宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年1月25日(日)顕現後第3主日礼拝

イザヤ書8章23節~9章3節
コリント人への手紙Ⅰ1章10節~18節
マタイによる福音書尾4章12節~23節


「神の宣教」

説教者 江利口 功 牧師

今日は、「神の宣教」というテーマで、お話ししたいと思います。

今日の聖書箇所は、少し、好ましくない出来事から始まります。「洗礼者ヨハネが捕らえられた」、それを知って「イエス様がガリラヤに退かれて行かれた」そのようなことから始まっています。洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めを語り、新しい時代がすぐそこまでやって来ていることを告げていました。多くの人たちがヨハネのもとに集まって来ていました。今でいう、“リバイバル”を感じさせるような勢いがあったと思います。しかし、そのヨハネが王の命令で捕らえられてしまうんです。新しい何かを期待していた人達にとっては、衝撃だったと思います。「権力って怖いな」「神の力も及ばない」そんな恐れを感じた人も多かったでしょう。確かに、イエス様は、その出来事があって、ガリラヤのナザレに退いて行かれました。でもここでは「逃げる」という単語は使われていません。イエス様はメシアとしての歩みを確保するために、退かれたと読むのがいいと思います。実際にイエス様は後に、カファルナウムという所を拠点にして宣教を開始されています。このことをイザヤは旧約聖書の中で預言していました。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」このイザヤ書の預言は、勝利と喜びへと繋がっていく前段階として書かれています。つまり、闇の中で光は勝利していくという預言なんです。イエス様は退かれたようで、勝利の歩みとなっていくのです。私たちは、昨年「人と人とを繋ぐ」という標語を掲げて一年間歩んできました。私たちは「宣教」を意識し、一年を歩みました。神さまに導くきっかけを探し、語る言葉を整え、その人を招くように頑張ったと思います。確かに、「宣教」と聞くと、「私たちが頑張る」という「私たちの業」のイメージが強いと思います。勿論、そういった働きはとても大事なのですが、聖書を丁寧に見て行きますと、もう一つの視点が見えてきます。それは、宣教の主体は、神さまであるということです。つまり、「神が宣教する」という視点です。私は、中学生の時に聖書と出会い、信じるようになったのですが、やはり、聖書の言葉の鋭さに衝撃を感じました。そして、信じようという思いになったのを覚えています。でもそれだけでしたら、聖書は私が生きるための指針でしかないと思います。でも、聖書の語り掛けはそのようなものだけではありません。イエス様の「迷った一匹の羊を探して連れて帰る羊飼い」の譬え話は「あなたを連れ戻しに来ました」というリアルな神さまの姿が現されています。そして、「見つけたら喜んでその羊を担いで帰る」という言葉は、神さまが近づいてきて、私たちを救うという宣教の本質を語っていると思います。さて、イエス様はガリラヤで、こう宣べ伝えられました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」「悔い改めなさい」と聞くと、私たちは反射的に身構えてしまいます。「わ、厳しいことを言われている。「反省しなさい。生き方を改めなさい。」そんな風におっしゃっている感じがあるかもしれません。しかし、イエス様は、ただ「悪い人間達よ、良い人間になれ」と言っておられるのではありません。イエス様の言葉は、私たちを責めるためではなく、私たちを命へと向きを変えさせる呼びかけなんです(命ある生き方へと変える招きの言葉なんです)。「あの人、言っていることと、やっていることが違うよね」って、そういう言葉、使いますよね。たとえば、「人に迷惑をかけてはいけない」と子供に教えている人が、本人は気づかないまま、周りの人に迷惑をかけてしまっているということがよくあります。この前、ある本で、神学者の人が、このことを分かりやすく表現していました。それは、「隙間」という言葉です。つまり、人間には「言っていること(告白・宣言)」と「やっていること(行い)」そして「その人の在り方(生き方・存在そのもの)」、この三つの間に「破れ」があるというのです。言っていることは正しいのに行いが伴わない。これは正しいと思っているのに行いに繋がらない。行いは立派に見えても心は別の所にある。あるいは、本人が願っている姿を、現実の姿が一致しない。そういう食い違いが私たちの中には必ずあって、それが全くないのが、イエス様だけなんですね。イエス様は、語ることと行うこと、そして、存在そのものが完全に一致していました。ですので、聖書が罪というのは、こういう不完全さのことを言うのだと思います。パウロはこんな風に言っています。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(ローマの信徒への手紙7章18節~20節)「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない・・・」パウロは、人の目には非の打ちどころのない人だと思います。でも、そのパウロでさえ、100%愛に生きることができないと言っているのだと思います。聖書は私たちに「完全であれ」と言います。勿論、罪と闘うことは大切です。けれども、その目的は「自分の力で完璧になる」ことではありません。むしろ、私たちは、どれだけ頑張っても、自分の力では埋めることができない「隙間」がある・・・それが現実であるということを知るんです。そして「自分はできる」という思いを手放し、神さまの恵みに向き直るように招かれているのだと思います。これが聖書のいう完全になります。悔い改めとは、不完全な“わたし”を助け出そうとしている神さまの手を取ることです。さて、「宣教」と聞いて、私たちが思い起こすのは、イエス様の宣教命令の言葉ではないでしょうか。イエス様は、こう言われました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイによる福音書28章19節~20節)ここで特に注目して欲しいのは「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」という言葉です。

洗礼は、「悔い改めました。生き方を変えます」という決意をみんなの前で表明する儀式ではありません。また、神さま抜きで行われる、形だけの儀式でもありません。洗礼とは、神さまご自身が、その人を三位一体の神さまの交わりの中に取り込んでいく出来事なんです。小学生の理科の授業で磁石について習ったこと覚えておられますか?磁石を近づけると釘がひっつきます。これだけでも不思議なんですけど、さらに不思議なのは、磁石に引っ付いた釘が、別の釘をくっつけるようになるんです。釘は磁石ではないのに、磁石と結ぶ着くことで、あたかも磁石のように見え、磁石のような働きをするんです。わたしは「洗礼」も「聖化」も「宣教」も、これに似ていると思います。私たちは洗礼によって、三位一体の神さまと結び合わされます。そして、イエス様と一つとなっていること自体が聖化なんです。イエス様は、「わたしに繋がっていればあなたは豊かな実を結ぶ」とおっしゃっています。さらに私たちは、イエス様の宣教の働きにも参与するんです。つまり、大切なのは、「私はイエス様」ということを意識することだと思います。弟子達に命じられた宣教についても、イエス様は、先ほどの御言葉の後、こう約束されています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」これは、弟子達の宣教の業にいつも神さまが共におられるという意味です。

弟子達は、このイエス様の約束の中で、宣教に出て行きました。使徒言行録を見ましても、フィリポがエチオピアの宦官のもとへと導かれたのは「聖霊の導き」でした。また、弟子たちが迫害の中で弁明する時でも「聖霊が言葉を与える」から大丈夫であると約束されていました。宣教は、弟子達の力だけで行われたのではなくて、主が共におられる現実の中で進められていたということがわかるかと思います。ある有名な神学者は宣教の危険性を指摘していました。それは、知らず知らずのうちに、手応え主義になってしまうことでした。教会の成長という手応え、相手の性格を変えられたという手応え・・・そういった「わたしの手応え」が混入した瞬間、宣教の言葉は人間の言葉となり、救う気持ちが、相手への介入・支配・利用というものに変質してくと言うのです。エスさまは、父より救わされた御子でした。イエス様はいつも「自分の力」ではなくて、「父の御心」を求めて歩まれました。しかも、「あなたとわたしは一つ」このことを何度もおっしゃっておられます。そのイエス様が父なる神とともに遣わしてくださったのが聖霊という神さまです。聖霊なる神さまも、父と子と共に、働かれています。今日の聖書箇所は、洗礼者ヨハネが捕らえられるという、衝撃的な出来事から始まりました。それは一見すると、この世の力が神の力を押し返してしまったかのような始まりです。けれど実際には、神の国は静かに、人を罪と悪から救い出すために、動き続けていました。神さまのご計画は止まらないのです。イエス様は、ガリラヤから宣教を開始し、弟子達を呼び集め、そして、福音を告げ知らせて行きました。その道は、最後には、洗礼者ヨハネが投獄されたように、イエス様も捕らえられ、十字架にかけられてしまいます。しかし、そこに神の力が最も豊かに表されました。イエス様の死によって、私たちの罪は全て赦され、死の縄目が解き放たれ、悪魔の支配は滅びに至りました。「神の宣教」それは、神さまがこの世界をもう一度造りなおして行かれる、再創造の御業です。そして、その再創造は、イエス様によって現実となり、今も、その御業は続いています。私たちはその宣教の中に、洗礼によって入れられ、イエス様と結び合わされ、イエス様と一緒にその働きについているのです。