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今日の聖書箇所ですが、イエス様が弟子達と一緒にベタニアという村に来られた時の出来事です。ベタニアには、マルタとマリア、そして兄弟のラザロが住んでいました。彼らは、イエス様を愛し信頼していた兄妹でした。
イエス様も、旅の途中でよく彼らの家に立ち寄っておられたようです。
今回も同じように彼女達の家に立ち寄られたわけですが、この時の訪問は、すこし印象的な訪問となりました。イエス様が弟子達と来られたということで、彼女達の家はバタバタし始めました。当時のユダヤの社会では、旅人をもてなすことはとても大切なことでした。ある意味、常識のようなものでもありました。人々は、長旅をする時には、途中で、水分や食事を補給し、また、体を休める必要がありました。でも、現代のように、コンビニや宿泊施設やレストランなどが整っているわけではありません。ですので、旅先で立ち寄れるところがあるというのは、旅をする人にとってすごく助けになっていたわけです。
ですので、マルタとマリアの家で休める、また、お腹を満たすことができるというのは、とてもありがたかったと思います。イエス様とお弟子さん達も、彼女達の家に来た時には、喉も渇き、空腹だったでしょうから、それだけに、マルタにとっては、「もてなさなくてはならない」と必死になったと思います。今でしたら、いついつに行きますとか、もうすぐ着きますとか、連絡手段がありますが、当時はそのようなものはありません。多分、突然、旅人がやってくる・・・そのようなことが多かったと思います。この時も、イエス様が来ることを彼女達が知っていたかどうかはわかりません。ともかく、「ようこそお越しくださいました」「さあ、足を洗ってください」「水をお出ししますのでゆっくり休んでください」ともてなしが始まったのだと思います。そして「食事の準備をしなくっちゃ」「何をお出ししようか」「何があるのかなぁ」と食事の準備でてんてこ舞いになったと思います。旅人をもてなすということですが、先ほど読んだ、旧約聖書の創世記にも同じような記述がありました。アブラハムの処にみ使いがやって来た時の話です。その時、アブラハムは、み使いを見つけるとすぐに天幕から走り寄ってひれ伏してこう言いました。『水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。』アブラハムは三人の来客を丁重にもてなそうとします。妻のサラには、上等の小麦粉でパン菓子を焼かせ、自分は、牛の群れの所に行き、柔らくて美味しそうな子牛を選んで、それを召使いに調理させました。そして、出来た料理を全部、み使いの前に並べ、そして、彼らが食事をしている間、側にたってずっと給仕をしていたと書かれています。私はこの話に触れた時、これまでのマルタの話が違って見えて来ました。“あれっ
持成しているじゃないか”と思ったのです。マルタのように調理して料理を振舞っているのです。似ていますよね。三人のうちの一人が、特別なお方で、後に人なってお生まれになるイエス様だったと考えられています。アブラハムは、サラに子供が生まれること。そして、ソドムとゴモラに審判を下しに来たことを告げられるのでした。旅人をもてなすということは、とても大事なこと、また、相手を大切に思っている証しでもありました。
今日の福音書でのマルタがしたことも大事なもてなしです。でも、今日の聖書箇所では意外な展開になっていきます。マルタはもてなそうとバタバタしています。一方で、妹のマリアは、何もしないで、イエス様の前に座って、お話を聞いていました。すると、マルタはイエス様にこう言うんです。
『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』猫の手も借りたいくらい、バタバタしている時に何もしないでいる人を見たら、誰もがいらってなると思いです。もとのギリシャ語で彼女の言葉を見たら、「私の妹は私を奉仕する状態に置き去りにされている」と言っています。一人、取り残されていると感じているようです。そして、「何ともお思いになりませんか」と言っていますので、マルタにとっては“イエス様も、私を置き去りにしている”という不満になっていたわけです。もてなすことは大事なこと。
彼女のしていることは間違っていません。でも、この時マルタは時間の余裕だけではなく、心の余裕までなくなってしまっていました。そして、“イエス様が彼女の家にいてくださっている”ということの意味が分からなくなってしまっていたんですね。人間は弱いですね。というか、悪魔はうまいですね。
イエス様を一番にしている思いがあって、もてなしをしていても、その喜びをさあっと持っていかれてしまいます。そんなマルタにイエス様はこうおっしゃいます。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。
それを取り上げてはならない。』イエス様は、マルタのしていることを「否定」したのではありませんでした。多分、マルタは食事の準備が一通り終われば、イエス様の話をゆっくり聞こうとは思っていたと思います。イエス様は「必要なことはただ一つだけである」とおっしゃっています。それは、何だと思いますか?それは、全てにおいての優先順位です。全てにおいて私にとって大事なのは何かということです。確かにマリアは手伝うべきだとは思いますが、彼女は、優先順位をちゃんと理解していました。それは、イエス様の前に手をとめるということです。もちろん、もてなすことは大事です。しかし、優先順位を間違ってしまうと、悪魔はその人の心をさらっていってしまい、大事なイエス様との交わりを奪いさってしまいます。教会学校の暗証聖句が“強くあれ、おおしくあれ”という聖句を暗唱しています。“強くなりなさい、雄々しくなりなさい”と言っているのではありません。これは、神さまが私たちと共に居られるから、神さまにあって強くなり雄々しくなりなさいと云っているのです。まづ、神さまが居られことです。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』
これは、マルタにだけ語られた言葉ではありません。私たちにとって、とても大切な言葉として、イエス様はお語りになっておられるのです。ちょっと話しはそれますが・・・私たちは聖書の言葉を読む時に、昔の出来事を記した“過去の記録”のように読んでしまうことがあります。それだと他の本と変わりませんよね。でも、聖書は永遠なる神さまの言葉が書かれていますから、聖書は、読まれる時に、または、語られる時に、それは、神さまがお働きになる媒体となるんです。み使いがアブラハムに「来年の今頃、私はやって来る。“と言われていますが、現実委は来られていません。けれども、アブラハムは子供を授かるのです。神さまは永遠のお方ですので、神さまが語られた言葉は、時間にしばられていません。語られる時に“今、起こる出来事”になります。
たとえば、聖餐式のときに、牧師は「私たちの主イエス・キリストは渡される夜・・・」と初め、『取って食べなさい・・・』とイエス様の言葉を読み上げますよね。でも、それは単に二千年前のことを再現しているだけではないんです。特に、イエス様が「記念をして、つまり定期的にこれを行いなさい」とおっしゃっていますので、特別なんです。明らかに、今、起こる出来事となるんです。イエス様は、今、私たちに、あの時の出来事と同じ霊的な出来事をここで実現させておられるんです。礼拝はそんな特別な空間なんです。
そして、説教もそうです。今日、マルタにお語りになっているこの言葉も、単なる過去に起こった情報ではありません。勿論、私たちは今マルタのような状況ではありません。むしろマリアのような状況です。でも、神さまは、今、同じように、私たちの心に働きかけておられるんです。イエス様が死んだ人に「起きなさい」とおっしゃったことありました。すると、その人は起き上がりました。その人は、「起きなさい」という言葉を聞いて、「起きなきゃ」と思って起き上がったのではありませんよね。イエス様の言葉がその人に働きかけたから起き上がりました。それと同じように、聖書の言葉、特に、イエス様がお語りになるお言葉は、私たちに働きかけてきます。御言葉を読む時、特に、礼拝でみ言葉が語られる時、特別な思いをもって受け止めて欲しいと思います。
すると、聖霊が豊かに私たちに働きかけてくださる・・・そのような体験ができると思います。話をマルタに戻しまして、マルタにイエス様は、『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』とおっしゃいました。イエス様は、マルタのしていることを「否定」したのではありません。多分、マルタは食事の準備が一通り終われば、イエス様の話をゆっくり聞こうとは思っていたと思います。でも、一番初めに優先順位を間違っていたので、悪魔は彼女の心をさらっていったのです。
そのことをイエス様はおっしゃったのでした。もしかしたら、マルタはバタバタしすぎて、イエス様がお帰りになるまで、イエス様の言葉を聞こうと思えなかったかも知れません。下手をすれば、マリアに「イエス様は何とおっしゃっていたの?」と聞くことになったのかも知れません。そうなれば、み言葉に生かされることにはなりませんでした。しかし、イエス様は、ちゃんとマルタにとても大事なことを、「ただ一つ」お語りになっていたんですね。マルタの中にあった優先順位は、私たちの中にも深く根付いているものです。私たちは忙しくなると、ついつい、神さまと交わること、特に、祈ることを後回しにしてしまいます。忙しくなると、なぜか自分で解決しようとしていまいます。
でも、これが、遠回りであり、非力な選択になってしまいます。
私自身、説教の準備をしていて、焦って来ると、意識して神さまに聞くということをしなくなってしまいます。水泳で言えば、潜水して泳いでいるような感じです。結構速く進みますがもちません。でも、イエス様は、「必要なことは何か」「あなたにとって必要なのは誰か」と問われるんです。
そして、何もしないマリアを見させ、『マリアは良い方を選んだ。』とおっしゃるんです。マルタはイエス様に「わたしだけにもてなしをさせています」と言っています。ここで、「もてなし」という言葉を使っていますが、これはギリシャ語で「ディアコネイン」という言葉が使われています。
私たちが来年に担当する女性連盟大会のテーマ「ディアコニア」という言葉と同じなんです。私たちは、先週、善きサマリア人の話を聞きましたよね。
あの助けるサマリア人の姿は、よくディアコニアの例に引用されます。
でも、今日の話でマルタは一生懸命ディアコニアをしているのに、イエス様は彼女を否定することはありませんが、味方にはなってくださらなかったんです。むしろ、「大事なものをあなたは見失ってしまった」とおっしゃるんです。
彼女の奉仕したいという愛情は、私だけがしているという思いに変わってしまいました。また、それは、相手を批判するまでになってしまいました。
本来ならば、相手のためを思って自分が喜んで犠牲になる愛の業なのに、義務のようになってしまったのです。ディアコニアは人間の心からでる尊い「助ける思い」「もてなしの思い」です。でも、それを悪魔は、簡単にさらっていってしまいます。これは人間の弱さです。パウロはエフェソの信徒への手紙6章12節でこう言っています。『わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。』悪魔は、私たちに自分一人で戦うように、神さまに頼らないようにしようとします。ですので、パウロは、主により頼み、その偉大な力よって、強くなりなさいと言っています。それは武具であると言っています。
旧約聖書の詩編46編にこうあります。『万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍やりを折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」』万軍の主はあなたと共にいます。神があなたに代わって敵を打ち砕きます。あなたは、静まり、神に任せなさい。そう言っています。
信仰者こそ、静まるのです。信仰者こそ、困った時に神の力に頼るんです。信仰者こそ、時間がない時にこそ、神に祈り交わろうとするのです。
先週はディアコニアの話、今週は、ディアコニアの思いは尊いですが、でも神が第一であることを教えています。そして、来週は、この次の箇所ですが、神さまとの交わりの中で一番の方法である「祈り」の話となっていきます。
今日、私は、「それでいいのか」という説教題にしました。
恐らく、マルタはマリアを見て、「それでいいのか」って思ったと思います。でも、イエス様は、マルタ自身に責めはしていませんが「それでいいのか考えて見なさい」って自分に問いかけるようにおっしゃっています。
私たちは、「それでいいのか?」という表現は、多くの場合、他の人に向けて使います。しかし、今日は、信仰の面で「それでいいのか?」と自分を問い直す時として欲しいと思います。私は、今日のお話を準備するなかで、沢山、思わされました。「忙しさの中で、祈りを後回しにしているけれど……それでいいのか?」「自分の力で解決しようとしている……それでいいのか?」こうした問いかけをしながら「神さまのまなざしの中で」してみて欲しいと思います。それは私がいったのではなくて、マルタにおっしゃったイエス様の言葉が、「起きなさい」という風に、私たちに働きかける言葉となっているという風に感じてもらえればと思います。
お祈りします。
『神よ、わたしを究きわめ、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。』(詩編139編23~24節)
天の父よ、私たちは、自分の力で何とかしようと、あれこれと忙しくしてしまいます。でも、あなたはいつもそばにおられます。そして「静まりなさい」「放棄しなさい」「わたしと交わりなさい」と言われます。
それは、力強いあなたに、深い愛と信頼を持つようにとの招きだと知っています。どうか今日、わたしたちがあなたの前に静まり「わたしこそあなたの神である」と語られるあなたの声に耳を傾けることができますように助けてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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