宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書3章15節~17節
21節~22節
イザヤ書43章1節~7節
使徒言行録8章14節~17節


 「あなたは私の愛する子」

説教者  江利口 功 牧師

 

おはようございます。

 1970(昭和45)年代のことですが、瀬戸内海のある地域で一つの工場による海洋汚染がありました。ご想像できると思いますが、そのような地域で取れた魚は市場に売れるようにはなりませんでした。

漁師の方にとっては“商売あがったり”ですよね。漁師の方は怒りを訴えました。そして、結果的にどうなったのかと言いますと、汚染源である工場が、漁場で取れた魚を全て買い取るという約束をしました。

それからは、漁師たちは漁に出て取れた魚を市場に売るのではなくて、港で待っているトラックに持って行きました。

そこで、魚の種類ごとに目方を量り、それに応じたお金をもらいました。

トラックで魚を集めた工場の車は工場へ運び、そこで汚染された魚を廃棄処分にしました。初めのうちは、獲れただけ一定のお金がもらえるので漁師たちは助かりました。中には、必ず売れるのですから、一生懸命漁をする人達も出てきました。しかし、やがて漁師の人達の心に暗い思いが立ち込めるようになりました。毎日、海に出るのは何のためなのか。

廃棄処分にする魚を獲るために俺たちは漁をしているのか・・・

そんな疑問というか、心を覆う何かを感じるようになってきました。

漁師の喜びは、美味しい魚を食べてもらうこと。そう思ってこれまで漁をしてきました。しかし、今、していることは、同じ収益を得る作業であっても、そこに喜びがない。漁師の人達は自分のしていることが情けなくなってきたのでした。生きることは大事。そのために稼ぐこと、食べることは必要となってきます。でも、人が生きるために必要なのはそれだけではないということです。それに気づきました。知ったということだと思います。生きることは大事。でも、それ以上に、何か必要なものがあるんですね。イエス様は、荒野で断食をされ試練を受けられた時に「人はパンだけで生きるのではない」とおっしゃいました。

『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイによる福音書4章4節)

生きる上で必要なのは、パンだけではないんですね。パンがあっても大事なものがなければ、私たちはダメなんです。それが何かをイエス様はおっしゃっていて、それが、神の口からでる一つの一つの言葉なんです。

人はみ言葉によって生かされているということですよね。

それは、神の語り掛けです。私たちを導く言葉です。

そして、さらに言えば、私たちが存在するために必要なのは、神の愛の眼差しなんです。稼いでいること、食べられていること、それ以上に、大いなる存在、私に命を与えてくださった存在があって、私に理由があって命を与えてくださったその人が必要、その人のことを知ることが必要ということではないでしょうか。もし、パンがあって食べるものに困らないとしても、実際に神という存在がこの世になければどうでしょうか。

本当にこの世界に神さまがいなかったら、私たちの日々の生きる喜びってあるでしょうか。この世界を神さまが造ってくださっていなかったら・・。この私を神さまが造ってくださっていないのであれば、どうでしょうか。

本当に生きている意味を感じることができるでしょうか。

今日、イエス様が洗礼をお受けになった時の話を見ていますが、イエス様が、洗礼をお受けになった時に、天から聞こえてきた言葉は何か・・・それは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉でした。イエス様は、この後荒野で試練をお受けになります。

また、人々から排斥されます。そして、十字架という苦しみを通られます。そして、死という世界に飛び込んでいかれます。

そのときに、イエス様のあの振る舞いというか、生き方の背後にあって、イエス様を支えていたのは、父なる神さまとの関係なんだと思います。

確かに、十字架という神の呪いを受け、私たちの罪の罰を全て引き受けてくださいました。私たちの過去の罪、これから犯す罪、存在そのもの全てをイエス様は引き受けてくださいました。しかし、そこに、そのためにあなたを遣わすとおっしゃる愛の神。アブラハムがイサクを捧げるような気持ちになられた神の愛を知っていたから、イエス様はその道を進むことができたのだと思います。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」まず、このみ言葉を通して、知って欲しいことは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃる子を十字架に架けたということです。そして、考えて欲しいのは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃる子をなぜ十字架に架けたのかということです。それは、私たちのためです。神さまに造られた私たちを助けるためです。そこから、私たちが絶対に受け止めて欲しいのは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と私たちにも語ってくださっているということです。イエス様は、この言葉を直接天から聞きました。

でも、その後の人生がどのような人生なのかは、私たちは知っています。

私たちも、人生を見るだけでしたら、他の人と変わらない。

もしかしたら、他の人より、私の方が良くない人生を歩んでいるって思うことすらあります。でも、神さまの御顔を私たちは信仰を通して知っているわけです。いつも一緒に歩んでくださる神さまを知っているわけです。

ここが本当に真実を知っている人が受けとることができる恵みです。

私たちは知っています。父なる神のような方を持つ人は世のどこにもなく、イエス様のような友となってくださる方を持つ人は世のどこにもなく、十字架に架かってまで私たちを救おうとする神を持つ人は世のどこにもいないということです。クリスマスの時に、教会学校で家内がローソクの光の話をしました。今、こうしてローソクが灯っている、でも、それほど明るくは感じない。でも、暗闇にこのローソクを置いたら、このローソクの灯は本当に輝いて見える。そのように言いました。

イエス様の光も本当にそうなんですね。私が心貧しい時、イエス様は私の宝となります。私の心が暗い時、イエス様は真の光となられます。

私が病んだ時、イエス様は命となります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」これは、イエス様におっしゃった言葉で、私におっしゃった言葉ではない・・・そう思われるかも知れませんが、そうではありません。少し、聖書の世界について来て欲しいのですが、なぜ、アダムが犯した罪が私たち人類の罪となったのでしょうか?

それは、アダムを通して、その子孫を見るというのが神さまのご意志だからです。どうして、イスラエルの民が特別に見られているのかというと、それは、アブラハムという人の信仰によって、彼から生まれてくる全ての人が祝福されるからです。神さまは、アダムを通してその子孫を見、アブラハムを通してその子孫を見られます。

イザヤ書や詩編を読みますと、イスラエルの民を、イスラエルという単数で呼び、時に、「あなたは」という風に一人称で呼ばれます。

これは、大きな意味がありまして、これは、イエス様によって成就するのです。イザヤ書や詩編の「あなた」をイエス様と思って読むと、実は、凄い事が実現していくのがわかります。

イスラエルのこの世界に対する役割は、イエス様が実現していきます。

今日、イエス様がなぜ、洗礼を受けられたのか、今日の聖書箇所で、洗礼者ヨハネは、「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」そのようにイエス様のことを紹介していました。イエス様が洗礼を受けになろうとした時に、ヨハネは「なんで私が?私の方が洗礼を受けるべきなのに?」そんな風に言っていたんですね。

でも、イエス様は、ヨハネから洗礼を受けようとされました。

それは、イエス様が、イスラエルだからです。

神さまが「あなた」とイスラエルに対して言い続けて来たことをイエス様は「わたしがイスラエルです」という風に、父なる神さまも、「あなたはイスラエル」という風に見ておられるわけです。

ですので、イエス様は、イスラエルとして、神さまの前に謙りへりくだり、頭をたれ、罪人として洗礼を受けになったのです。

神さまは、イエス様を見て、イスラエルを見ています。

そして、神さまがアブラハム、そして、イスラエルを通してこの世界に実現しようとしておられたことを、イエス様を通して実現していこうとされているのです。イエス様は、イスラエルとして、洗礼を受けます。

イスラエルが失敗し続けて来た罪をイエス様は犯さず、イスラエルが世界に世の光として、神の栄光を表す民として選ばれたように、イエス様はそれを実現していかれるのです。アダムの罪は、彼から生まれるすべての人に及びました。今、イエス様を通して勝ち取られた「義」というものを、イエス様と一つとなる人。つまり、信仰を通してイエス様と一つとなる人、洗礼を通してイエス様と一つとなる人は、アダムに打ち勝ち、イエス様の義を受け取り、イエス様と同じ様に「義」なる人として神さまに見られるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

これが、私たちに語られる時、それは、私たちが自分の罪を認めて、そして、神の前に頭をたれ、洗礼を受ける時、その悔い改めとイエス様に対する信仰を「わたしの心に適う」と神さまは評価し、そして、「わたしの愛する子よ」そのように呼びかけてくださるのです。

人が生きる目的を持てるのは、“愛してくれている人がいる”ということを実感して生きる時だと思います。

「母さんの歌」という歌を皆様よくご存じだと思います。

「母さんが夜なべして手袋編んでくれた・・・」という歌です。

この歌を作詞作曲した人は、田舎を出て、一人で生活している男性なんですね。その男性の処に、実家のお母さんが荷物を送って来てくれました。

開けると、手編みの手袋が入っていたんだそうです。

その手袋を見ながら、夜ずっと手袋を編んでくれたお母さん、自分のことを心配し、気遣ってくれる母の思いを手袋と一緒に受け取るんですよね。

そして、故郷と母親のことを思い出して、感謝の歌になっているんです。

寒いから手袋「買って送ったよ」。勿論、これも愛情ですよね。

でも、心を打つのは、「愛する我が子が寒くならないようにと、寒い中、夜なべして手袋を編んでくれた母親の愛情の方ではないでしょうか。

やはり、子供はいつまでたっても子供で、ずっと母親の愛の懐を中で生きていたんです。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイによる福音書4章4節)

神の口から出る一つ一つの言葉、その言葉の一つ、大事な一つの言葉は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」です。

あなたに語り掛ける、あなたの人生を支配しておられる神の言葉を今日も聞いてください。