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おはようございます。
卒業式の時期がもうすぐやってきますね。卒業式といった学校行事では、校長先生やPTAの会長の方がお話をなさいます。その人が前に立ったら「何を話されるかな?」って思いませんか。教会の礼拝では、説教の時に「今日はどんな話かな?」って意識を集中するのではないでしょうか?

その人が口を開いて何かを語るか・・・結構気になりますよね。ルカによる福音書では、イエス様がナザレで、いつもどおりに安息日に会堂に行かれた時の話が書かれています。
イエス様は聖書を朗読されたのですが、その時、開かれた聖書には次のように書かれていました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエス様は巻物を巻き、係の者に返して、皆の前に座られました。恐らく、会堂にいるすべての人が「何を話されるのか?」とイエス様に注目したと思います。その時、イエス様はおっしゃった言葉は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉でした。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した・・・」これは凄いことをおっしゃったと思います。普通の人であれば「聖書の約束はいつか実現しますよ(信仰を持って待ちましょう)」と言うと思います。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時に実現した」とは、普通、誰も言いません。それだけに、イエス様の言葉を聞いた人は驚きました。そして、イエス様がおっしゃる言葉を聞いて、みんな「恵み深い言葉に驚いた」んです。つまりイエス様は聖書で預言されていた救い主として立たれたのです。

さて、場所は変わりまして、今度は、野原に人々が集まってきています。そして、イエス様の話を聞こうとしていました。イエス様が口を開かれて、“みんながイエス様は何をおっしゃるのか”と注目したその時に、イエス様がおっしゃったのは、「厳しい律法の言葉」ではなく「慰め・祝福の言葉」でした。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」イエス様の口からは、「幸いである」という言葉が続いて行きました。それは、聞く人にとって、これまで、宗教指導者が語ることがなかった言葉だったと思います。そしてそれは、遣わされた人、主の霊が注がれた人が語る、慰めの言葉でした。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであら ゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
人々が聞いたのは、旧約聖書で良く聞こえてくる「強くあれ」「雄々しくあれ」「恐れてはならない」そう言った“鼓舞”する言葉ではありませんでした。そうではなく、「心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人・・・」そういった、神さまを信じ、また、信仰に生きながらも、この世界の現実(厳しい状況)の中で、傷つき、嘆き、祈り続ける人に対する慰めの言葉でした。「義に飢え渇く人、悲しむ人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人」とはまさに、イエス様のもとにやってきた人たちが抱えている大きな問いだったと思います。その人々に向かって、イエス様は、「幸いな人よ、父なる神はあなたと共にいます。あなたの神は、見捨てることなく、その神が、あなたを慰め、義を満たし、あなたを助ける」そのような慰めと希望に満ちた宣言をなさるのでした。私たちはこの世界で飢え渇くことが多いと思います。世界を見ても、国内を見ても、また、私達の周りの環境を見ても、「正義」はどこにあるのかって思いますよね。ただ、残念なことに、どこにもないように見えます。理想と現実が違う・・・だから、人は疲れ、失望してしまいます。今日のこの聖書箇所の前になりますが、イエス様は、荒野で悪魔から誘惑を受けられました。皆さまは、悪魔の三つの誘惑を知っておられると思います。

「石をパンを買えたらどうだ」
「ここから飛び降りて見たらどうだ」
「わたしを拝みなさい。そうしたら繁栄を与えよう」の三つでしたよね。
これは、イスラエルの人たちが荒野で神さまに不平を言って犯した三つの罪でもあります。この世界は①食べ物を自分の力で奪い合います。
また、②神さまの存在を認めないか、もしくは疑う世界です。③何より、自分の栄光を求めるのが私たちです。人に従わされるより、人を従わせたいのが私達です。この世界は、3つの誘惑で十分なくらい、この誘惑に振り回されています。私たちはその世界に苦しみ悲しみますが、同時に私たちはその世界を造っている一員でもあります。荒野の誘惑で印象的なのは、イエス様が、「聖書にこう書いてある」と言って、悪魔の誘惑を跳ね除けられたことです。これって、実は、私たちの遠い先祖、アダムとエバが失敗してしまったことと非常に強く関連しています。エデンの園でアダムとエバが失敗したのは「取って食べてはならない。食べると死ぬ」という言葉を疑い、神さまの言葉ではなく、悪魔の言葉に従ってしまったことが原因でした。どんな状況においても、神の言葉より、別の言葉を信じてはいけないんです。神さまの言葉にのみ命があるからです。それを知っていても、私たちは、気づくところ、気づかないところで、自分の思いを信じて行動してしまいます・・・。イエス様の荒野の誘惑、それは、アダムの失敗、荒野のイスラエルの民が失敗してきたことでした。イエス様は、それら全てを克服し、悪魔に負けなかったんです。それは、メシアとして、救い主としてです。“悪魔の誘惑に弱い私たち”。では、イエス様はどんなお方だったのか。自分のために石をパンに変えるのではなく、イスラエルの人達5000人にパンをお与えになりました。また、「果たして神は私たちと共におられるのか」という人類の疑問に対しては、イエス様ご自身が「インマヌエル」つまり「神はわれわれと共におられる」方となられました。そして、この世の考えではなく「父なる神と、父が使わせた御子を信じなさい」とおっしゃり、十字架の姿を通して、命を捧げ、私たちに永遠の命を与えてくださいました。イエス様は、荒野で悪魔に勝利されただけではなく、誘惑に負ける私たちを満たす方でもあります。私たちは、この世界の中で苦しみます。同時に、この世界を形成しているのも私たちです。だから、私たちの心は貧しくなります。ですので、主の祈りで、「御国が来ますように」「御心が・・・」と祈ります。その私たちの前に、イエス様は現れ、口を開かれ「そのような人達よ、あなたがたは幸いである」とお語りになるんですね。次週の箇所になりますが、イエス様は続けてこうおっしゃいます。「あなたがたは地の塩、世の光です」私たちは、弱いながらも世に遣わされて行きます。私たちは、神の慰めを受けて、その慰めを携えて世に遣わされます。敵を愛しなさい、迫害する人たちのために祈りなさい・・・そのイエス様の言葉に立って、私たちは、神の民としての新しいアイデンティティを頂き遣わされていくんです。旧約聖書では「恐れるな」「雄々しくあれ」と神さまは語られ、旧約の民(イスラエルの人たち)は、目に見える敵と戦って来ました。しかし、今、イエス様の前に、集められた人々は、目に見える敵ではなくて、目に見えない敵「罪・死・悪魔」と闘うのです。パウロはこう言っています。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソの信徒への手紙6章12節)。私たちは、“イエス様の十字架の勝利”抜きにはこの戦いには勝てません。イエス様がまずこの見えない敵に勝利してくださったのです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」申命記の「恐れるな」「雄々しくあれ」というのは、「自力で勝て」「歯を食いしばって頑張れ」という意味では本来ありません。父なる神が共にいる。どんな時も共にいる。だから、「恐れるな」と言うのです。今、恵みの年がやって来た今、イエス様の存在が、弱い私たちを神の憐れみを通して「幸い」だとおっしゃり、ご自身が勝利していかれるんです。そのために、必要なのは、「霊的な目」そして「肉の弱さを知ること」だと思います。イエス様を信じた人は、見える栄光や繁栄、勝利ではなく、見えない敵を見て歩むんです。もちろん、私たちの力では勝てませんので、イエス様の十字架の真理、そして、み言葉と祈りを通して、イエス様の後を歩んで行くんです。イエス様は、私たちと共におられます。私たちは、イエス様がお語りになった幸い・祝福の中に、すでに置かれている民なんです。だから、私たちは「地の塩・世の光」として遣わされて行きます。イエス様が勝利し、神の国はすでに来ていること、今も、神がこの世界に福音を広めておられること、そういったことを知って歩むのです。苦しみの中でも、主は見捨てられません。み言葉と聖礼典と共に主はおられるのです。いつも、どんなときも神さまの祝福は私たちと共にあります。


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