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先週、私たちは「幸いである」というイエス様の言葉を聞きました。
イエス様は、座って語られました。それは、想像してもらえれば分かりますが、上から命じる姿ではなく、人に寄り添い、親身になって語ろうとしておられる姿です。そして、マタイはわざわざ「“口を開き”教えられた」と記しています。ここには、群衆の「イエス様は何を語られるのだろう」という期待、そして、イエス様ご自身が、今まさに民に語りかけ始められるその瞬間の重みが「口を開かれた」という言葉の中に込められているように思います。だからこそ、今日の御言葉、「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」も、そんな風に、“今、私たちが直接イエス様ご自身から聞いている”そんな風に受け取って欲しいのです。礼拝は、私たちが中心で、神さまに何かをしてさしあげる場ではありません。むしろ、学校に行けば先生が前に立っておられるように、病院に行けば、お医者さんが座っておられるように、教会の礼拝は、イエス様ご自身が語り掛け、聖餐においてご自身が私たちと食卓を共にしてくださっている場なんです。私たちは、礼拝で罪を告白し、賛美し、祈ります。しかしそれは、イエス様抜きで起きている出来事ではありません。イエス様との交わりの中で起きている出来事なんです。さて、今日の御言葉でまず大切なのは、イエス様が「なりなさい」と言っておられるのではなく「である」と言っておられることです。私たちは「地の塩にならなきゃ」「世の光にならなきゃ」そうした“課題”として受け取りがちです。でも、イエス様がここでおっしゃっているのは、私たちの状態です。救い(永遠の命)と同時に、神さまが私たちに与えてくださった身分、与えられた私たちの姿をイエス様は宣言しておられるんです。今、受験のシーズンです。うちの子も今年受験で、先日、一つ目の高校を受けてきました。私は、高校入試の時に、私立と公立を受けました。公立はギリギリでしたので、私立に行く可能性は十分あったんです。ただ、私立には抵抗がありました・・・。なぜなら、校則が厳しかったからです。一般的には学校は、生徒を育てるために校則を定め、指導します。しかし、私が行きたかった公立高校は、本当に自由だったんです。髪型も自由、服装も自由、日中に門を出ても何も言わない学校でした。もちろんその分、自分というのをしっかり持っていないと流されてしまう危険性はありました。厳しい学校がいいか、自由な学校がいいか、そのことは別として、一つ確かなことがあります。それは。その学校に入学した時から、その学校の生徒であるということです。成績がどうとか、校風に沿って学んでいるか、それ以前に、身分は最初に与えられているわけです。昔、「3年B組金八先生」というドラマが大ヒットしましたよね。物語は確かクラスの生徒たちに起こる様々な課題に対して、金八先生がどのように関わっていくのかが中心だったと思います。勿論、金八先生の厳しさも描かれていましたが、それは、愛ゆえの厳しさだったと思います。生徒たちは恐らく、「あの金八先生のクラスで良かった」と生涯言い続けると思います。私は、「塩である」「光である」というイエス様の言葉も似ていると思います。イエス様は、山上の説教でまず「幸い」をお語りになりました。傷つき、重荷を負い、足りなさを感じながらイエス様のもとに集まって来た人々に向かって、イエス様は「あなたがたは幸いです」っておっしゃったんです。色々なことがある。でもあなたがたはいつも神さまの憐れみと慈しみに包まれていますよっておっしゃいました。これは、あなたは神の民であるという宣言です。そして続けて語られたのが、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」という言葉です。これも同じように、宣言なんです。課題を与えられたのではありません。イエス様は私たちの羊飼いです。私たちはその群れです。イエス様の群れである私たちはここに集まり、み言葉を聞き、聖餐式に与り、整えられて、再び「地の塩、世の光」として遣わされて行きます。モーセという人は、シナイ山で神さまから言葉を受けている時に顔が輝きました。そして、民の前に来た時には、その輝きのために人々は恐れさえも感じたと書かれています。私たちも同じだと思います。直接的な光を放つことはありませんが、福音の光を受けた私たちは、イエス様によって、「地の塩・世の光」となるのです。イエス様はこうもおっしゃっています。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」私たちが、イエス様の贖いに、喜び、神さまの愛を確信する時、私たちの目はまっすぐにイエス様を見るようになり、その輝きが世を照らしていくのだと思います。一方でイエス様は、続けて、少し厳しく感じる言葉をおっしゃいます。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」また、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」この言葉は確かに厳しいですよね。傷口に塩を塗られたように、痛みを感じるかも知れません。イエス様は、こうおっしゃっているんですね。「天の父が完全であるように、あなたも完全なものとなりなさい」このような言葉を聞くと「わたしは“立派”ではないし“完全”でもない」「わたしは立派にもなれないし、完全にもなれない」と嘆きたくなりますよね。では、私たちはイエス様に捨てられるのでしょうか?決してそんなことはありません。イエス様は、最後まで、私たちの善き羊飼いでいらっしゃるんです。大事なのは、律法が語る「完全」が私たちを絶望させるためではなく、そこから福音に気付き、しがみつけるようにさせるために語られているということです。例えば、道路標識が外に掲げられているならば、それを守らなかったら、即違反です。でも、道路標識が外になく心の中にあったらどうでしょうか?道路標識が持つ意味が代わりませんか?道路標識は罪を指摘し、私たちを裁くものではなく、私たちに「何が大切かを思い出させ続ける声」となるはずです。律法も同じです。律法が、外に掲げられていた時、私たちを責め、私たちを有罪にし続けるものでした。しかし、イエス様の十字架によって、律法は「私たちを裁く剣」ではなく「足元を照らす灯」となったのです。律法が無くなったのではありません。無くなれば、何でもOKになってしまいます。そうではなくて、私たちを責めるものではなく、導くために与えられたものとなったのです。「完全であれ」どう考えても無理です。でも、考えて見てください。神さまの目にいつ私たちは「完全」とされたのかを。それは、私たちが努力した結果だったでしょうか。そうではありませんよね。私たちは、イエス様によって完全にされました。洗礼によって、神さまの目に「完全」とされました。今から、約二千年前、イエス様が十字架で勝ち取ってくださった贖いの恵みが、洗礼を通して私たちに与えられました。私たちは神の目前に完全なんです。私たちは、言っていることと、やっていることと、あるべき姿との間にギャップ(隙間)があります。言葉と行いと姿が一致していません。これが罪人の姿です。でも、隙間のない方がおられます。それが、キリストです。
イエス様は、人々を完全に愛し、律法に完全に従い、父なる神さまの前に従順に歩まれました。そして、最後にその完全さを私たちにくださったのでした。十字架でご自身は罪人となり、私たち罪人を義とされたのです。
だから、神さまは、イエス様の衣を着た人を、義人とし、完全とみなしてくださいます。これが、福音で、救いの中心です。「地の塩」、「世の光」でイエス様がおっしゃる言葉に含まれる厳しさは、福音から離れさせたくないため、福音とは何かを知るため、隣人を大切に生きる私たちにするためのイエス様の諭しです。私たちは、「3年B組イエス様学級(羊飼いの群れ)」の生徒と言ってもいいのかも知れません。イエス様は、私たちの問題といつも向き合ってくださっています。私たちの苦しみはイエス様の苦しみでもあります。そして、私たちの喜びはイエス様の喜びでもあります。私たちが、イエス様の前にこうして集まる時、イエス様は「あなたたちと共にいる」と、その確かさを感じさせてくださり、赦しの言葉、励ましの言葉、そして、罪の赦しと霊的パンを与えてくださいます。私たちが、こうして、毎週、日曜日に礼拝に来ることは、毎日学校に通う以上に大事なことだと私は思います。なぜなら、イエス様ご自身と交わるからです。この世の生涯では、私たちは見た目に不完全です。古いアダムが残り、ちょっとしたことに怒り、嫉妬し、憎しみます。敵を愛する力もありません。「駄目なわたし」って思うかも知れません。しかし、その時、イエス様は何とおっしゃるのかと言うと、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」とおっしゃるのです。私たちはまたこの「幸いである」という声の前に座るのです。
私たちが、罪と闘うのは、罪とは何かを教えられるからです。
そして、福音にいかされるためです。私たちは弱い、でも、小さな塩であることは確かです。そして、私たちが輝かす光は、私たちの輝きではなく、確かな光、福音の光です。共に社会は必要としているのです。私たちは、神さまの目には義とされ完全にされています。
そして、復活する時に、本当に完全な姿を与えられます。
「地の塩です」、「世の光です」というのは、課題ではありません。
イエス様の群れに入った者の、必然的な状態です。私たちは、小さな塩でしかないかも知れません。でも、その少しの塩でもとても大事なんです。光も同じです。暗闇ではどんな小さい光でも大事なんです。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」今日の礼拝という「授業」で、主が私たちに語ってくださった言葉です。
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