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おはようございます。私たちは、礼拝の聖餐式の中で「アグヌス・デイ」を歌いますよね。これは日本語に訳すと「神の小羊」という意味です。まさに、今日、洗礼者ヨハネがイエス様を指して言った「神の小羊」という言葉そのものです。この「アグヌス・デイ」は礼拝の中で古くから歌われてきました。
起源は6世紀から8世紀にまで遡ると言われています。そして、大事なのは、聖餐式の時に歌われる、この「アグヌス・デイ」という賛美は、聖壇に準備されているパンとぶどう酒が、世の罪を取り除く神の小羊に他ならないということを告白している歌であり、何より、イエス様が「罪の赦し」と「平安」とを私たちに与えるために、ここに臨在されていることを歌っている大切な賛美であるということです。もし、イエス様が、洗礼も聖餐も残してくださらなかったとしたら、私たちは十字架の恵みを、どうやって受け取るのでしょうか?過去の出来事を想起して「きっと私は赦されている」と自分に言い聞かせるのでしょうか?でも、それって確信はずっとありませんよね。平安はないでしょうし、喜びが沸いてくるのかどうかもわかりません。そして、イエス様は遠い存在となってしまいます。でも、イエス様は、そんな風にはなさいませんでした。私たちを愛してくださるイエス様は、救いの恵みを今、実感できるように、受けとることができるように、水と共に、パンとぶどう酒と共に、今でも恵みを手渡してくださっているのです。これほど大きな恵みは他にありません。
イエス様は、今も生きておられ、今も私たちと共におられるのです。もう一つ大事なことがありまして、それは、「アグヌス・デイ」の賛美の中で、「憐れみたまえ」「安きを与えたまえ」と歌っていますよね。このことからわかるのは、イエス様が「私たちを憐れみ」、「安きを与える」ために、主の晩餐を定めてくださっているということが解ると思います。ルカによる福音書のイエス様の譬えの中に、神殿で祈る、ファリサイ派と徴税人の話がありますね。神殿で祈る二人。ファリサイ派の人は自分の正しさを誇り、どれだけ自分が神の前にどれだけ正しく生きているのかを並べ立てます。一方で、徴税人は遠く離れたところで、胸を打ちながらこう祈ります。「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」。イエス様はこの譬えを義と平安にすると判り易いと思います。最後こうおっしゃいます。「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」(ルカによる福音書18章)この喩えは、「アグヌス・デイ」を歌う、私たちの姿ととてもよく重なります。私たちは、「アグヌス・デイ」で、「憐れみたまえ」と祈ります。これは、神を畏れ愛し生きている私たちですが、今一度、神の前に出て、赦しと愛を受けとるために必要な言葉です。
また、最後に「安きを与えたまえ」と願います。「安き」とは、ただ気分が落ち着くということではありません。神さましか与えることが出来ない、魂の平安を願うわけです。イエス様の譬えで用いられていた言葉をお借りするならば、「安きが与えられて帰る人」とは、主の前にしかない恵みに「憐れみたまえ」と近づき、それを受けとる人なんです。今日、聖餐式をこの後行いますが、この天から与えられる恵みを「私と神さまとの関係において正しく受け取る時」に、私たちは、神さまが与えてくださる平安を頂いて帰ることができるんです。イエス様は、ご自身の体と血をもって私たちのもとに来てくださいます。
「自分の存在に自信がもてない時」「様々な不安の中にある時」、「アグヌス・デイ」という賛美は、私たちの視線を自分自身から主へと向け直してくれるんです。私の信仰の強さが、平安を造りだすのではありません。主の臨在が、主の愛が、私たちを内側から支え、変えていくんです。さて、今日の聖書箇所を見たいと思います。洗礼者ヨハネはイエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。この「神の小羊」という言葉は、聖書の“福音”を語るうえで中心的な言葉です。「小羊」という言葉については、後でお話したいと思いますが、まずは、「神の」という言葉に着目したいと思います。
「の」という言葉は、色々な用法があるので、「何とかの何とか」と書いてあるだけでは、意味がつかめきれません。この「神の小羊」というのは、単に「神に属する」という意味だけではなく、「神が選んだ小羊」、「神が人のために備えられた小羊」、「神が遣わされた小羊」という意味を現しています。
これが、神の子羊と短く書かれている意味になります。そして、「小羊」という言葉ですが、これは、聖書の中で、とても大きな意味を持っています。
一つは、民を救うために備えられた犠牲を象徴します。イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しんで生活していました。神さまはその姿を憐れみ、モーセを通してその民を解放されますが、その時、「小羊」が用いられました。神さまは民に対して、「小羊を屠り」、「その血を家の鴨居に塗り」、家の中で、「その肉を食べるように」命じられました。そして、滅ぼす者がエジプト中を巡る時、その血は「しるし」となり、災いはその家に及ばないとおっしゃいました。実際にそのようにしたイスラエルの民は助かりました。つまり、小羊の血は、神さまが民を救い出される時に、救いの目印となっていたのです。
また、彼らがエジプトから解放された後、民が神の民として生きて行く時に、日毎に犯す罪が大きな問題でした。神の民であっても、罪は罪だからです。
そのために、罪の赦しの犠牲が必要とされていました。その時にも小羊がしばしば用いられてきました。ですから、「神の小羊」とは、罪の赦しを与える犠牲の動物、犠牲の子羊という意味を持っているのです。さらに、「小羊」という漢字に注目して欲しいのですが、「子羊(子どもの羊)」ではなく、「小さい羊」と書きます。これは、日本語だけのことだとは思いますが、「小さい羊」と書く時には、これは、「若い」ではなく、「小さい(弱々しい)」という意味を表しています。弱々しいということに関しては、実際にイザヤ書の中で、苦難を背負う人を象徴して描かれています。イザヤ書にこう書いてあります。『わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。』(イザヤ書53章6節~7節)
洗礼者ヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」と言った時、聞いている人達には恐らくこういった聖書的な背景が響いてくると思います。洗礼者ヨハネは確かに罪を指摘し悔い改めるように語ります。厳しい言葉を言っていました。
しかし、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ということでヨハネは、「その人の罪の赦しを与える方が私たちに与えられました」という福音のメッセージを語るんです。;神さまは、単に「罪を赦しましょう」と言って終わる方ではありません。神さまは正しいお方ですから、罪をそのまま見過ごして「なかったこと」にすることができません。罪と必ず向き合って処理なさいます。そこで、神さまがなさったのは、その罪を担い、裁かれる人を備えることでした。
それが、イエス様でした。しかも、イエス様は、「世の罪を取り除くために」、犠牲になるだけではなく、罪がもたらす現実(痛み・苦しみ・恐れ・孤独・・・)そういったものをも背負って歩んでくださったのです。先ほど、「小羊」という言葉には、弱さを象徴するとお伝えしました。罪のために捧げられて来た小羊は、「無垢」の象徴だったのですが、同時に「弱さ」の象徴としても描かれています。犠牲の動物には、牛もありました。ですから、「神の雄牛」でもよかったはずです。しかし、イエス様は、強さや雄々しさで救いの道を開かれることはありませんでした。イエス様が、馬ではなく、ロバに乘って、エルサレムに入城されたように、イエス様が罪を背負って十字架で死んで行かれる歩み(その姿)は、まさに、弱々しいお姿、小羊のような姿でした。弱く見える姿に、神さまの大きな御業が顕されて行くのでした。なぜ、「神の雄牛」という強さではなく「神の小羊」という弱さが福音の中心メッセージだったのでしょうか?それは、人を内側から変えることができるのは、愛だからです。
強さは人を外側から従わせることはできても、内側を変えることはできません。神さまは愛することで内側から私たちを造り替えようとされるのです。パウロはこう言っています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリント人への手紙Ⅱ8章9節)パウロは、イエス様が経済的に貧しくなられたということを言っていません。神の子が、低くなられた、十字架の死に至るまで低くなられた、さらに、人々に侮あなどられ、蔑さげすまれ、苦しみ、痛みを負って死んでくださった。この貧しく、弱く見える歩みによって、私たちは神さまとの関係が元に戻され、命が豊かにされ、また、愛を知ったのだと言っているわけです。また、こうパウロはこのように言っています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」(コリント人への手紙Ⅰ1章4節~5節)私たちが、聖餐式の「アグヌス・デイ」を歌い、「憐れみたまえ」「安きを与えたまえ」と祈り願うのは、イエス様が私たちのために低くなられ、十字架で死んでくださった・・・そのことで恵みを、今、ここで、私の事として受け取るためにです。誰かが信仰者が歌う「アグヌス・デイ」聞いた時に「この人達は、ここに、憐れみと平安を与えるキリストの体と血があると本当に告白している」そのように思って貰える程の、私たちの思いがこもっているといいですね。今日、覚えて頂きたいことはこれです。洗礼者ヨハネはイエス様を見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。その「神の小羊」の恵みを、教会は約二千年の間、世代を超えて、聖餐式の中で受け取り続けてきました。そして、私たちも同じ恵みの中で生かされています。
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