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おはようございます。皆さまは「生きていく」という言葉を聞いて、どのような印象を受けますか?「希望を持って生きていく」「誠実に生きていく」「支え合って生きて行く」「手を取り合って生きて行く」という風に使いますよね。「生きていく」という言葉には、前向きに生きようとしている姿を感じます。もう一つ、よく似た言葉があって、それは「生きている」という言葉です。「生きている」。例えば、大きな病気を患って、本当にもう駄目かと思っていたのに治ったという時、次の日から、一日一日が特別な日のように思えて、「今日も生きている!」という感謝の気持ちで満たされるとよく言われています。でも、この「生きている」という言葉。この「生きている」という言葉に「ただ」という言葉を付けると、ちょっとニュアンスが変わってきますよね。「ただ生きている」・・・どこか、暗い響きになってしまいます。実際、社会を見ると、そのような状態にある方、少なくないですよね。勿論、皆さまは「ただ生きている」という感じではないと思います。ただその上で、「生きている!」という感謝。そして、「生きていく」という前向きな思い・・・それを「私は持って生きているか」・・・まず、そのことを、まず、確かめて欲しいなって思います。是非「生きていくぞ」という希望を抱いて日々、力強く、歩んで欲しいです。そして、私たちの周りの人たちも同じように、生きる喜び、生きていく力を持って欲しいなって思います。そのために、私たちはクリスチャンとして、寄り添っていきましょう。マザーテレサというカトリックのシスターの事は、みなさま良くご存じかと思います。彼女は、後に、カトリック教会で“聖人”と認められた方です。マザーテレサは、インドのカルカッタ(今のコルカタ)で、貧しい人や孤児、路上で最後を迎えようとしている人、また、社会から見捨てられた人たちに寄り添い、お世話をし続けた人でした。
彼女の働きに賛同して、世界中から多くのシスターたちが集まり、彼女と共に働くようになったのですが、彼女たちが奉仕に出かけ、返って来た時に、よく、マザーテレサは彼女たちにこう尋ねていたそうです。「その内の何人に、あなたは微笑みかけましたか?」「スープの入ったボウルを渡す時に何人の手に、ちょっと触って、あなたの温もりを伝えましたか?」「そのうちの何人に声をかけてあげましたか?」マザーテレサは、目の前にいる人の魂に触れることの大切さを教えていました。困っている人を助けたり、介護したりすることはとても大事なことです。しかし、御飯やスープという命を繋ぐものだけが、その人達が必要としているものではないことを示したかったのでしょうね。
見捨てられ、生きていく自信を失っている人達に必要なのは「大切な存在として思われている」ということだったのです。命をつなぐ食べ物をもらっても、それは、“ただ生きている”人でしかないわけです。そうではなくて、“生きていていいんだ”という思いを与えてあげることが大切なんですね。
マザーテレサは、先ほどの言葉に続けて、こうおっしゃっていたそうです。
「私たちは福祉事業家ではありません。私たちにとって大切なのは、群衆ではなくて、一人一人の魂なのです」パンやスープが与えられることも大事ですが、そこに手の温もりがないといけない・・・これが、マザーテレサが大切にしていたことでした。愛を受けて人が生きる。これは、神さまが望んでおられることでもあると思います。さて、今日の聖書箇所ですが、イエス様は、ある金持ちの話をなさいます。まさに、マザーテレサの思いとは真逆な生き方をした金持ちが描かれているのですが、彼は、死んだ後、案の定、黄泉の苦しみの中に突き落とされてしまいます。これは、イエス様の譬え話なのですが、イエス様は、聞く人達に何を伝えようとされたのでしょうか・・・。ある金持ちの家の門の側に、ラザロという一人の男が横たわっていました。ラザロという名前は、ヘブル語でエレアザルとなり、“神は我が助け”“神は救い給う”という意味になります。ラザロは、食べ物に困り、また、全身にできものがあり、空腹、痛み、かゆみに苦しみながら生きていました。彼は、「金持ちの食卓から零れ落ちるものでいいから腹を満たしたい」と願っていましたが、彼の処にやってきたのは、人ではなく、犬でした。この犬は、ラザロのできものをなめていたとあります。ユダヤ教では、犬は忌み嫌われていましたので、食べ物がなく、皮膚病になり、犬に慰められるしかなかったという一番最低の状態に、彼はなっていたのでした。このラザロの姿は、マザーテレサが手を差し伸べた人達にすごく近いのではないかと私は思います。でも、このイエス様の譬え話に登場する金持ちは、目の前にそんなラザロがいたにも関わらず、彼のために門を開き、彼を招くこともせず、また、彼のもとに、少しの食べ物を持って行くようなこともしなかったのです。案の定、彼は、死んだ後、肉体的苦しみでいっぱいの黄泉よみの世界に落とされることになり、逆にラザロは、祝福に満ちた最高の処に迎え入れていただくことになりました。イエス様のこの譬え話ですが、イエス様は、裕福な人は地獄へ、貧しい人は天国へ行くということを言ってはいません。そうではなくて、憐れみのないものには憐れみのない裁きがくだされ、憐れまれなった人は神の憐れみを受けるという聖書の真理を言っているのです。イエス様の譬えに登場する金持ちは、苦しみの中で、「せめて水をなめさせてください」と願いましたが、叶いませんでした。彼のいる処がいかに、苦しい処なのかが良く分かります。最後に彼は、自分ではなく兄弟を助けようとします。彼は、「ラザロを、自分の父の家に遣わし、残った兄弟の兄弟たちに、こんな苦しい処に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」と願います。これって、誰もが思いつくことだなって思います。
しかし、アブラハムは彼に対してこう言います。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』モーセと預言者というのは、旧約聖書のことですが、聖書には、律法が書かれてあったり、預言者たちの警告の言葉というか、悔い改めを迫る言葉も沢山書かれています。
つまり、「彼らには聖書がある」というのがアブラハムの答えでした。
それでも、金持ちは、こう食い下がってきます。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中から誰かが兄弟の処に行ってやれば、悔い改めるでしょう。』これってどうですか?私は、すごい一理あるなって思いました。
黄泉に降った人が現れて、説き伏せたら説得力あるし、誰もが悔い改めて生きるようになると思いませんか?でも、これに対して、アブラハムはこう返します。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』これって深いなって思います。彼は、死んだ人が蘇って説き伏せれば悔い改めるはずだと考えました。しかし、そのような徴しるしがあっても、人は信仰を持つことも、悔い改めることもないというのです。実際に、イエス様がどれだけ奇跡を起こしても、彼らはイエス様を信じることも、悔い改めることもしませんでした。
それどころか、聖書に反している。神であるかのように語ると、人々は、イエス様を迫害し、十字架に架けて殺したんです。恐らく、ラザロが蘇り、預言者のように、厳しい言葉を言えば、彼らは逆に彼を葬ろうとしてしまうのだと思います。それだけ、人の心は頑なだということです。逆に言えば、今、私たちがこうして手にしている聖書って凄い書物だと思いませんか?私たちが、思っている以上に、この聖書は、神の力あるメッセージなんです。
私たちを生かし、私たちの目を開き、私たちを天国へ招き入れ、私たちと周りの人たちをいかに幸福にしていくのか・・・そのような大事なことが語られてくるのが、聖書なんです。私たちが、聖書のメッセージに素直に耳を傾ける時、人の言葉以上に力ある神の言葉として理解するとき、私たちは永遠の命を含めた祝福を頂くことができるんです。そのような書物が私たちの目の前にあるのです。今日のイエス様のこの譬えで、イエス様がおっしゃるのは、救われたと言って安住してはいけません。憐れみの心を忘れてはいけませんよということです。何故なら、すべての人が“生きる喜び”を持って欲しいのが神さまの御心だからです。“ただ生きている”のは駄目、人は喜びをもって生きなくてはだめなんです。それは、私たち一人一人がそうですし、また、私たちの周りの人も皆そうなんです。そこで、問われるのが、私たちが「どう生きるのか」ということです。カトリック教会のシスターで有名な渡辺和子さんは、先ほどの言葉を引用しながら、こんな風に言っておられます。「上等に丁寧に時間を使うと、上等で丁寧な人生が私の人生になります。粗末にぞんざいに、いい加減に時間を使うと、私の人生は雑なものになります。憎しみを込めた時間が多ければ、憎しみの多い人生になるでしょうし、愛のこもった時間が多ければ、愛の深い人生を送ることができると行ってもいいのかも知れません。問われるのは、私たち自身なのです。『一生を終えて後に残るのは、私たちが集めたものではなくて、私たちが与えたものである。』という言葉もあります。許し難い相手を許し、やさしい眼差し、ほほえみ、優しい言葉、ぬくもりを与え、感謝し、そして、祈ること・・・。そういう人に与えたもの、時には損をしたと思うようなものが、人生の終わりに残るものであろうと思います。」
私たちが人生をどう生きるのか、どう生きていくのかが、問われていて、神さまをそれを見ておられるということでしょうね。“生きていることに感謝”し、“生きていこう、生きていくぞ”と希望を持つことが大事ですし、周りの人も“生きている喜びや生きていく元気”を持ってもらうこと大切ですよね。そのために私たちは、イエス様のように人に寄り添うわけです。でも、ここで注意しておくことが一つあります。海外での古いジョークに、こんな話があるそうです。あるボーイスカウトの青年が、人を助けようと頑張っていました。彼の目の前に、一人の年配の女性を見つけました。その女性は、道路の側に立っていて困っているようでした。彼は、“彼女を道路の向こう側に渡らせてあげよう”と決心します。彼は、何度か挑戦しますが、上手くいかず、最後に、彼は、年配の女性を抱き上げて道路の反対側にまで運びました。
彼はそっと彼女を下ろして、良いことをしたと思って、その場を立ち去ったのですが、なんと彼女は道路を渡りたいとは思っていなかったのです。
彼の勘違いだったのです。これは、あるブログで引用されていた古いジョークなのですが、その人が言いたいのは、“支援したい”と“支援して欲しい”は別物ですということでした。周囲の善意と本人の願いが時として違う場合があるので、まず、①本人がその支援を必要としているかを確認すること。
②提案をする時には選べる形にすること③断られたら引く勇気を持つこと。
この三つが大事だということでした。神さまは、私たちに“生きる喜び、生きていく力”を与えてくださっています。イエス様の十字架は、私たちへの愛の贈り物です。それは、「生きて欲しい」という神さまの願いが現れた贈り物です。私たちは、神さまの愛によって「生きている」喜びを頂いています。
また、聖餐式は、単に私たちに霊的な糧をただ頂いているのではありません。そこに、イエス様が臨在されていて、私を食しなさい。私を受け入れなさい。私と一つとなりなさい。そういった、メッセージを同時に与えてくださっているのです。そのうえで、隣人に仕えて行きなさいと派遣されます。
私たちは、まず、イエス様によって、礼拝の中で、生きる力を頂きます。
そして、私たちは、イエス様が願われるように、周りの人に寄り添っていきます。それは、さりげない行動でも十分なんです。
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