宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
2026年 1月1日(木)降誕後第1主日礼拝

民数記14章1節~10節
マタイによる福音書8章23節~27節


「さあ 漕ぎ出そう」

説教者 江利口 功 牧師

 新しい年が明けました。皆さまと共に、こうして一年の始まりを迎えることができたこと感謝いたします。この一年も、皆さまの一歩一歩の歩みが、主に支えられますように、お祈り申し上げます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」このみ言葉は、イエス・キリストが受胎された時に、マリアの夫ヨセフに語られたみ使いの言葉です。では、どうしてヨセフは恐れたのでしょうか?何を恐れたのでしょうか?一つは、マリアを公にさらすかどうかの選択、また、受け入れた時の世間の評価、そういったことだったと思います。二つ目は、正しく生きて来た自分、正しさを大事にしてきた自分がそれを失うということ。そして、三つ目、神の子を受け入れるという畏怖いふの念だった思います。私たちが何か受入れられないことがある時って、背後に「恐れ」があったりします。それは、「恐怖」の恐れではなくて、失いたくない何かです。ある時、イエス様と弟子たちが共に舟に乘って、ガリラヤ湖を渡っておられました。すると、急に激しい嵐が起こり、舟は波に呑まれそうになります。舟は波で水が入り込む程で、漁師であった弟子たちでも恐れたようです。ところが聖書を読みますと、イエス様は、そのような状況の中で「眠っておられた」んです。弟子たちは、「沈むかも知れない」そして「死ぬかもしれない」という恐怖に包まれていました。それは、「嵐と波」を見ていたからなんですね。では、イエス様はどうして眠っておられたのでしょうか?それはイエス様が「疲れてぐっすり眠っていた」からというわけではなくて、父なる神さまを良く知っておられたらです。天の父が、この世界を治め、支え、保ち、そして、一人一人を愛し、その人の人生を支え、導いておられることをとてもよく知っておられたからです。弟子たちは迫り来る「風と波」を見て恐れたのですが、イエス様は、自分の運命を下支えしている「父」を信頼しておれたんです。

イエス様は、弟子たちにこう言っておられます。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」恐れと信仰と深く関係しているんです。イエス様は、人々に「明日どうなるか・・・と思い煩ってはいけません」「野の花、空の鳥をよく見てみなさい(じっくり観察しなさい)」とおっしゃり、生き物に深く関わっておられる神さまを信頼しなさいとおっしゃいました。私たちから生じる「恐れ」も「思い煩いも」一つのことと深く関係しています。さて、嵐を恐れた弟子たち。「なぜ怖がるのか」とおっしゃったイエス様、私たちは、このイエス様の言葉を聞いて、もしかしたら、「そうだ、信仰があるんだから、こんな時でも恐れてはならない」と自分を打ち叩かなくてはならないって思うかも知れません。しかし、聖書は「迫りくる何か」に「不確かな信仰で突入していく」ことを言ってはいないんですね。信仰とは、「波を見ても恐れない」ことではありません。信仰は、目の前に迫る恐怖よりも、もっと、力強い現実、つまり、父なる神が共におられるという「確かさ」に立つことです。海に、小舟を浮かべたとします。天候が悪く、海が荒れていると、小舟は大きく揺れます。海が荒れている(水面が激しく波打っている)というのは「現実」ですので見て見ないふりは出来ません。確かに怖いと思います。でも、「もう一つの現実」がありまして、それは、舟の底に働いている力「浮力」です。学生の頃に学びましたが舟は、底から舟を押し上げる力が働いているから浮いているんですよね。舟に安心して乗ることが出来るのは、下から舟を押し上げている力があるからですが、そのことを意識することは少ないかと思います。私たちの人生も似ているかなって思います。私たちは、迫り来るものに「恐れ」を抱きます。

見える現実ですね。もしくは、漠然とした「不安」があります。でも、私たちの「人生」も「運命」も下から支えている大きな力があるんです。それが、全知全能の神、天地の造り主である神、私たちに命を与えてくださっている神さまの力です。弟子たちは、湖が荒れたときに、視野が狭くなり、風と波しか見えなくなりました。「もう駄目だ」って恐れました。でもイエス様は、同じ状況でも眠っておられます。なぜなら、自分の命も人生も全て、父の御手の中にあるということを知っておられたからです。目の前の現実は、弟子たちと一緒。でも、恐れないのです。具体的な不安を持って新しい年を迎えた方(どうなるんだろうという不安を持っている方)、また、進学や就職、引っ越し、など、色々な舟出のような年である方もいらっしゃるかと思います。また、「健康」「家族」「仕事」・・・と、漠然とした不安を抱いておられるかたもいらっしゃるかと思います。もしくは、この一年の途中に、嵐のような何かに見舞われることあるかも知れません。信仰によって目の前の波は消えません。しかし、信仰によって、舟底から舟を押し上げている力を知るんですね。これが、私たちの力。一歩、進み出ることができる勇気になります。信仰は、波を消すことでも、怖い波を「怖くない」と言って、歯を食いしばることでもありません。私たちの人生も運命も下から支えている、神さまの御手の力(底から押し上げている力)があるんです。この力を信頼して、受け入れ、進んでいくのです。今日、旧約聖書の民数記を見ました。これは、イスラエルの民がカナンという土地に入っていく前に、12人の偵察部隊がカナンに送りこまれた時の話です。12人は現地に入り、その土地の様子を見ました。確かに豊かな土地です。でも、堅固な城壁や恐ろしい人達を見ました。その状況を見て、10人は「駄目だ」と思いました。「無理だ」「闘えば殺される」そう思ったのです。強そうな民、堅固な城壁を見て、彼らは怖気おじけづきました。彼らは、ただ「現実」だけを見たんです。弟子たちが、嵐を波だけを見て恐れたのと同じです。恐れは視野を狭くし、選択を拒んだり、躊躇させたりします。しかし、ヨシュアとカレブは違いました。彼らは、「状況を見ないふり」をしたのでもなく、また、「怖くない」って思ったのでもありません。強い民がいる事も知っていたし、堅固な城壁も見ました。自分たちの力では無理だって実感したと思います。でも、彼らは、波と風を見ながら、人生を下から押し上げている全能の神の力を知っていたんです。「主が共に闘われる」そのような信仰が彼らを支え、体を前に傾け、一歩前進させているんです。信仰は「怖いものに鈍感になること」ではありません。それは無理です。そうではなく、私たちの人生とそして運命をも持ち上げている神の御手を知ることです。そして、人となられた神、イエス・キリストを知ることです。弟子たちの恐怖はイエス様が嵐を鎮めることでなくなりました。「いつもあなたがたと共にいる」と言われるキリストが私たちと共におられるという信仰もまた力となります。日本では、多くの人が元日に初詣でをします。でも、多くの人がその時だけの参拝になっていると思います。そして、その時だけ、「家内安全」「商売繁盛」って願います。でも、それではご利益信仰です。やはり、定期的に神の御前にでる。このことが大事です。イエス様はいつも父なる神さまと繋がっておられました。日々の礼拝がとても大事なんですね。新しい一年が始まりました。波や風は人生に付き物です。漠然とした不安や恐れも必ずあります。これは、現実です。しかし、私たちにはもう一つの現実があて、それは、舟を下から押し上げる力です。全知全能の神の御手が私たちを支えています。そして、弟子たちが、恐れながらも、神の力を知っていったように、私たちも、色々なことを経験して、神さまに出会っていくのだと思います。最後に、パウロの言葉をお読みします。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマの信徒たちへの手紙8章28節)。パウロは、信仰を持つと、何も問題が起こらないと言っているのではありません。「神さまを信じれば何も悪いことは起こらないはずだ」これは、悪魔が用いる言葉です。そうではなくて、善い事も、悪いことも、私たちには等しく起こります。でも、私たちはどんなことでも、必ず益となるようにしてくださる神さまがいる。この現実の中で生きているということを知っているのです。私たちはそのような神の民なんです。私たちの人生、また、運命、それを下から支えて沈まないようにしてくださっている神の御手があるから大丈夫です。