宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書12章13節~21節
詩編49編2節~13節
コロサイの信徒への手紙3章1節~11節

 「神の前に豊かに」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。

この前、聖餐式で使うワインを買おうと思いまして、ネットで色々と探していましたら、ぱっと見た時に、あるワインにこんなキャッチフレーズが書かれていたんです。楽に飲める」楽に飲める・・・。味わうワインなのに「楽に飲める??」ってどういうことだろう・・・って一瞬思いました。

「酔わない」ってことかな?「アルコール度数が低い」ということか?

「飲みづかれしない」ということかな?、色々と頭をよぎったのですが、でも、よ~く見たら、何のことはありません。「×楽に飲める」ではなくて「〇楽しく飲める」って書いてあったんです。やっぱり年ですね・・・読み間違えていました。お酒のキャッチフレーズで「楽に飲める」って、薬じゃないんだからやっぱり、おかしいですよね。でも、その時に、ふと思いました。

「楽」と「楽しい」って、同じ漢字を使っていて、少しニュアンスが違うんだなって・・・思いました。「楽に飲める」って負担が少ないということですよね。「楽しく飲める」って言うのは、嬉しい状態ですよね。同じ漢字を使っていても、片方は「負担がない」という「楽」、もう片方は、嬉しさを表す「楽しい」という意味を持っています。ちなみに、この「楽」という漢字の上に草冠をつけると、「薬」ですよね。「薬」は身体が楽になるために飲みますが、これが、楽しくなるための薬となると、ちょっと危険なドラッグ(薬)になってしまいます。お酒も、薬も、「楽」と「楽しく」は少し意味が違いますが、私たちの人生も同じようなところないでしょうか。「楽な人生」と「楽しい人生」ちょっと違いますよね。でも、「楽な人生」と「楽しい人生」両方とも、私たちみんなが願う生き方ではないでしょうか。この前、参議院選挙がありました。

新しい議員の方々が選ばれました。選挙の時のs争点の一つは、消費税の減税でした。今、物価があがり、ものがどんどん高くなっています。そのような状況で、もし消費税の税率が下がれば、負担が減って生活は楽になりますよね。「楽」な人生です。でも、それだけではだめで、「楽しい人生」もやっぱり必要ですよね。それは、「景気」が良くなれば実現するのかも知れません。

「できれば楽な人生がいいな」「楽しい人生を送りたいな」誰もが思います。そして、多くの人は、心のどこかで、「お金や財産があれば、楽で楽しい人生になる」そう思っていると思います。でも、聖書は、はっきりと言います。「富は、あなたが願っている本当のものを与えることはありませんよ」

「富はあなたを本当の幸せにはしませんよ」そして「どれだけの財産があっても、あなたを死から救うことはできません」そして、聖書はこうも教えています。「あなたを本当の意味で幸せにするものを教えてあげましょう」

「あなたから永遠に離れることはないものを教えてあげましょう」そして「それはあなたに本当の平安と喜びを与えます」それは、神さまが私たちに無償で与えてくださっているものです。それは、恵みであり、愛であり、平安です。

そして、それらは、信仰によって掴むことができます。神さまの存在は永遠です。神さまの愛は、決して私たちから離れません。生きている時も、死ぬときも、そして、その後も永遠に、私たちから離れることはありません。

それを、信仰によって持ちづける人こそ、幸いなる人となります。

さて、今日の聖書箇所ですが、そのことを教えています。今日の聖書箇所は、イエス様のもとにやってきた一人の人の願い事から始まります。

「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

遺産相続というのはいつの時代もよく揉めます。この人にとっても同じで、彼は遺産を受け継ぐことができるかが不安で焦っています。財産の分けるというのは重要ですよね。なぜなから、財産がたくさん手に入れば、人生は安泰になると感じるからです。でも、イエス様から見ればどうでしょうか。あなたを幸せにする本当に大事なものに気付きなさい・・・ということでしょうね。

この人は、自分を幸せにするであろう富を得ようと必死でした。

そして、それをイエス様に求めていたのでした。イエス様のもとに「永遠のいのちを受け継ぐには何をしたらいいのか?」という本質的な質問をしてきた人がいました。でも、この人は違っていて、「財産を受け継ぐために手を貸してください」ってイエス様にお願いしに来たんですね。イエス様には、この人が、少し憐れに見えたかもしれません。とんちんかんなお願いをイエス様にしてきたからです。私たちは、人生を平安、喜びで満たすものに気付く必要があると思いますし、それを手にしようといつも真剣にならなければならないと思います。イエス様が与えてくださる平安、喜びは、この世が与えることができるものとは、全く違うんです。イエス様は、一つのたとえをもって、神さまの真理を伝えようとされました。それが、「ある金持ちのたとえ話」です。

イエス様は、こう話し始められます。『ある金持ちの畑が豊作だった・・・

裕福な人がさらに裕福になる。これは、ある意味、世の常かなって思います。ちょっと不条理な感じもするのがこの世界ですよね。「働けど、働けど、なお、わが生活、楽にならざり、ぢっと手を見る」という石川啄木の歌がありますが、裕福な人がさらに裕福になり、貧しい人がどんどん貧しくなる・・・そんな世界に私たちは住んでいるのではないでしょうか??「ある金持ちの畑が豊作だった・・・」ちょっと不条理にも感じるこのイエス様の譬え話はどう続くのでしょうか。豊作になった、この金持ちは、考えました。『どうしよう。作物をしまっておく場所がない・・・』。先ほど石川啄木の歌で、働けど、働けどという歌がありましたが、この人は、どうしよう、どうしようと思い巡らしていたのです。顔は緩んでいたでしょうね(⌒∇⌒)。で、この人は思いつきました。

『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

イエス様は、金持ちは愚かだって言っておられるのではありません。

この前、こんな言葉を見つけました。「大きな富は人を変えません。大きな富は人が持っているもともとの本性を増幅します」そんな風にありました。

このお金持ちは、持っている以上に、さらに豊作に恵まれた時に、彼の本性が大きく現れてしまったのです。「おれの人生は終わりまで、安泰だ」「ずっと楽しい人生を歩めるぞ」って。この人はうきうきしていたと思います。

彼は自分が手にした富が、自分の人生を楽に、楽しくしてくれると思って喜んだんです。でも、イエス様の譬えは、続きます。「神は言いました。『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』」。そうなんです。私たちは、このイエス様のおっしゃる問いによって、大事なことに気付かされるんです。「私の人生にとって本当に大事なのは何か。」「私を永遠に平安と喜びで満たすものはなにか・・・」そして、それは富ではないって気づくんです。わたし、小さい頃から良く夢を見る子でした。たぶん、うつらうつらする時間が長かったんだなと思います。小さい頃の事ですが、ある時、道端に、沢山お金が落ちている夢を見ました。私は嬉しくなって一生懸命拾いました。でも、途中で、これは夢だなって気づいたんです。夢だと気づいたんですけど、変な理屈に支配されていました。何かこうやってお金を親指と人差し指でしっかり挟んでおけば、現実の世界に持っていけるって思ったんです。そして、「あ、覚める、覚める。・・・」って思って、目が覚めたら、指だけがお金を挟んでいる形で残っていました。もちろん、硬貨はありませんでした。当然ですけど・・・(;^_^Aイエス様は「自分のために富を積ん でも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」とおっしゃいました。

これは、彼こそ自分のために富を蓄える人であって、神の前に豊かにならない人です。と言っています。ある意味、神があきれる人の姿、神が憐れに思う人の姿というこでしょうね。でも、ところで、「神の前に豊かな人」ってどういう人でしょうか?みなさまどう思います?私たちは、恐らく、この世で(つまり人の目に)豊かな富を多く持っている人って、ある程度、想像つきますよね。生き方、考え方、何を大事にしているか・・・とか。でも、同じように、神さまの前に豊かな生き方をしている人もある程度、想像できると思うんです。

イエス様は、「神と富とに同時に仕えることはできない」っとおっしゃったことありますが、富に平安を感じている人と、神に平安を感じている人って、やっぱり違うと思います。では、神に平安を感じている人とはどのような人でしょうか。ハイデルベルク信仰問答集という、信仰の大切なことを教える、信仰教育の本があります。その一番の初めの問いですが、こういう問いかけになっています。

問) 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 

生きている時はともかく、死がだんだん近づいてきて、どうなるのか・・・そのような不安になる時であっても、あなたの慰めになるのは何ですか・・・そのように問いかけています。皆さまはどうでしょうか?生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。この問いかけはとても大事でして、『生きている時は、もしかして、富があなたに喜びや平安を与えてくれるかも知れない。でも、それが最後まで、「これがあるから大丈夫」「これがあるから安心だ」という慰めになりますか?』と問うています。勿論、この世の富が、最後まで、あなたの“魂”の慰めにはなりませんよねって教えています。

楽しい人生を歩みました。特に、何不自由なく人生を歩むことができました。財産は家族に残したので、家族はそれで安泰です。確かに、そのような最後に満足感を感じるかも知れません。でも、それは、神さまを知らない人の満足です。それは、神さまが下さる本当の喜び、慰め、平安に比べたら、小さいものなんです。このハイデルベルクの信仰問答は、こう答えを教えています。

問) 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 

答)『それは、わたしが、身も魂も、生きている時にも、死ぬ時にも、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。』私が、私のものではなく、私は、イエス様のものであるということ。私が何かを所有していることではなく、イエス様が私を所有してくださっていること。これが、わたしの大いなる慰めだと言っているんです。

私が何かを所有しているのではなくて、わたしを所有してくださっている方がいる。お前はわたしのものだ、わたしは決してお前を離さない!そう言ってくださる方がいる・・・しかも、それが、永遠の命を持ったお方である。

愛の方である。これが、私の慰めになっているというのです。この全く逆の事柄の事に気付き、それが、本当の喜び、平安となる人は、生き方自身が、神の前に豊かな人となっていくんです。私たちは、イエス様の譬えを聞いた時に、豊作に恵まれた金持ちが、本当の意味で、自分の思う、小さな幸福にしがみついていただけだることに気付きます。そして、本当の喜びを知らない人で終わったしまう人だったと分かります。聖書を通して語られて来た神さまは、実際に人となって、私たちの現実の中に生まれて来てくださいました。

そして、十字架で死なれることで、私たちを買い取ってくださいました。

キリストの愛から私たちを離すことはできないと聖書にあります。

私たちは何かを所有することで、安心するかも知れません。

でも、聖書は、イエス様が命と引き換えにあなたを買い取ってくださったのですと教えています。私たちが、そのことを心から喜び、それを信仰を持って受け取る時に、私たちの人生は、豊かになっていきます。

私たちが、最後死に向かう時、これまで持っていたものは力にはなりません。それだけ、死というものは、大きな力を持っています。でも、その死に打ち勝つ力によって、イエス様は私たちを天の御国に引き上げてくださいます。

この事実が、私たちが持っているものの中で、金や銀にまさる最高のものなのです。「神の前に豊かな人の姿ってどんな姿か・・・」今週一週間、ちょっとそのことを考えて過ごしてみてください。