宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書12章49節~56節
エレミヤ書23章23節~29節
ヘブライ人への手紙11章29節~12章2節

 「私はクリスチャン」

説教者  江利口 功 牧師

   おはようございます。

礼拝中、聖壇に、このようにしてローソクに炎を灯しています。

勿論、礼拝堂が暗いからというわけではありません。礼拝における神さまの臨在の象徴として灯しています。旧約聖書の時代、幕屋や神殿では、絶えず灯がともされていました。これは、神さまからの命令でした。

神さまは祭司に「夕暮れから朝まで絶やすことのないように」と命じておられましたので、祭司は灯が消えることのないように油を絶やさないようにずっと見守っていました。つまり、灯は、神さまの臨在、「神さまがずっと共にいてくださっているというしるしだったんです。単に、暗さを補うものではなかったんですね。古代の文献によると、「絶やすことのないように」という神さまの言葉を大切にして、ともす本数は少なくなるのですが、昼間もずっと灯していたそうです。この灯に関しては不思議な話が残っています。

昔、イスラエルが戦いを通して、異教の国から神殿を取り戻した時があったのですが、その取り戻した時、一日分しか灯の油がなかったにも関わらず、何と神殿の灯は8日の間、燃え続けていたそうです。灯は単に、暗さを補うものではなく、霊的な意味で、神さまの臨在を表していたんです。イエス様が人としてお生まれになった時、新しい時代が始まりました。イエス様は「世の光」として来てくださり、十字架で私達の罪のために死んでくださった時、世界は変わりました。そして、聖霊降臨の日、炎のような舌が弟子達一人一人の上に降りましたが、この時から、神さまの臨在は、特定の場所ではなく、信じる人の心に宿るようになったのです。それでも、キリスト教会はずっと、礼拝において、聖壇に火を灯し続けてきました。勿論、灯さない教会もありますが、伝統的な教会は、「世の光として来られたキリスト」を象徴して、礼拝の時にはローソクの火を灯しています。橿原教会では、夜もずっと、こちら側のライトを消さずにつけたままにしています。夜中、外を歩く人が教会の聖壇をガラス越しに見ると、明るく照らされている聖壇と聖書が見えます。

コロナ禍で礼拝が公に守れなくなっていた時期がありましたが、ある時、一人のクリスチャンの方が教会に寄ってくださいました。その方は、夜、道を歩く時、明るく照らされた聖壇を何度か見ることがあったそうで、「この灯りを見て心が落ち着きましたと」話してくださいました。その言葉を聞いて、改めて、聖壇と灯りの大切さを感じました。火というのは不思議なもので、ローソクの炎のように、やさしく周りを照らし、焚火のように、寒さを防いだり、安心感を与える火もあります。しかし、一方で、火事や爆弾のように、人を恐れさせ、命を奪う火もあります。火は人を生かすことも殺すこともできる不思議な力を持っています。先日の15日は、終戦記念日でした。テレビやインターネットを見ていて、改めて戦争の悲惨さを感じました。8月の6日と9日には、広島と長崎に原爆を落とされ、多くの人の命が失われました。

原爆が炸裂した瞬間、「小さな太陽」のような火の玉を見たと言われています。私は幼い頃、“日本は戦争で沢山悪い事をした。だから最後に原爆が落とされた。それは、当然で仕方のない事だった”そんな風に教えられました。

日本だけが悪く、当然の結果のように教わっていましたが、今は、本当にそうだったのかって思います。確かに、日本が悪いことをしたのは事実です。でも、広島と長崎に落とされた原爆は人道的にも決して許されるものではないと思います。核兵器がどれだけの威力を持つのかは実験によってはっきりしていたと思います。それを、武器を持たない、一般の人たちの頭上で爆発させたんです。赤ちゃんや子供たちまでもがみんな犠牲になってしまいました。確かに原爆を落とした国の人たちは、「これで戦争を終わらせることができた」「これで自分たちの国の若い人達が犠牲になることはなくなった」と思ったでしょう。あるいは、「これは裁きだ」って思った人もいるかも知れません。

その時は「戦争を終わらせるための武器」、「平和と秩序を取り戻すための手段」として使ったのかも知れません。けれど、使用された核兵器の影響はずっと残っていますし、そして、核兵器は「平和」の道具ではなく「このような凄い武器を持っているぞ」という「威嚇と支配」の道具として、ずっと残り続けています。イエス様は「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」とおっしゃいました。日本人、特に、広島、長崎の方々は、戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさを訴え続けておられます。日本は大きな国でありながら、現在は戦争を是とせず、核を持たず、世界に向けて本当の平和を訴える国として歩んでいます。私は、日本こそイエス様がおっしゃる、平和を実現する人々の姿になっていると思います。さて、今日の聖書の朗読箇所ですが、イエス様は、ちょっとびっくりするような言葉をおっしゃっています。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」(ルカによる福音書12章49節)この言葉だけを見ますと、ちょっと恐ろしいですよね。ソドムとゴモラの話にもあるように、全てを焼き尽くす、恐ろしい火を思い浮かべるかも知れません。しかし、神さまは恐怖で支配するようなお方ではありません。イエス様が投じられる火は、世を清めるための火、世を新しくするための火です。実際にイエス様の生涯を見ていましても、イエス様は火を降らせるようなことはなさいませんでした。イエス様は、十字架に架かられる前、最後の歩みとして、エルサレムに入って行かれます。その時、イエス様は、ロバに乘って入って行かれました。馬は“戦い”を象徴し、一方でロバは、“平和”を象徴しています。また、ロバは、戦うためではなく、人の荷を負うために飼われている動物です。イエス様がエルサレムにロバに乘って入って来られたのは、平和の使者として、また、人の重荷を負う神さまのお姿をロバに乗った入城を通してお示しになられたのでした。このことからも、イエス様がどう世界を変えようとされたのかが判ります。火は滅菌作用がありますし、金属から不純物を取り除く時にも用いられます。洗礼者ヨハネは『その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。』(ルカによる福音書3章16節)と言いましたが、神の火は、私たちを罪から清め、神の民に造りかえる見えない火なんです。イエス様は、『わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。』(ルカによる福音書12章50節)とおっしゃいました。これは、十字架での苦しみと死を意味しています。イエス様は、火ではなく、ご自身の命をこの世に投じられたんです。ヨハネによる福音書には『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。』(ヨハネによる福音書3章16節~17節)と書かれていますが、イエス様は火ではなく、ご自身の血によって、私たちを清めてくださったのです。私たちはクリスチャンです。クリスチャンとはイエス様の救いを信じて洗礼を受けた人、もしくは、イエス様が、十字架で私たちの全ての罪を背負い、死んでくださったお陰で、聖なるものとされた者です。

よく、「クリスチャンですか?」とか「わたしはクリスチャンです」という風に自己紹介のように用いられると思います。でも、初めは、「彼らはキリストに属する者」という風に、他の人たちから呼ばれて始まった表現です(参:使徒言行録11章26節)。つまり、日曜日に礼拝を守っているとか、普通の人と違う生き方をしているとか、そういった、人とは違う生き方をしているからそのように呼ばれました。以前に読んだ本にこのように書かれていました。

クリスチャンが迫害にあっていた頃の手紙のようです。「彼らは肉において生きているが、肉に従って生きてはいない。彼らは地上で生活しているが、天に国籍を持っている。彼らはすべての法律に従うが、法律が求める以上の基準に従って生活している。彼らは全ての人を愛しているが、全ての人は彼らを迫害している。」ヘブライ人への手紙の中にも書かれています。童話で、こんな話知りませんか?ある木こりが木を切っている時に誤って大切な鉄の斧を池に落としてしまうんですね。すると、水の中から妖精か何かが現れて来て「これはあなたの斧ですか?」って金の斧を見せるんです。その木こりさんは正直に「いいえ、違います」って答えます。すると、その妖精は次に銀の斧を見せるのですが、木こりは「それでもありません」って言います。最後に鉄の斧を見せて「これがあなたの斧ですか?」と尋ねると「それが私の斧です」と答えるんですが、妖精はその正直さを誉め、鉄の斧だけではなく、金と銀の斧まで与えましたという話です。この話を聞きながら、私はクリスチャンとして生きるって、内なる戦いだなって思います。良い人に見られるように・・・そのような思いもありますが、実際は「黙っておいてもわからない」「誰も見ていない」「誰も何も言わない」そんな時に「いや、正しく生きなくては」っていう神さまの前にどう生きるのかっていう戦いだと思います。形や内容は違っていても、斧の話は、日常の中で教訓として生きてくる話だなって思います。

神さまは、本当に見ておられると思います。私は正しく生きる時に、「神の平和」をご褒美としていただけるのだと思っています。だからこそ、主の祈りの「誘惑に陥らせず悪より救い出したまえ」という祈りはとても大事になってくると思います。『わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。』

実際にイエス様は、裁きの火を投じたのではなく、ご自身の尊い血を流されることで、恵みによる愛の火を投じられました。イエス様の愛はこの地上で火が燃え広がるように、人々の心を変え、今も世界に広がり続けています。

イエス様は『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』とおっしゃいました。イエス様は世の光ですが、私達もまた、イエス様から命の光を頂いて、世の光となっています。私たちは、家、職場、サークルなど遣わされた場所で世の光、地の塩として生きる者です。

怒らないとか、優しいとか見た目の姿を変えようと頑張るのは限界があるかと思います。でも、何かを選択する時に、先ほどの斧の話ではないですが、内側の自分の罪の力と向き合い、乗り越えて欲しいなって思います。

最初に、聖壇のローソクの話をしました。聖壇のローソクはただ、部屋を明るく照らすためのものではなく、神さまの臨在を感じさせるものでした。そして、実際に、暗い所で聖壇の光を見ると、そこに平安を感じることもあります。私たちが考える「平和や平安」というのは、「戦争がない」とか「争いがない」「問題がない」といった状態をイメージするかと思います。

でも、神さまがこの世界に造りだそうとしている「平和や平安」、聖書では「シャローム」と言いますが、それは、そのようなイメージを超えて深いものなんです。ヘブル語に「シャレム(SLM)」という言葉がありますが、これは、「シャローム(SLM)」と同じ語根を持つ単語です。そしてこの「シャレム」という言葉は、「完全」とか「支払う(賠償する)」という意味があるそうです。つまり、神さまが造りだすシャロームは、欠けのない状態、また、完全な状態、そのために支払いを完成するという意味がベースにあるそうです。

イエス様は十字架の上で「成し遂げられた」とおっしゃいましたが「支払った」という単語が使われています。イエス様は、火を投ずるために来たと言われましたが、その火は、徐々にこの世界に広がっています。私たちは、神さまの灯を内にいただき、遣わされた場所で、イエス様を証し続けていきます。この後、聖餐式を行います。私は、聖餐式を受けることで、キリストの命が私たちの内に入って来て、私達の信仰の炎を強めてくれる時だと思っています。

私はクリスチャンです。私は、キリストの尊い血によって買い取られた者です。そして、私は小さいイエス様として、世に平和を造りだす一員として、存在しています・・・。そのように思って頂ければと思います。

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章21節)