宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書17章11節~19節
テモテへの手紙Ⅱ2章8節~13節
列王記下5章1節~3節、7節~15b節

 「信仰ましまし」

説教者  江利口 功 牧師


おはようございます。
聖書に出てくる登場人物で、「こんな人のようになりたいな」って憧れる人いないでしょうか?私は、男性だからでしょうか、ダビデの勇敢さに憧れます。ペリシテの大男ゴリアトを目の前にして、「神さまが勝利なさる」と信じ、勇敢に立ち向かっていったダビデって凄いなって思います。また、エジプトに連れて行かれたヨセフやバビロンに捕囚の民となったダニエルも見習いたい人物です。彼らは、捕まって自由を失い、誰かの支配下に会った時でも、いつも、神さまを第一として生き、そして、どのような要求にも正しく従い続けていました。でも、その生き方の中に神さまの栄光がいつも現されていたんです。私は、そんな風に生きたいな(そんな風に生きなきゃ)って思うことよくあります。
女性的な視点で言えば、義理のお母さんに従順に付き従ったルツを見習いたいと思うことあるかも知れません。また、辛い状況で何とか子が与えられるように祈り続けたハンナ、また、「お言葉通りにこの身になりますように」と受け入れたマリアを信仰の模範にしたい(見習いたい)って方いらっしゃるのではないでしょうか。彼女達は、人生の中で辛い状況に置かれている時に、祈り、そして、御心に忠実に生きようとした人達です。そうして彼女達は神さまの祝福を手に入れて行きました。

そういった、聖書の登場人物のようになるのは難しいですが、クリスチャンとして清く正しく生きたい(いきなきゃ)って誰もが思うのではないでしょうか。
私は洗礼を受けたばかりの頃、「クリスチャンらしく生きよう」と頑張っていたなって思います。「怒らない人、恐れない人、優しい人、誠実な人・・・」そんな風になろうと頑張っていました。
今となっては笑い話のようなことですが、私は「信号を絶対守る」って頑張っていました。
もちろん、信号を守るのは当然なんですが、私が言いたいのは、歩いている時に「どんな短い距離の交差点でも(どんな状況でも)」必ず信号を守るって決めていたんです。渡るのに3歩か4歩で渡れるような横断歩道(車もこない静かな場所の横断歩道)でも、青になるまでずっと立って待っていたのを覚えています。他の人が、横をさっさと渡って行っても、私はじっと立って待っていました。「わたしは正しい」と自分に言い聞かせて立っていました。何度も言いますが、信号を護のは「当然」のことす(;^_^A 。

他にも色々とクリスチャンらしく生きようと頑張っていたなって思います。もちろん、そのことはとても大事なことなんです。でも、今になって思うのは、その動機です。わたしの心の深いところにあったのは、「ちゃんとしている自分」だったんです。「ちゃんとしている自分」を誇らしく思っていただけなんです。見た目と自己満足の信仰は、長く続くことはありませんでした。

今日は、「信仰ましまし」という説教題にさせて頂きました。「ましまし」という言葉は、ある系列のラーメン屋さんで使われる言葉で、野菜とかニンニクとか脂とかそういったラーメンのトッピングを沢山欲しい時に「ましまし」って言うそうです。「野菜ましまし」って頼むと、店によっては、もやし2袋分のもやしを乗っけてくれるそうです。「ニンニクましまし」って言うと、一掴みのニンニクを入れてくると書いてありました。
多分、皆さまは、そんなにもいらない~。美味しければそれでいい。って思うのではないですか?やはり、大事なのは、味ですよね。

私の最初の頃は、「ましまし信仰」だったような気がします。ようは無理しているように見える生き方です。私は「もっとこうなりたい」という思いが強かったんだと思います。でも、やっぱり、自分の性格には限界があるんですよね。誰がも、聖書の登場人物のような信仰者にはなれません。では、聖書は、そういった無理難題を私達に突き付けているのでしょうか?私たちは、信仰者としてどう歩めばいいのでしょうか?それが今日の聖書箇所から学びたいところなんです。

さて、今日の聖書箇所ですが、まず、こう始まります。

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。(ルカ17章1~2節)

「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」怖い言葉ですよね。私は、これまで何人の人を躓かせてきたでしょうか?沢山の人を躓かせてきたと思います。イエスさまは、そのような者は不幸である。そんな人は、首にひき臼をかけられて、海に投げ込まれる方がましである。っておっしゃっています。これって、本当に、怖い言葉です。そうなると、誰もが「私の信仰をましてください。」こって願うと思います。弟子達もそうでした。

イエスさまが、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」とおっしゃり、続けて「赦しなさい。何度でも赦しなさい。」そのようにおっしゃった時に、弟子たちはこう言いました。

「わたしどもの信仰を増してください」

「信仰を増してください」と願う弟子達に対して、イエスさまは何とおっしゃったのかと言いますと、イエスさまはこうおっしゃったんですね。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
(17章7節)

変だと思いませんか?弟子たちは「信仰を増してください」って願ったわけです。しかし、イエスさまは、彼らになんとおっしゃったのかと言うと、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。とおっしゃったのです。これはどういうことでしょうか?

私は、このイエスさまの言葉を聞いて、どういうことなのかなと考えていたのですが、イエスさまがおっしゃりたいのは、信仰は「量」ではなく、「質」だということだと思います。

「量」に目を向けるのではなく「質」に目を向けるんです。「頑張るぞ」「模範に習うぞ」というのは、根のない植物のようなものです。頑張っても、それは、外側だけの信仰になってしまい、いざと言う時、右往左往してしまいます。しかし、「質」がしっかりしている信仰は、もちろん右往左往することはありますが、安定した生き方になっています。砂の上に建てた家と岩の家に建てた家の違いのようなものです。

どんな実を実らせるのかではなくて、何に根差しているのか?が大事で、生きる力はどこからくるのか、正しく生きる理由、働く理由、奉仕する理由・・・そういった全ての元にあるのは何なのか・・・そういったものをしっかりとすることが大切になってくるんですね。自分の生き方を信仰を飾ってもダメで、信仰の上に自分の生き方をもってこないとだめなんですね。

イエスさまは、信仰の「質」をおっしゃっています。あの、小さな小さなからし種であっても、大きく大きく育つ。人の目には、小さいと感じる信仰であっても、それが本当の信仰であれば、桑の木に向かって、大地から抜け出し、海に根を下ろせと言えば、その通りになるとおっしゃっています。つまり、大きなものを動かすことができるという意味です。
桑の木とは、彼らが知っている木で、一番、地中深くに根を張る木です。簡単には抜けない木です。その木に向かって、海に根を下ろせというのは、ちょう理不尽な要求を意味します。でも、イエスさまはおっしゃるんです。本物の信仰はそれを実行させるほどの力を持っているですって。凄くないですか??

見た目だけの信仰を豊かに見せようとするのは「ラーメンのましまし」をお願いしているようなものです。しかし、神さまという大地に根差す。神さまに信頼を寄せる時に、不思議な力を得ることができるんですね。

ルターは信仰について、大事なのは信仰の本質だと言います。「夢を抱いて、自分の努力で内面に強さや勇気を造りだそうとしてもダメ」だと言うんですね。本当の信仰は、生きる根拠を神さまに求め、そして、全てを神さまに委ねることから始まります。そして、神さまの愛に根差ざし、全能なる神さまに委ね、そして、神さまと人格的な関係を築くことが大事になってくるんです。ルターは、神さまのことばは、私たちの中で信仰を造りだすと言います。自力の力ではなく、神さまがみ言葉を通して、私達の中に造りだしてくださる信仰に期待するんですね。その信仰によって、歩む時に、本当の信仰者になるということなんです。

大事なのは生き方の根拠を私ではなく神さまの思いに載せることです。
そして、神さまと深い人格的な関係を持つことです。

そう考えると、最初にお話しました、ダビデ、ヨセフ、ダニエル、ルツ、ハンナ、そういった人達が持っていたのは、神さまへの信頼や、委ねる力だったと思います。

ヘブライ人への手紙11章にこう書かれています。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
(ヘブル11章1~2節)

聖書に登場する真の信仰者は、自分の努力で歩んだというよりは、見えない未来を神さまに信頼して、委ねて歩み続けた人達だったのではないでしょうか。

聖書は神の言葉です。その神さまの言葉は力があって、私たちの内に信仰を造りだしてくださいます。

大事なのは、聖書に記された神さまを知ることだと思います。

イエスさまは、桑の木の話をなさってから、こう加えてお話しておられますよね。

命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」                 (17章9~10節)

本当の信仰って、当然のように「生じてくる生き方」なのかも知れません。確かにイエスさまは、最後の審判の時のたとえで、人を右と左により分けて、右側にいる人に対して、彼らを「よくやった」と誉めるのですが、彼らは、「いつ、そのようなことをしたのでしょうか?」って返しています。
恐らく、昔の私でしたら、信号守ったとか、こんな風にしたって、自分がしたことに誇りを感じていたと思います。自分がしてきた、善意や正しさが自慢げに記憶に残るのではないかと思います。でも、それって、本当の信仰から出て来たものではなくて、自分よがりの信仰なんだと思います。それは、「信仰ましまし」なんだと思います。

私は、いい人ではありません。模範になるような者でもありません。でも、洗礼を受けた時から全然変わっていないことがあります。それは、どんな時でも礼拝に出ようとしてきたことです。洗礼を受けた頃は、大阪から神戸まで通学していましたが、学校には遅れても、神戸の教会の礼拝に遅れることはありませんでした。社会人になっても、日曜日の礼拝はかかさないように頑張りました。私は、見た目には、見栄えのよいクリスチャンでも、牧師でもありませんが、神さまのことを知りたい、繋がりたい、根差したいという思いはあるかなって思います。そこに本当の命があるから繋がり続けたいんです。

信仰は「量」より「質」です。「質」が「力」を生みだします。見た目ではなくて、神さまを信じ続けること、愛し続けること、畏れ続けることを大切にしてください。そして、イエスさまにいつもつながることを意識していてください。