おはようございます。
毎日、お祈りなさっていると思いますが、皆さまはどのようなことを祈っておられますか?また、どのような思いで祈っておられるでしょうか。今日は「不正な裁判官」の譬えを見ていますが、今日、私たちが受け取るべきこと(イエスさまが教えようとされていること)は、1節にありますので、是非、心に留めてください。こう書いてあります。
『イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。』(18:1)
「諦めずに祈るのは大事だってことは良く分かっています」と思われるかも知れませんが、今日は、もう少しそのあたりのことをお話したいと思います。
さて、私たちは、「祈りの力」「祈りの大切さ」について学びます。イエスさまは、「求めなさい」「探しなさい」「門を叩きなさい」とおっしゃいます。パウロはフィリピの信徒への手紙4章6節で『どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。』と教えています。祈る事の大切さは聖書で何度も出てきます。
でも、私たちはそうとは分かっていても、祈りが遮られてしまうことがあることも知っています。一つは、「忙しさ」ですね。もう一つは、「諦め(祈ってもこの願いは叶わない)」、そして、もう一つ、「外からの力(悪魔の働き」です。
人生色々なことあるかと思います。クリスチャンになったら問題がなくなるのではありません。むしろ、クリスチャンになってから「何で?」と思うことが多く起こる気もします。神さまのお考えとしては、意味があるのだと思いますが、「何で」と思うこと多いですよね。
悪魔は、そのような時に「何で私がこうなるのか」という強い思いを起こすようにし、その人から神さまへの「期待」、「信仰」を奪い取ろうとします。しかし忘れてはならないのは、イエスさまは私達にそういう時こそ、「祈りを篤くしなければならない」とおっしゃるんです。
イエスさまは、試練があれば「神さまへの信頼を篤くしようと祈られます」でも、私たちは、試練があれば「神さまへの信頼を諦めようとします」。そこが違うんですね。失望せず、祈り続けることが大事なんです。
私にとって、クリスチャンであることの喜びの一つは、色々な方々に「祈って頂ける」ことです。病気の時も多くの方が「私のために」祈ってくださいました。多分、私が祈るのを忘れていた時も、他の人は祈ってくださっていたと思うんです。私も皆さまのこと日々祈っているのですが、もしかしたら、私が祈っている内容を、その方は祈っていないかも知れません。でも、私は、絶えず祈っています。逆に言えば、私が祈っていない自分のことでも、皆さまが祈ってくださっていると思うと不思議に感じますし、嬉しいです。
祈りあえる、自分が祈ることを辞めても、他の方が祈ってくださっている。これは、クリスチャンとして歩むうえでの、強みと言いますか、喜びですよね。
話を戻しまして、今日のイエスさまの教えに耳を傾けて行きたいと思います。イエスさまは、『気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと』を教えておられます。「祈らなければならない」と強くおっしゃっていることを忘れないでくださいね。
イエスさまは、何を祈り続けなければならないとおっしゃるのか・・・。それは、私達の中にある、色々な願い事の中でも、特に、
この世を支配する悪魔の力、私たちのこの世界をダメにしてしまう悪の力です。このことに対して、絶えず祈りなさいということです。
イエスさまはそこで、一人のやもめを登場させます。やもめというのは、夫を失った人のことですが、当時、社会的に弱い人の代名詞でした。神さまは、律法によって、やもめや孤児を保護するように命じておられます。でも、どの時代もそうです。そのような弱い者を憐れむことなく、自分の私腹を肥やす人が多かったのが事実でした。悪の力は、弱い人達から生きる希望を失わせていくんです。
このイエスさまの譬え話に登場する、裁きを行う、裁判官がどうしようもない人で、彼については、こう書かれています。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。」
彼は、やもめの訴えを、鬱陶しいと思って、取り合わないんですね。裁判官は何のために存在しているのかって誰でも思います。でも、彼女の権利を保護するつもりはまったくないんです。
でも、あまりにも、彼女がしつこく訴えてくるので、最後には、「自分がしんどいから」、彼女の権利を回復してやろうと思い腰を動かしたというのです。最後まで自分中心です。でも、このような人って、この世に沢山いるとは思いませんか?
この前、上の娘の大学に行ってきました。キャンパスを久しぶりに歩き、娘と一緒に研究室の廊下を歩いて、実験室とかを案内してもらっていたのですが、懐かしい思いに浸ることができました。古巣に戻ると前途が明るく感じていた頃の自分に戻れました。「未来に希望を抱いていた自分」その感覚に戻ることができるのですが、同時に、社会に出て、「え、なにこれ」って幻滅した自分も思い出すことができました。社会の現実ですね。その時の私は、「住民のため」「弱い人のため」に働けることに希望を抱いていました。でも、公務員になって見たのは、そんなきれいな世界ではありませんでした。この裁判官のような人いるんですね。
権威を持つ人達が、こんな風であれば、人々は「生きることに希望を持つことはできません」よね。特に、一国のトップに立つ人が、私利私欲にまみれ、人の意見を聞かず自分の思い通りにする国である場合、国民は最悪です。働く意欲もなくなるでしょうね。生き方もすさんでくると思います。
また司法が崩れると、その国の正義は完全になくなってしまいます。司法はある意味「要」だと思います。ですので、裁判官が正しく裁こうとしないとなると弱い人たちは生きる希望を失ってしまいます。
ただ、イエスさまは、権力者よりもさらに上に権威を持つ神を信じ、神に希望を持つようにおっしゃいます。そして、希望を失わず、祈り続けるようにとおっしゃいます。ですので、今日の聖書箇所でイエスさまが何について祈るようにしなさいとおっしゃっているのかと言いますと、それは、私の個人的な願いをはるかにこえたもっと大事なこと・・・。
それはこの世の正義、そして悪がはびこる世界に対する神の裁きです。
この世界は、悪魔が支配しています。私達一人一人の心を悪魔が支配しているので、この世界はどうしても、悪い方向へと進みます。そうなれば、人々から希望は無くなっていきます。これからの時代、本当に目に見えて、ひどい世界になっていくのかも知れません。でも、聖書は、この悪魔の支配の上に、神の権威が「でん」とあって、この悪魔の支配は一時的なものでしかないと教えているのです。つまり、希望を持てとおっしゃるのです。神の右に座す、キリストに信仰を持ちなさいと教えます。
悪魔は、最後、完全に滅ぼされます。これは事実です。私たちは、その事実を知っています。ただ、今、私達の目には、悪が勝利しているように見えますし、お先真っ暗とも思えるような世界が広がっています。
だからこそ、私たちは、神に「主よ来てください」と祈りつつ、同時に、この世界を良い世界に変えて行こうと努力するのです。
この世界には、貧困、戦争、虐待など様々な「弱者を苦しめ」、「希望を失わせる」ような事象が沢山あります。それは、単に悪い人がいるのでそうなっているのではなく、この世界を悪魔が支配しているからそうなっているんです。もちろん、私達一人一人の中にも悪の根があるのは事実です。どうしても、そのような善い世界を実現することができなんです。
小さい頃、兄弟たちの争いがある時には、「お父さんに言うからな」と言うことで問題が解決することがありました。小学校に入ると、「先生に言うからな」って言っていました。社会人になると、「警察に言うぞ」と言います。いつも、上に立つ権威者の名を使いました。私たちは、今、相手にしているのは、悪い人だけではありません。悪魔そのものです。ですので、私たちは、神さまに「何とかしてください」と祈り続けるのです。それは、希望ではなくて、ほんとに神さまがその力をもっておられるからです。
イエスさまは、おっしゃいました。
『神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。』
これは、神さまの時があって、その時になれば、すみやかに神さまは来られるという意味です。つまり、神さまは、この世界を放ったらかしにしているのではなく、時を待って準備しておられるんです。その時が来たら、一瞬にして、裁きがくだされる・・・これが聖書の約束です。でも、それまでには、時間がかかるようです。なぜかは分かりません。ただ、イエスさまは、祈り続けなさいと教えておられます。諦めてはいけない(諦める必要がない)ということをおっしゃっています。ただ、イエスさまはこうもおっしゃっています。
『しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』
これは、その時が来た時に、「平和を実現してください。悪より救い出してください」と切に祈り続けている人を見ることができるだろうか・・・そのような意味です。
私たちは主の祈りで「悪より救い出し給え」と祈っていますが、どれだけ、私たちは切に(真剣に)このことを祈っているでしょうか?
主の祈りで「悪より救い出し給え」というのは、私の悪い心を憐れんで助けてくださいという意味ですし、また、悪魔からこの世界を救ってくださいという究極的な祈りでもあります。
しかし、実際にこのことを切に祈るクリスチャンは、イエスさまが危惧されるように少なくなっているのです。何故でしょうか・・・是非、この一週間、考えて見てください。
神さまは、キリストが再臨する時まで、私たちが正しい世界に変えて行くことを願っておられます。私たち自身が、神を畏れず、人を人として大事に思う人であって欲しいと願われています。
皆さまは、「窓際のとっとちゃん」という小説ご存じですか?黒柳徹子さんが幼少期に過ごしたトモエ学園での日々を書いた「自伝的物語」で、小説ではありますが、実際に黒柳徹子さんが経験や体験したことに基づいて書かれた小説です。この本は、色々な国の言語に翻訳され、その発行部数は、ギネスに認定されているほどです。また、黒柳徹子さんがユニセフの親善大使に就任するきっかけとなったのも、この「窓際のとっとちゃん」がきっかけだったそうです。
この本には幼少期のことが書かれているのですが、黒柳徹子さんは、小学生に入学するのですが、1年生の時に、すぐに退学することになるんです。理由は何だと思いますか?理由は、彼女が授業中に、落ち着きがなく立ち歩き、よくしゃべり、また、色々なことに興味を持ちすぎて、他の生徒の学習の妨げになっていたからなんです。そこで、先生は親を呼び出して「他の学校を探してください」と言ったんです。
普通、「他の学校を探してください」と言われれば、親であればショックですし、先生も言いにくいと思います。しかし、この本では、授業中の様子が、「とっとちゃん」という子供の純粋さを上手く描写しているので、読んでいて、苦しくないというか、のびのびしている「とっとちゃん」にほんわかさを感じるんです。
結果、とっとちゃん(黒柳徹子さん)は、トモエ学園という所に、入園することになるのですが、そこがいい学校なんです。教室は、なんと使えなくなった電車で、毎日好きなところに座って良いんです。授業も一時間目はこれ、二時間目はこれという形ではなく、一日の内にしなければならない勉強を、どんな順番でもいいので、自分のペースでするというシステムでした。それは全て校長先生の教育方針なんでしょうね。裁判官のような先生ではなく「子供の心に寄り添う」校長先生の思いが、そのような温かい学校にしていたのだと思います。
この本に関するある対談で、黒柳徹子さんは「この本に書きたかったことは、校長先生の小林宗作という方が、『君はいい子なんだよ』って毎日私に言ってくださったから、私は今日のような人間になったので、そうでもなかった日には、どんなことになってたか、分からないような人間だった」とそのようにおっしゃっておられました。
トモエ学園の校長先生は、本当に、神を畏れるというか、命が与えられた子供を一人の人間として大事にし尊重しておられた先生なんですね。
是非、主の祈りの「悪より救い出し給え」という祈りの意味を深めて、日々祈るようにしてください。それが、イエスさまの命令です。また、「神を畏れ、人を尊重する人」として、祈りつつ、この世界を希望に満ちた世界に変えて行きましょう。
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