|
お早うございます。今年も一年間、聖書を語って行きたいと思います。
街中を歩いていますと、本当にいろいろな音や声が耳に入ってきます。
でも、その一つ一つの音や声を、私たちは認識しているわけではないと思います。でも不思議ですね。「チャリン」という音がすれば、その音を聞き分けて「お金が落ちた」って体が反応してしまうんですよね。これって、私に限ったことではないと思います。また、雑踏の中で、色々な人の声がある中であっても、誰かが「お父さん」と呼ぶと、その声を拾ってしまうことがあります。
特に、子供の声に似ていると、無意識に体は反応してしまうんですよね。これ、例え声が似ていても「おじいちゃん」と言う声には私は反応しません。もっと凄いなと思うのは、赤ちゃんはお腹の中にいる時から、母親の声を認識し始めているそうです。ですので、生まれた時には、母親の声を知っているんですね。ですので、赤ちゃんは母親の声を聴くと安心するそうです。赤ちゃんは、言葉を理解しているのではありません。でも、生まれてくる時に自分の命の源である声を認識して生まれてくるんです。実は、救いもこれと似ています。私たちは、自分の力で神さまを選び取るのではなくて、「キリストの言葉(イエス様の招きの言葉)を聞くことによって」私たちは目覚めるのです(ローマの信徒への手紙10章17節)。このことと深く関係したことをイエス様はおっしゃっています。イエス様はおっしゃいました。「羊飼いは羊の名を呼ぶ」「羊は羊飼いの声を聴き分ける」「羊はその声を知っているので羊飼いについていく」これが、神と私たちの関係を表しています。聖書は、私たちがキリスト教を選んだのではなく、神が私たちを御許に集めておられると教えています。今日、皆さまにお話ししたい、「神の選び」ということにも深く結びついています。信じるということは、私たち人間の力で生み出せるものではありません。人が造り出せるものではなく、神さまの創造的なみ業なんです。エフェソの信徒への手紙には、このような言葉があります。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。(エフェソの信徒への手紙1章4節)「天地創造の前に・・・お選びになりました」とありますが、ここでパウロが伝えようとしているのは、「いつ、私たちが選ばれたのか」という時間のことを言っているのではありません。パウロが伝えようとしているのは、「救いは偶然ではないんです」ということ、「あなたが頑張って辿り着いた」のでもなく「親がクリスチャンだったので」ということでもなく「永遠の昔からの神の選びだった」とパウロは語っているんです。そしてもう一つ大切な言葉があって、それは「キリストにおいて」という言葉です。神さまの選びは、「キリストの愛を通して豊に現されました・・・」このことを語っているのです。まさに、このことが恵みであり、福音の本質なんです。この慰めに満ちた福音の本質ですが、なかなか伝えにくいんですね。例えば、こういう風な感じの証しを聞くことがあると思います。「わたしは人生に悩んでいました。その時、友人に誘われて教会に行きました。そして、聖書の話を聞いて、学んで、イエス様を信じようって決心しました。聖書を信じて、み言葉に従って生活するようになり、喜びに満ちて生きることができるようになりました」このような証しを聞きますと、主の素晴らしさを賛美したくなりますよね。この証は、とても分かりやすくて、福音の素晴らしさを表現しているのですが、ここに一つの危険があります。それは、救いの物語の主体である“主語”が、知らない間に“私”になってしまうことです。先ほどの証し、「わたしは人生に悩んでいました。その時、友人に誘われて教会に行きました。そして、聖書の話を聞いて、学んで、イエス様を信じようって決心しました。聖書を信じて、み言葉に従って生活するようになり、喜びに満ちて生きることができるようになりました」この言葉は、「私が人生に躓つまずいた時」「私の友達が教会に誘い」「私が教会に行こうと決めて」「私が友人と一緒にいったら」「そこで聞いた話に私は感銘を受けて」「私は学び」「私は信仰を持った」という風に「私が主体」として、聞こえてきますよね。
そのまま進むと、神さまからは遠ざかって行きます。間違ってはいなんです。このような時の流れを通して多くの人が救われて行きます。とても良い証です。ただ「福音」の本質を表現しきれていないんです。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。(1章4節)パウロは、福音を語る時に、主体を「神」にしていますよね。他にもパウロはこう言っています。11節「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」13節「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」14節「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」
今日、お読みした、ヨハネも福音の本質を語るときに、主体を神にすることを徹底しているのが分かります。10節「世は言によって成った。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」11節「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」12節「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」と言っています。「私は信じた・・・」「素晴らしさに気づいて信仰を持った・・・」これは間違いではありません。ただ、信仰が偶然だったり、突然の出来事であったり、私の人生の中でのあるきっかけであったりするなら不安定になってしまいます。「聖霊が、福音によって、私たちの目を開き信仰へ導いてくださった。」これが事実ですし、実は、主体を神さまにすることは、私たちの人生を大きく変える力となるんです。また、何かあった時の大きな慰めにもなるんです。さて、私たちは、昨年、「神と人とを繋ぐ」という標語を掲げて一年間歩みました。私たちは、何とか、周りの人に信仰を持ってもらおうと頑張ります。でも、中々、信じてもらえないもどかしさも経験されてきたと思います。外国にはこういう言葉があるそうです。「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」これは一般的には、「人に助言しても、それを受け入れるかどうかはその人しだい」「環境を整えてあげることはできても、私たちには、その人の意志までは支配することはできない」そういったことを言うことばです。でも、これは、信仰の一面も現していると思います。私たちは、福音の素晴らしさ、力を良く知っています。
神の愛、キリストの愛も実感しています。水辺というものがどれだけ素晴らしいものであるのかを私たちはまず実感しています。大事なのはその上で、人を水辺に招くんです。しかし、そこからは、神の業です。確かに、信仰を無理に起こさせることはできません。けれども、神の御言葉は「聖霊が働く」ことによって人に信仰を呼び起こすのです。ここに、「名を呼ぶ神の声と応答する人の魂の関係」があります。確かに人は拒むことはできます。宣教することに無力さを感じることも多々あります。ただし、私たちは、神の声はその人に信仰を呼び起こすということを信じて、水辺に招くことに励むんです。一緒に、この水を飲んで欲しいという願いを持って水辺に招くんですね。そして、祈るのです。水を飲んでいただけるように、そこからは、神さまとその人との関係です。人は拒む力を持っています。それは罪が人を支配しているからです。
私たちは「信じたらこうなりますよ」という語り掛けをしがちですが、「神さまがあなたを守ってくださっているから大丈夫ですよ」という神さま主体に表現が大事です。また、「こんなこと言って大丈夫かな」と思ったとしても、勇気を持って「あなたの罪のために、キリストは十字架に架かってくださいましたよ」という風に言う勇気が必要です。もしかしたら、「あなたの罪のために、キリストは十字架に架かってくださいましたよ」と言える状況(言える環境)に持っていくのが福音宣教の第一歩なのかも知れません。今日、色々なことをお話しましたが、『あなたは生まれる前から神に選ばれキリストの愛に包まれていました』このことを忘れないでください。これは、魂を潤す水のように、あなたの生きる力となります。
(祈り)
私たちの創造主であり、救い主である神さま。あなたは不思議な御業によって私たちを造られ、さらに、御子が人となられることによって、私たちの人間としての姿を、なおいっそう豊かに回復してくださいました。どうか、私たちが、私たちと同じ者となってくださったキリストのうちに、いつも生きる者でいさせてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。
|