宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書11章1節~13節

 「心を込めて祈る」

説教者  江利口 功 牧師

 

おはようございます。

「毎日お祈りをしておられますか?」このようにお尋ねしたら、皆さまはどうお答えになりますか?「はい、毎朝欠かさず祈っています」とお答えになる方もいらっしゃるでしょうね。「時間がある時祈っています」という方もいらっしゃると思います。そうではなくて、「できるだけ祈るようにしています…

けど…なかなか難しくて」と少し申し訳なく思う方もいらっしゃるかも知れませんね。また、「ごめんなさい、私は不信仰で…」とお答えになるかも知れません。皆さまは、どうですか?でも、実際のところ、「祈りたいと思いながら、気がついたら一日が終わってしまいます」ということ、多いのではないでしょうか。今日、私が、最初に皆さまにお尋ねしたいのは、実は、「毎日お祈りをしておられますか?」ということではないんです。そうではなくて「皆さまは、祈りを大事にしておられますか?」ということなんです。先週は、マルタとマリアの話から説教をいたしました。イエス様と弟子達とが訪問したとき、マルタはもてなしをしようとバタバタ忙しくしていました。でも、一方で、じっとイエス様の前に座って、イエス様の話に耳を傾けていたのがマリアでした。確かに、沢山の人をお迎えしたのですから、もてなしは大変です。

やっぱりお客さんを放っておくことはできませんよね。飲み物を出したり、食べ物の準備は本当に大変です。この世的には、もてなすことはとても大事なことですし、賞賛されることです。でも、マルタがイエス様に言った言葉を少し思い出して欲しいんですね。マルタはこう言っています。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』自分だけ、あくせく働いていて、傍で何もしないで、じっとしている人を見たら誰もが腹が立つと思います。でも、よくよく考えると、マルタが言っていることはこうです。

“マリア、座ってイエス様の話を聞くよりも、『今』もっと大事なことがあるでしょ。後でゆっくり、イエス様の話を聞けばよいのです”ってことではないでしょうか。イエス様の話を「今」聞かなくて「後」でいいじゃない。時間はあるんだから。それよりも「今」大事なことがあるでしょってことですよね。でも、そのマルタにイエス様はこう言いました。『必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』

イエス様がおっしゃりたいのは、こうです。“食事の準備をするよりも、『今』もっと大事なことがあります。マリアは、それを選んだんです。

だから、取り上げてはいけません。”もてなすという点で言えば、確かに、マルタの言っていることが正しいかも知れません。でも、これを、「祈り」に置き換えたらどうでしょうか。最初に言いましたが、「祈りたいと思いながら、気がついたら一日が終わってしまいました」と感じる時、誰もが経験されていると思います。確かに、「祈りは大事」だと思っているんです。

でも、「今」大事なことにしないで、それを後回しすると結局祈りの時間を持てないこと多いんですよね。「ゆっくり落ち着いてから祈ろう」とか「これが終わってからゆっくり祈ろう」って思うと、結局、祈りの時間を持てずに終わる・・・ってこと多いんです。これは、私の日々の反省でもあります。

今日お伝えしたい、大事なことの一つ目は、祈りを大事に思うだけではなく、実際に、大事にしましょう。ということです。さて、祈る時に、私たちがまず考えるのは、どう祈るのかということではないでしょうか。

そのことを教えているのが今日の御言葉です。ある時、イエス様がお一人で静かに祈っておられました。すると弟子達が近づいてきて、イエス様が祈り終わった後に、「主よ、私たちにも祈りを教えてください」とお願いするんですね。

弟子達はユダヤ人ですから、会堂(シナゴーグ)で、詩編や祈祷書を使って祈っていたでしょうし、日常生活の中でも祈ることには慣れていたと思います。また、町中でも、先生と呼ばれる人の祈りの言葉も聞いて来ました。

弟子たちが、祈り方を教えて欲しいと願ったのは、恐らくイエス様の弟子らしく祈りたいと思ったからだと思います。でも、それ以上に、イエス様の祈る姿に魅力を感じていたのだと思います。どれだけ忙しくても、一人静かに祈る時間を欠かせないイエス様を見てきました。実際に、イエス様は、祈りに多くの時間を割いておられました。そして、神さまの御心に従って、正しく生きるためには、祈りが欠かせないものだということをイエス様の祈りの姿を通して感じ取っていたのだと思います。さらには、イエス様の祈りは、本当に父と子が会話するかのように親密さがあって、そこに、他の人にはない霊的な姿を見ていたのだと思います。その弟子達の願いに対して、イエス様が教えてくださったのが、主の祈りでした。『父よ、御名が崇められますように。

御国が来ますように。私たちに必要な糧を毎日与えてください。

私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください。』主の祈りは、祈りのエッセンスだと思います。ここに、私たちの祈るべき願いの全てが含まれているのではないかとさえ思います。今日、主の祈りをひとつひとつ細かくお伝えすることはできませんが、まず、大事なのは、「父よ」と祈ることです。

「神さま」と祈るのと、「父よ」と祈るのとでは、親しみの度合いが全然違うと思います。イエス様は、私たちに、『あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。』とおっしゃっています。

つまり、神さまは、私に、蛇やさそりを与えるような方では決してない!という信頼を持って祈るように教えておられます。私自身、信頼が揺らぐ時がありますが、その時は、「神さまは、父ですから、決して私に悪いものを与えることはないと、信じ治すようにしています。次に、み名が崇められますようにと祈りますが、ここでは、神さまの素晴らしさを称えつつ、多くの人があなたのことを賛美することができるようにと心から祈っています。この時に、私たち自身が、本当に「主のみ名は素晴らしい」と思っているのか・・・ということが問われるのかも知れません。でも、正しい信仰と祈りをもってクリスチャン生活を送ると、そのような思いに必ずなってきます。次に、御国が来ますようにという祈りですが、これは、神さまの世界が早く私たちのもとへ来るようにと祈っています。なぜなら、神さまが共に住む世界こそ、素晴らしい世界だからです。そして、次に、祈っているのが、「私たちに必要な糧を毎日与えてください。」という祈りです。これは、私たちの祈りの中心的内容ではないかと思います。私たちは、食べ物のことだけではなく、健康のこと、世界の平和、社会の安定を祈ります。これら、私たちが生きる上で必要なものは全てこの祈りに集約されています。また、ここで、「私たちに必要な」と「私たち」と祈っているので、私たちは、隣人、同じ兄弟姉妹の糧の事、健康のこと、家族のことを祈ります。そして、この時に、私たちが経験するのは、「祈りは簡単には実現しない」ということです。ここで、必要となってくるのは、父に対する信頼です。つまり『あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。』、とイエス様が教えてくださった言葉に立ち続けるということです。さて、主の祈りの次の祈りは、罪の赦しです。実は、この祈りが、本当の意味で、「お赦しください」と祈れるようになると、人を赦せる人へと変えられて行きます。ポイントは、どれだけ私が罪人であるのかということを知り、そして、それを許してくださった神さまを知るということなんです。

そのことが本当に分かれば、神さまの愛が良く分かるようになります。

そして、主の祈りの最後、誘惑に合わせないでくださいという祈りですが、これは、神さまの御心にそぐわないことをしないように、また、私の信仰が、神さまから離れてしまわないようにお守りくださいという祈りとなっています。祈るということは大事ですが、いつも、これら全てに関することを祈る必要があります。難しいなとお思いになる時は、主の祈りを、ゆっくり噛みしめて祈るようにしてくださればと思います。私は、牧師として、やはり、祈りがきかれない・・・という経験を沢山します。“祈りましょう、祈りましょう”って言うのですが、私の中に生じるのは、祈りが聴かれないのだったら、祈る必要があるのか・・・と思ってしまうことです。でも、イエス様は、ちゃんとそのことをご存じで、弟子たちも同じように思うことをご存じで、主の祈りに続いて、イエス様はひとつの譬え話を語られます。それは、真夜中に友人のもとへ行き、“思いがけずに訪れた客に出すパンがないため、三つのパンを求める友人の話です。最初、友人は「家族も寝てしまい、戸も閉めてあるから、無理だよ、面倒を掛けないでくれ」と断ります。何で明日の朝に来ないんだって思ったかも知れません。けれども、求める側の「しつこさ」が、「友情」よりも強く働いて、その人は願いに応じていくのです。彼を動かしたのは、「思いの強さ」だったわけです。イエス様はおっしゃいます。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。イエス様は、最後まで、粘り強く祈るようにと教えておられます。

マルタとマリアの話ですが、マリアはイエス様の前に座って、イエス様と交わる時間を大事にしていました。それを最優先事項としていました。

でも、マリアの前にはイエス様がいらっしゃいましたが、現在の私たちには、イエス様が見えません。マリアが質問することは、イエス様は全てお応えになりました。でも、私たちはイエス様の直接の声は聞こえません。

ですので、私たちに必要なことは、マリアのように、主の前に静まり祈ること、父なる神さまと霊的に交わろうとすることです。そして、深くその思いを絞り出すくらいに父に届けることです。イエス様は、求め、探し、門をたたきなさい。とおっしゃっています。この三つの言葉(求め、探し、門をたたく)は、継続的に、しかも執拗な行動ではないでしょうか。その時に、必要なのは、長さ、深さ、親密さだと思います。今日、説教題を「心を込めて祈る」といたしました。まず、祈りを「大事に思う」ことに終わらず、実際に「大事にする」ことを意識して欲しいと思います。そして、祈ることは、願いが叶うかどうか以上に、私たちの魂と霊にとってとても大切なあり方です。

祈ることで、私たちは神さまと繋がり、養われ、支えられて行くのです。

そして、祈る時は、形式的にではなく、心を込めて、深く、親染みを持って祈ってください。その時、『あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。』、というイエス様の言葉を信じて祈ってください。

さらに、祈ることをあきらめないでください。しつこいくらいに、熱心に祈るようにとイエス様は教えておられます。なぜなら、思い通りにいくときよりも、むしろ思い通りにいかないときにこそ、人は深く成長するからです。

祈り続けることを通して、私たちはより神さまと向き合えるようになり、自分を見つめ直す機会にもなっていきます。しかしどうしても、祈りが届いていないように感じる時があります。神さまが沈黙しておられるように感じる時があります。その時にはどうか「十字架」を見てください。私たちは、内に働かれる聖霊なる神さまによって祈ります。祈る先は、もちろん、父なる神さまです。魚の代わりに蛇を、卵の代わりにさそりを与えるような方ではない、愛に満ちた父なる神さまです。けれども、その父なる神さまの御心が分からなくなることがあります。そんな時に、父なる神さまは「わたしがあなたをどれだけ愛しているか、十字架を見ればわかるのではないか」そうおっしゃるでしょう。

イエス様は、私たちの罪の赦しを与えるために、十字架にかかり、命を捨ててくださいました。父なる神さまは、愛する独り子を死に渡されたのです。

そこに、神さまの愛が示されています。例え、神さまの御心が隠されているように思えても、十字架を見るとき、私たちは確かに神様が、「蛇やさそりを与える方ではない」と知ることができます。それ以上の愛を知ることができます。イエス様は、弱い私たちに「信頼しなさい」「信頼していいのです」と語り掛けてくださっています。祈りは本当に力です。私自身も、反省を込めて、もっと、深く祈る者でありたいと思うようになりました。

心を込めた親密な祈りによって、私たちの霊と魂は、必ず成長していきます。