おはようございます。
祈りは大切なことだって分かっていても、「なかなか、祈る時間を持てない」というのが、私達の現実ではないでしょうか?以前に、マルタとマリアの話からお話しさせて頂きましたが、「この用事が終わったらゆっくり祈ろう」と思って計画しても、結局「祈る時間が持てずに一日が終わってしまった」ということになるのが私たちだと思います。
祈りを日常生活に根付かせるには、やはり、“努めて神さまとの交わりを最優先にしよう”と思わないと難しいと思います。
この前、ルターが書いた手紙を読んでいますと、やはり、ルターも同じようなことを言っていました。これは、ルターが普段、髪の毛を切ってもらっている、床屋の主人に宛てた手紙なのですが、ルターはこう言っています。
「祈りは、朝の最初の務めとし、夜の最後の務めとするのが良いことです。「ちょっと待て、1時間後に祈ろう、その前にこれやあれを済ませなければ」といった、偽りの惑わす思いに気をつけなければなりません。そういう思いは祈りからあなたを遠ざけ、他の事柄へと引き込み、そのことばかりに気を取られてしまい、その日の祈りは結局なされなくなるからです。」
いつの時代もいっしょなんだなって思いました。
床屋の主人は、やはり、修道士とは違って、日中、仕事で忙しくしていますから、祈りの時間を割くということは、難しいことだと思います。ですので、朝と晩には、祈りましょうと進めているのだと思います。
でも、ルターは、日中、人は全く祈ることはできないと考えていたようではないんですね。ルターは、私たちの日常の仕事も、それは祈りとなると言うんです。
もちろん、働いていることそのものが祈りであるとルターは言っているのではなくて、一人の信仰者として、「仕事の中で神を恐れ、敬い、人を害してはならない、盗んではならない、だまし取ってはならない、欺いてはならない・・・そういった戒めを覚えて歩むならば、そのような思いや信仰は、必ず、祈りへと導かれ、賛美へと変えられていく」と言うんですね。
これは、どういうことかと言いますと、例えば、先生であれば、教室で生徒と向き合う時に「神さまの御心はなんだろうか」と考え、生徒の幸せ、成長を願って関わるならば、それが祈りとなるということです。親であれば、朝早くから夜遅くまで子育て大変です。でも、その時に「私に知恵を与えてください」「力を与えてください」「この子が祝福された人生を歩めますように」と願って、家事育児をするならば、それが祈りになるわけです。会社員の方であれば、不正を行わず、相手の利益を求め、忠実に働こうとする時、それは祈りです。また、看護師やお医者さんの場合であれば、イエスさまが人を癒されている時、どのようなお気持ちだったんだろう、その人をどのように憐れみ、側に寄り添われたんだろうと想像したり、また、この人を癒してあげてくださいという祈り心ももって寄り添うならば、それは祈りなんですね。時には、くそって思ったりするかも知れません。でも、そこで、悔いる思いは生じますし、神さまにこの状況を何とかしてくださいと願いますから、それもまた祈りなりんですね。
このように、信仰者の日常の働きには、いつも祈りが重なっているはずなんですね。祈る心と働きが、いつも一つに結びついているのがクリスチャンなんです。
もちろん、ルターは時間を聖別し、手を止め、静かに神さまに向かって祈ることの大切さを強調しています。祈りは呼吸のようなものです。新鮮な空気を吸うと、心も体もリフレッシュされますよね。祈りも呼吸と同じ様に、霊的に静まり、神さまと交わる時にリフレッシュされます。私達が霊的にリフレッシュされると、行動もまたリフレッシュされていきます。
逆に、祈ることが少なくなると、水泳で息継ぎをせずに泳いでいるようなもので、苦しくなります。進む力もなくなりますし、気持も衰えてしまいます。まさに、祈りは呼吸なんですね。
さて、聖書を見ますと、イエスさまは宣教の働きの中で、絶えず祈っておられますよね。また、人と接する時も、たえず、神さまの栄光が、この地上に現れていくように願っておられるのがわかります。「イエスさまは神さまだから」と言ってしまえば、それまでかも知れませんが、イエスさまの姿こそ、真の信仰者の姿だと思います。
さて、祈りについてですが、私たちは、つい願い事を沢山祈りたくなります。けれども、イエスさまはこうおっしゃいました。
「何よりもまず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、すべてのものが与えられる」
イエスさまは「思い悩んではならない。あなたがたに必要なものは、すでに、天の父はご存じだ」と語られます。だから、一生懸命に、私達の願いを天に届けよう、届けようとしなくても大丈夫なんだよって教えてくださっています。神さまは、私たちが何を求めているのか分からないから祈れとおっしゃるのではありません。このことばは、
神さまの支配と、神さまが恵みによって与えてくださる正しい関係
を願い求めなさいと、新しい祈りの在り方に招いておられるのです。
さらに、違う箇所ですが、イエスさまはこうおっしゃっています。
『また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。』
これは、ルカによる福音書の11章の御言葉なんですが、祈りとは「自分の思いを天に届ける努力」ではなくて、「聖霊によって、神の愛で包み込まれるそのような交わり」なんですね。これがクリスチャンの祈りです。
今日、説教題を「使徒信条を祈る」といたしました。普段、私たちは使徒信条を「告白」していますよね。でも、その内容を改めて見つめ直すと、これこそ、「神の国」と「その義」が示されているのが分かります。
ルターは「祈りが難しいときは、主の祈りと使徒信条を唱えるだけで十分だ」と言ったそうです。確かに、使徒信条は、私達の願いではなく、神さまが私たちのために何をしてくださったのかをとてもきれいに表現している告白です。
天地を造られた父なる神
私たちのために十字架にかかり復活された御子イエス・キリスト
そして私達の目を開き、救いを私たちのものにしてくださる聖霊
すべては神さまの側から与えられた恵みばかりです。先ほども言いましたが、これこそ、神の国とその義を具体的に示していると思います。私たちができることは、ただそれを受け取り、心から「感謝します」と祈ることです。私たちは、今日も、その恵みの中に包み込まれています。これは、本当に大きな喜びの事実です。
ですので、使徒信条を「感謝の祈り」として、普段の祈りに加えて見てください。私自身、普段、個人的な祈りに加えて「主の祈り」を祈り、そして、「使徒信条」を感謝の祈りとして祈っていますが、とてもいい祈りとなっています。
どう祈るのかは難しく考える必要はないんです。使徒信条を口ずさみながら、思い浮かんだ感謝の言葉を祈るだけでいいんです。覚える必要はありません。ただし、神学的な意味が含まれていますので、今日は、「こんな風に祈ることができますよ」ということをお話をしたいと思います。
まず、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という告白です。わたしは、ここでは、神さまが、この宇宙も地球も大自然も全て神さまが創造してくださったことを喜び、感謝するようにしています。そして、私をも造ってくださったことを感謝するようにしています。さらに、いつも日々必要なものを備えてくださることを感謝するようにしています。ですので、例えば、「天の父よ、この世界を造ってくださったことを感謝いたします。この大自然、そして、この大宇宙をもあなたは全てお造りになられました。そして、私に命を与えてくださったことを感謝いたします。あなたは、日々、必要なものを備えてくださり、この世界の全ての人を愛をもって養ってくださっていることを感謝いたします」と祈るのもいいと思います。
そして、次は、イエスさまに感謝します。まず、「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」という告白ですが、私は、「私たちを救うために、人となってお生まれになってくださったことを感謝いたします」とまず短く祈ります。
そして、「主は聖霊によって宿り」という所に関しては、「人の力では決して救われることができないので、神さまが人となってくださったことを感謝します」と祈ります。そして、「処女マリアより生まれ」という告白に関しては、「主は創世記の初めに約束してくださったとおり、女の子孫からお生まれになってくださったことを感謝します」と祈るようにしています。ここでは、救うために、約束を守られた神さまに感謝するようにしています。次に、「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」という所ですが、これは、ポンテオピラトに苦しめられたという意味ではなく、ポンテオピラトの支配のもとで裁かれた実際の出来事であるという意味です。ですので、ポンテオピラトが悪いというわけではありません。私はここでは、神さまが苦しみを受けられたということを意識して感謝するようにしています。そこで、「神であるのに、私たち人間と同じように、さまざまな、苦しみを担ってくださったことを感謝いたします」と祈っています。そして、「十字架につけられ」という告白では、罪の赦しのために、全ての罪を背負い、神に呪われて死んでくださったことを意識して祈ります。ですので、「私たちのために、罪を全て背負って死んでくださったことを感謝いたします。また、神の怒りを全て受け止めてくださったことを感謝します」と祈っています。次に、「死にて葬られ」というところですが、ここでは、死んでくださったことにより、全ての罪の赦しが実現したことを感謝いたします。イエスさまご自身、息を引き取られる時に「成し遂げた」とおっしゃいました。ですので、「完全に私達の罪を贖ってくださったことを感謝いたします。そして、神さまなのに、墓におさめられるまで謙ってくださったことを感謝いたします」と祈っています。さて、「黄泉にくだり」という箇所ですが、ここでは、神さまが、全ての罪を背負い、黄泉の世界に、勝利者として、凱旋するかのように降っていかれたことを意識します。そして、黄泉をも打ち砕かれたことを意識します。そこで「イエスさま、黄泉に降り、死の束縛から全ての人を解き放ってくださったことを感謝します」と祈っています。そして、「三日目に死人のうちより蘇り」というところでは、イエスさまが復活の初穂として蘇ってくださったことを意識して祈ります。ですので、「イエスさまが復活してくださったことを感謝いたします。イエスさまが復活してくださったことにより、私たちも、死んでも復活するということがわかりました」と祈っています。そして、「天に昇り全能の父なる神の右に座したまえり」というところでは、「神さまが勝利者そして、天に昇り、この世界を支配しておられることを感謝いたします。」と祈っています。そして、「かしこよりきたりて生けるものと死ねるものとを裁きたまわん」という告白では、「イエスさまが再び来てくださり、この世界を新しく再創造してくださることを感謝いたします。」と祈っています。
さて、ここまでが、イエスさまの御業の事に関する祈りでしたが、最後は、聖霊なる神さまのみ業に感謝する時です。
「我は聖霊を信ず」というところでは、「聖霊様、私達の目を開き、イエス様の救いを分かるようにしてくださったことを感謝いたします」と祈ります。そして、「聖なる公同の教会」という告白では、「イエスさまを信じる教会を造ってくださり、その群れに、私を加えてくださっていることを感謝いたします」と祈っています。次に、「聖徒の交わり」という告白ですが、ここでは、先ほどに続けて、「教会の中での交わりを通して、私の信仰を豊かにしてくださっていることを感謝いたします」と祈っています。「罪の赦し」については「教会の中で、み言葉を通して、また、洗礼、聖餐式を通して、罪の赦しを与えてくださっていることを感謝いたします」と祈っています。ここまでは、聖霊なる神さまが、人の目を開き、教会という聖徒の群れに加え、そして、そこで、交わりと罪の赦しを与え続けてくださっているその御業に感謝しているのです。最後に、「体のよみがえり、とこしえの命を信ず」という告白では、「神さま、私を最後に甦らせ、そして、永遠の命に迎えてくださいますことを感謝します」と祈るようにしています。
ここまで、ざっと祈りの言葉をご紹介しましたが、先ほどもお伝えしましたが、覚えるのではなくて、一つ一つの告白に合わせて、ご自身なりに感謝の言葉を祈っていただければそれでいいと思います。ですので、わたしも、毎回、感謝の祈りの言葉は違っています。大事なのは、神さまが私のため(わたしたちのために)何をしてくださったのか、そして、そのことを深く噛みしめ、味わい、感謝して祈ることです。
最後になりますが、使徒信条を祈るようにお勧めしているもう一つの理由をお話ししたいと思います。それは、今日、お読みしました、ヨハネによる福音書のイエスさまの言葉です。イエスさまはこうおっしゃっています。
『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』(ヨハネ17:3)
神さまを知るところに永遠の命がある・・・・イエスさまはそうおっしゃっています。「三位一体の神、それぞれの神さまが何をしてくださったのか(くださっているのか)を知ること」、そして、「三位一体の神と祈りの中で交わること」、このことを意識する時に、永遠の命を味わうことができるのです。
使徒信条を告白するのはもちろん大事ですが、それを祈りに変えて、一つ一つの御業に感謝して祈ると、さらに味わい深いものとなると思います。
是非、使徒信条を祈りとして、普段の祈りに加えて見てください。きっと、新しい何かを感じるかと思います。皆さまを包み込んでいる、神さまの愛を感じることができると思います。
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