、漢字が出てこない、何かを取にいったら、何を取りに来たのかを忘れてしまう。そんなこと誰にでもありますよね。でも、若い時の物忘れと年を取ってからの物忘れ、ちょっと違いますよね。
先週、わたしは東京で開催されたセミナーに参加してきまして、いくつかの講演を聞いて来ました。おっしゃることで、「なるほどな」って思うことを、メモしていたのですが、昔は、おっしゃったことを、そのままのフレーズで書き取ることができたのですが、今回は違いました。「なるほど」と思ってメモを取ろうとするのですが、「はて、何ておっしゃっていたっけ・・・」“こんなことおっしゃった”という“おっしゃったこと”は記憶しているんですが、おっしゃったそのままのフレーズが中々出てこなくなっていました。
「忘れる」というのは、誰にでもあること。若い時は「電車に傘を忘れてきてしまった」という程度の忘れ物。でも、年をとると「約束したことを忘れてしまう」「薬を飲んだかどうか思い出せない」そんな風に笑い話で終われないことも増えてくるかと思老います。勿論、今日は、そのような「忘れてしまうこと」ではなくて、今日のテーマは「霊的な事柄に関して忘れてしまう」と言うことです。ここで言う、「忘れる」というのは、記憶していたことを忘れてしまうようなことではなくて、関係が薄れる、優先順位が下がる、感謝が消える・・・そう言った「忘れてしまう」ことです。「神さまの恵みを忘れてしまう」「救いの喜びを忘れてしまう」「主の戒めを忘れてしまう」「主のご存在を心に留めなくなってしまう」「自分の主が誰なのかを忘れてしまう」他にも色々なことがあるかと思いますが、霊的な事柄に関して「忘れる」とき、人は生き生きとした命を失ってしまうんですね。旧約聖書を見ると、イスラエルの民が主を忘れてしまうということが良くありました。例えば、神さまはご自分の民をエジプトから救い出されました。その時は、信じられないような数々の奇跡を通してお救いになりました。民は、その時は、大変喜びします。しかし、民は“こんなにも早く主を忘れたのか・・・というくらい、偶像礼拝に陥るんですね。シナイ山のふもとでは、彼らは、金で子牛を造りそれを拝んだと書かれています。それだけではなく、イスラエルの歴史を見ますと、神の存在、神の戒め、神の力を忘れることが多いんです。神さまのことを忘れた民は力を失い、また社会は乱れ、敵のは負けてしまいます。主人が誰かを忘れてしまった民を神さまは尚も見捨てず、神さまは、預言者を遣わし、「主がなさったことを忘れてはならない」「思い起こせ」「立ち返れ」と呼びかけられます。それでも、彼らが思い起こすこともせず、立ち返らない時、どうなるのか・・・民は力を失い、また、社会は乱れ、敵に負けて支配されていきました。それでも、神さまは、助ける者を起こし、彼らを救い出すのですが、彼らはまた、神さまを忘れていくんです。本当にこのことの繰り返しで。聖書はいつも「忘れてはならない」「思い起こせ」「立ち返れ」と語り、主がいつも共におられることを意識して歩むように戒めるわけです。なぜなら、そこに私たちの命があるからです。
一般的には「知っている」というのは「記憶にある」ということだと思います。「誰々さんのことを知っている?」と聞かれれば、「ああ、知っている 知っている」ってなります。これは、「覚えている」ことですよね。でも、聖書が、「神さまを知っているか」という時、それは「神さまと交わりをもっているか」ということを言います。さて、今日は、三人の弟子たちがイエス様と共に山に登った時のことを書いています。弟子たちが、イエス様と一緒に山に登った時、そこで、光り輝くイエス様の姿を見ました。聖書を見ますと、顔は太陽のように輝き、そして、衣は、光のように白くなったと書かれています。普通、このような出来事は一般の人からすれば、「そんなことあるはずがない」と思われるかも知れません。また、「そのような奇跡を信じているのがクリスチャンなんですよね」と受け取られていると思います。イエス様が昇天された後、弟子たちは、宣教に出かけましたが、その時も「巧みに作られた作り話ではないか」と疑われていたようです。ですので、イエス様の栄光の姿を直接見たペトロは、後に、手紙の中で、「これは作り話ではないんです」「わたしたちは実際に見たんです」と書き記しています。それが今日読んで頂きました、“ペトロの手紙”に記されている内容です。わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。(ペトロの手紙Ⅱ1章16節)
ペトロは、「確かに私たちはキリストの威光を見た」そして、雲の中から聞こえてくる「これはわたしの愛する子。わたしの心に適うもの」という声を聴いたと証言しています。ペトロにとって、この出来事は生涯忘れられない、また、忘れてはならない出来事となったんです。ペトロは「キリストの威光」を見たと書いていますが、この威光とは旧約聖書に出てくる「神の威光」のことです。単なる輝きを言っているのではありません。彼は「メシア」は「神さまだったんだ」という驚きです。ペトロは「巧みな作り話だ」と言われているこの出来事が真実であったことを私たちに記憶して欲しいんですね。サタンは私たちに「この出来事は本当なのか」「聖書は本当に神さまの言葉なのか」と疑わせようとします。そして“自分の理性”で理解させようとします。また、神から離れ自分の力で生きさせようとします(生きていると思わせようとします)。
サタンのささやきは、私たちから確信を奪い取ってしまいます。確信を奪われると私たちはどうなるのか・・・。心は不安定になります。そして、愛が無くなります。喜びもなくなります。輝きもなくなっていきます。今の時代、私たちは理性が全てだと思っています。でも、その理性そのものが歪んでいたらどうなるでしょうか?皆さまは、分銅ってご存じです?重さを計るのにもう片っ方のお皿に乗せる1g、10g、100gと重さが決まっている重りのことです。私は化学を専攻していたのですが、大学の実験の授業で最初にしたのは、分銅の重さが正確であるかを試すという実験でした。確かにそうですよね。
分銅の重さを信じて他のものの重さを決めるのですから、その分銅の重さが間違っていたら、それを用いて計った全ての結果が違ってくるわけです。
私たちは、理性でものごとを判断しようとします。でも、その理性が歪んでいたらどうでしょうか?私たちは正しく物事を判断できているようで、全て違ってきてしまうわけです。聖書は私たちの理性が狂っているといっています。
ペトロはこう言っています。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。(ペトロの手紙Ⅱ1章20節~21節)
私たちの理性は、今、罪によって狂っています。ですので、私たちは、外からの言葉によってでした、正しい事を判断できないようになっています。ペトロは、聖書は人間の意志とは関係なく、神の霊が人々に働きかけ書かせたものであると言っています。つまり、内側ではなくて、外側から語られる言葉こそ大事なんだということですよね。そして、ペトロは聖書が本当に神の言葉であるということをどこで確信したのかというと、イエス様の栄光の姿、そこに、天から聞こえて来た神の言葉が証していると言うのです。ペトロは『わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。』と言っていますが、この「威光」という言葉は、旧約聖書で使われる「神の栄光」と共鳴しています。旧約聖書の中でイスラエルの民にとって大切な出来事はシナイ山での出来事なんです。
モーセが神に呼ばれて、シナイ山に登ろうとした時、シナイ山は雲で覆われ、主の栄光は山の上に留まっていました。人々には、それが、山の頂で燃える火のようであったと記されています。同じように、ペトロ達は山で栄光を見たのですが、それは何とイエス様ご自身の輝きでした。シナイ山の栄光とイエス様の栄光を結び付けているペトロは、イエス様こそ、聖書で教えられて来た栄光の神であると証言しているのです。そして、シナイ山では、天からモーセに神の言葉が語られ、モーセは天からの言葉と十戒を頂きましたが、ペトロ達が聞いたのは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という父なる神の声でした。つまり、イエス様の口から溢れ出てくる言葉こそ、神の言葉であるということなんです。ペトロはこのイエス様の姿を、作り話だと言って、記憶の外に追いやるようなことはしないように警告します。なぜなら、それは、イエス様がどれだけ栄光に満ちた方なのかを教える大切な証しだからです。傘を電車に忘れるのは可愛い物忘れですが、それでも、傘を買い直さないといけないし、その日、濡れてしまうことだってあります。予定を忘れたら、問題を生じます。神さまを忘れてしまう(意識しなくなる)ことは、日々の生き生きとした生き方にも大きく関わって来るものです。よく看護師さんで、手に字を書いている人を見かけます。それは、患者さんにとって大事な情報だからだと思います。聖書も、『これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。』(申命記6章6節)と神の言葉を忘れないように(思い起こすように)命じます。
それだけ、私たちは覚えたと思っても、忘れてしまうということだと思います。さらに、それは、あなたの命についてのことだから、決して忘れてはいけませんと神さまはおっしゃっているんです。この後、聖餐式を行います。
イスラエルの民は、出エジプトの出来事を忘れないようにと過ぎ越しの食事を毎年食べるように命じられました。イエス様は渡される夜、過ぎ越しの食事をしながら、これこそ、わたしの身体、わたしの血であると言って、弟子達に与え、そして、これを「覚えて」行い続けなさいと命じられました。これは、忘れないための記憶装置として機能しているのではないんです。理性はどうしてもそのように理解します。でも、そのままイエス様のお言葉を受けとるならば、それは、キリストの身体であり血であるわけです。
私たちは、こうしてイエス様とリアルな交わりを持つことができるんです。
礼拝での聖餐式は、私たちに与えられた私は共にいますとの「確かなしるし」です。過ぎ越しの食事のように「記憶から忘れさせない」ためのものではなくて「いつもわたしを覚えてここに帰ってきなさい」と言って、イエス様がくださる恵みの手段です。この時こそ、イエス様と一番深く交われる時です。
私たちは、ペトロのように見える栄光の神さまを見ることはありませんが、私たちは、礼拝で、永遠の存在であるイエス様と交わるんです。
そして、地の塩、世の光として、イエス様と共に歩んでいくことができるのです。
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