宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書10章1節~11節・16節~20節
詩編66編1節~9節
ガラテアの信徒への手紙 6章7節~16節

 「栄光と十字架」

説教者  江利口 功 牧師

 

おはようございます。

ヨーロッパや西アジアを旅しますと、街のあちこちで古くからある教会を見ることができます。私も一度、イタリアを旅行したことがありますが、観光地に行きますと、教会が多いですが、一際目立つ中世に建てられた大聖堂もあるんですね。大聖堂と言えば、荘厳な石造や、美しいステンドグラスをイメージする方も多いかも知れませんが、間近で見ると本当にその存在感に圧倒されます。教会の歴史というのは、とても長く、イエス様が誕生したのが紀元前4年頃になりますから、二千年位の歴史があります。でも、昔の教会で、イエス様を何を信仰の対象にしていたのかと言えば、最初の頃は十字架で苦しむキリストではなく、むしろ、権威や栄光を帯びたイエス様だったんです。

四世紀頃に建てられた教会に描かれている絵などを見ますと、お生まれになった受胎の神秘を描いていたり、復活の勝利を表現するものが多くありました。そこにキリストの素晴らしさというか栄光を見ていました。

つまり、昔々は、「勝利のキリスト」がその信仰の中心だったんです。

勿論、十字架のイエス様に対する信仰はありました。

しかし、それは、「苦難の中で死んでくださったイエス様」ではなく、むしろ「十字架で勝利されたイエス様」でした。今日、説教題を「栄光と十字架」という題にさせて頂いたのですが、イエス様の栄光の姿と十字架の姿を考えた時に、イエス様の“十字架の姿こそ、神さまが一番、私たちに示したかった姿であった”ということを神学的に打ち立てたのが、ルターだったんです。

栄光と十字架は、私たちにとって敗北ではなく勝利なのです。十字架につけられたことは、表裏一体なのです。そのことを今日の説教から汲み取って頂ければと思います。今日の聖書箇所で、イエス様は、72人の弟子を選び出し、町や村に遣わされました。彼らは、イエス様に先立って、人々に悔い改めを呼びかけ、同時に、イエス様から与えられた、権威によって、悪霊を追い出したりしていました。恐らく、病の人も癒していたと思います。想像してみてください・・・イエス様に権威を与えられ、出かけて行ったら、悪霊を追い出せたり、病を癒したりすることができたら・・・。「凄い!」って感動すると思います。「イエス様凄い!」って感じる弟子たちもいれば「自分って凄い!」って誤解する弟子たちもいたと思います。実際に弟子たちも遣わされて出掛けて行き、そして帰って来たときに、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と言って喜んでいるというか、驚いています。(1017節)その喜びは当然だと思いますが、イエス様はこうおっしゃっています。

『蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』

ここには、イエス様の大事なメッセージが込められていると思います。

それは、「相手を打ち負かす、この世的に成功するという勝利の栄光にしがみついてはいけません。それをイエス様に対する信仰にしてはいけません」ということだと思います。「うまくいくこと」や「勝つこと」が信仰の本質ではないということです。「イエス様に従ったら順調にいく」「敵に勝てる」「奇跡が起こる」実際そのような事は起ることがあります。でも、それがあなたの信仰の中心とならないように注意しなさいということです。最初、「中世以前には、仰の対象は勝利のイエス様でした。」ということをお話しましたが、まさに、「イエス様に従ったら何でも順調にいく」「敵に勝てる」「奇跡が起こる」ということが信仰の中心だったんです。勿論、そういうことは起こります。

旧約聖書を見ても、イスラエルの民は敵に勝ち、豊かなになり、神さまはご自身の栄光を自分達の民族を通して世に示しておられました。でも、それは、神がご自身を信じるものの幸いと祝福を表しているものであって、「信じたら順調にいく」とか、「信じたら勝利」するということを信じさせようとしているのではないんですね。イエス様が人々を癒し、多くの奇跡を起こし始めると、人々は、この人だったら、ローマに勝てる。王になって治めてくれる。

食べものに困らない。そういったことが信仰の中心になっていったんです。

イエス様はそれを避けようとされました。なぜなら、自分たちの成功のために、イエス様を信じるという信仰になっていくからです。イエス様は、弟子たちに大事なことを間違わないようにこうおっしゃっています。『悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』10:20節)信仰の喜びは、わたしの願いがいつも叶うことではありません。私が神さまに見いだされ、洗礼を通して永遠の命が与えられ、私の名が天に記されているということです。

さらに、わたしの功績や努力ではなくて、イエス様の十字架によるあの苦しみがあって私の罪が赦されているという、喜びなんです。そして、もう一つ、私のために十字架で死んでくださったイエス様が、今も、わたしと一緒に、私の苦しみといっしょに歩んでくださっているという平安です。これが、信仰の慰めであり、喜びなんです。ダビデは、詩編23編4節でこう言っています。『死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。』この詩編は、「信じた人は死の陰の谷を行くことはない」という信仰ではないです。信じた人は、死の陰の谷を行く時も恐れない。と言っているんです。

これが、わたしの栄光ではなく十字架の主を信じる信仰です。これが、世が与える平安とは違う、イエス様による平安です。何度も言いますが、信仰を持っても、勝利しない、願いが叶わないということを言っているのではないのです。祈りなさい。祈りなさい。願いなさい。父はあなたの祈りを聞いておられますってイエス様はおっしゃいますし、実際に、信仰者が不思議な奇跡を味わっていくことはよくあることです。ただ、「栄光の主」、「勝利の主」を信じそれにあやかるのが本当の信仰ではなくて、苦しみの中で、同じように苦しんでくださり、あなたと共にいるとおっしゃってくださる、イエス様を信じるのが本当の信仰なのです。最初に、古代教会、中世の頃の教会のことをお話しました。

イエス様の時代のユダヤ教の信仰者も同じでした。それは、「信じたらどうなるのか」「律法を守ったらどうなるのか」というところに焦点がありました。しかし、イエス様がおっしゃっているとおり、私たちの大きな喜びは、罪赦されて、天国に行けるということです。話が少しずれますが、わたしが大学在学中に洗礼を受け、青年の人たちと話していた時に、その青年がこんな風に言いました。それは、オレンジジュースを前にして話をしていたのですが「もし、わたしがイエス様に『このジュースの色を変えてください』って言ってその通りになったら、誰もが信じると思うんだけどね」って言いました。

どうですか?皆さまそう思いませんか?自分がイエス様の名によって願ったらその通りになったとしたら、みんな信じてくれるだろうなって思いませんか?信じて欲しい人が、例えば、その悩みが祈りによって解決したら、信じてくれるのに・・・って思うことあると思うんです。でも、そうならないでしょ。

多分、わたしは、そのように祈ったら、違った信仰になるからだと思うんです。

神さまの栄光なのに、自分の栄光を求める信仰になってしまうと思うんです。イエス様があの苦しみを通して与えてくださった永遠の命に対する信仰を消し去ってしまうと思います。先ほど、初期のキリスト教における「勝利の信仰」の話をしました。その時代には、もう一つの、ある意味“危険な信仰”がありました。それは、「自分は罪に打ち勝つことができる」「自分には善を行う思いと力がある」という信仰でした。一見、信仰者として敬虔な姿に見えるかもしれません。でも、それはイエス様の救いを前提としているようで、実は、自分の意志や力の凄さを信じる、もしくは誇る方向へと傾いています。

実際には、私たちには罪に打ち勝つ力は全くありません。だからこそ、神さまが人となれ、十字架にまでかかってくださったのです。その十字架の恵みを、少しでも「自分の努力」や「自分に意志」にすり替えると、知らず知らずのうちに、自分に栄光を帰してしまいます。そのような信仰になります。

すると、イエス様抜きにした人生を歩むことになります。親切にしたり、困っている人を助けたりするのはとても大事なことです。でも、心のどこかで「わたしは良い人だ」とか「親切なクリスチャンだ」という思いがあると、悪魔はその気持ちを利用します。悪魔は上手ですね、大きく 大きくその思いを気づかないように膨らましていきます。すると「神の栄光」ではなく「自分の栄光」に生きる人へとなってしまいます。本当の愛、義、というものは、イエス様において完全に表されました。イエス様と比べて見たら、自分の善は完全ではないということが分かります。だからと言って、そのようなことをしても無駄ですということを言っているのではありません。そうではなくて、「誇ることなく」静かに謙遜に仕える人となりたいんです。「誰かに認められるため」でもなく、「良い人と思われたいから」でもなく、ただ、主が愛してくださったように、私たちも愛する・・・そのような、十字架の主を土台とした、信仰の歩みが大切なんですね。イエス様が遣わされた弟子たちは、「悪霊さえも服従しました」と言って、帰ってきました。でも、イエス様は、そのことを誇ってはいけません。あなたの名が天にあることを喜びなさいとおっしゃいました。

自分の思い、願いをイエス様に祈ることはとても大事ですし、願いは叶えられます。隣人に親切にすることもとても大事です。祈りは切なる願いを伝え「このような私を憐れんでください」という思いで祈ると良いと思います。

できれば、「御心ならば叶えてください」というイエス様の祈りも大事だと思います。何より大事なのは、イエス様の十字架を通して示された最高の愛によって、私の名が今、天に記されたということ。そして、あの十字架の主が、私の苦難の中に一緒にいてくださっているということです。

イエス様は{私たちに与える平安は、世の平安とは違う}とおっしゃいました。私が与える平安こそが、この世の人たちが求めても持っていない最高の平安になります。信仰を強くし、あなたの中を平安で満たして戴ければと思います。