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おはようございます。聖書を読んでいると、何度も目にしてきた箇所なのに、ふと「ん?何で?どうして?」と疑問が沸いてくること、ありますよね。
皆さんもそのような経験があるのではないでしょうか?なんでかな?って思った時、少し時間を使って考えて行くと、答えが見つからなくても、新しい気づきを得ることがあります。ここ数週間、イエス様の復活とその後の出来事を一緒に見てきましたが、私は今回ひとつ気になったことがありました。
それは、「なぜイエス様は、復活された後、以前のようにずっと弟子たちと共におられなかったのか?」ということでした。復活されたイエス様は、弟子たちに現れたり、消えたり、まるで「ぽつん、ぽつん」と姿を見せてはまた去って行かれるような、そんな感じです。そのようなイエス様だからでしょうか、今日の聖書箇所を見ますと、弟子達は、復活のイエス様と出会っているのに、「漁に出よう」と言って、いつもと同じように漁をしています。
不思議な感じがします。復活したイエス様は、これまでと同じ姿ではなかったようです。扉を閉めていても中に入って来られました。また、側にいて一緒に歩いていてもイエス様であることに気付かない弟子達の姿も描かれています。
ちなみに、その弟子たちが「あ、イエス様だ」って気づいたら、ふぁっと消えて行かれました。これらの出来事から分かるのは、復活されたイエス様は、もはや以前のように「目に見える形で共にいる」存在ではない、ということです。そしてそれは、「これからは見えない方を信仰によって見つめ、共に歩んでいく」そのような信仰者へと、導くためだったのではないかと思います。
そのように考えると、確かに、イエス様は、時々、信仰によって立ち上がるように促されることがよくあります。ベトザタの池の傍らで、長年動けずにいた人に対してイエス様は、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられました。また、友人たちに運ばれてきて、天井からつり下ろされた人には、「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と命じられます。さらに、死んでいた青年には「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と語りかけ、ラザロには「出てきなさい」と呼びかけられました。共通しているのは、彼らが皆、自力ではどうにもならない状態だったということです。しかしイエス様は、彼らを「ただ癒す」だけでなく、「自ら立ち上がり、歩み出す者」として召し出されました。イエス様の言葉は、「さあ、動かして見て」とか「立ってみようか」と言うような、もしくは、寄り添うようなもしくは励ますようなかたりかけではなく、イエス様の言葉は命令であり、同時に新しい力を与える宣言でもあったのです。
「歩け」、「起きよ」、「出てきなさい」という風に、自分の力で歩く、立ち上がる人へと変える、そういった力強い信仰者を作り上げる語り掛けなんですよね。それがイエス様のお姿でした。これは「信仰によって新しい人生を生き始めなさい」という招きを意味しています。「他力本願」という言葉は仏教の考え方ですが、キリスト教でも、救いは「神の一方的な恵み」であるとされています。つまり、私たちの力ではなく、神の憐れみと愛によって与えられるものです。私たちは完全に無力であり、神の助けなしには立ち上がることができません。でも、神はその私たちに「立ちなさい」「歩きなさい」と語られ、信仰によって新しい力を同時に与えてくださるのです。聖書は、神さまは、命と信仰を回復してくださると当時に、私たちの内側に新しい力を与えてくださって、これまでの自分とは違う存在にしてくださり、「信仰によって新しい人生を生きる」ように教えています。私たちは、これまでと違い、新しい力で、新しい人生を生きるように望んでおられます。多分、「いや、わたしは、今までの自分と何も変わっていないし、信仰も弱いし、大それたことはできません・・・」って思われると思います。でも、そこで、必要になってくるのが、見えない主と共に歩むということなんです。「いやいや、私なんて、そんな立派な信仰者じゃないし、信仰も弱いし…」と思う方もおられるでしょう。でも、大事なのは、目に見えないイエス様と共に歩む「信仰の目」を持つことです。
信仰の目を養うことです。ペトロは、イエス様が十字架で捉えられる時、「わたしは決してあなたから離れません」と大きなことを言いましたが、イエス様が捕らえられた時には、恐れのあまり「そんな人は知らない」と三度否定しています。「あなたは生ける神の子、キリストです」と言い切ったペトロも、目の前に迫る恐怖には勝てませんでした。けれども、そのペトロも、成熟した信仰者へと変えられて行きます。使徒言行録を見ますと、ある時、ペトロは神殿の門で物乞いをしている足の不自由な人に出会います。その人がペトロに施しをこうとペトロはこういうんです。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録3章6節)。格好いいですよね。あの臆病だったペトロとは思えません。成熟した信仰者のように、力強く言葉を語り、人を癒しています。今日の聖書箇所では、イエス様は復活後、弟子たちと食事を共にされ、その後、ペトロにこう尋ねられます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、わたしを愛しているか」3度繰り返して尋ねられたこの問いかけに対して、ペトロが「はい、主よ。あなたがご存知です」と答えるたびに、イエス様は「わたしの羊を飼いなさい(わたしの羊の世話をしなさい)」と命じられました。イエス様は、ペトロは後ろめたさを解き放つだけではなく、群れを託す者として新たに立たせられたのです。それは、ペトロがこれからは「神に仕え、人に仕える者」として歩んでいくことを意味しています。イエス様は、ペトロを赦すだけでなく、群れを託す者として新たに立たせられたのです。
それは、彼がこれからは「神に仕え、人に仕える者」として歩んでいくことを意味しています。この招きは、私たちにも向けられています。
信仰が与えられ、新しく生まれ変わった私たちもまた、「神に仕え、人に仕える者」として歩みます。先週、女性連盟大会で、橿原教会で洗礼を受け、その後、牧師になられた吉川先生が、創世記のアダムに対してエバを創造された箇所のことでお話してくださいました。吉川先生は、神さまがおっしゃった。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2章18節)という言葉の中の、「彼に合う助ける者」という言葉を解説してくださいました。「彼に合う」というのは、目の前にいるような存在だという事でした。調べて見ますと、これは、エバがアダムを「助ける者」とありますが、それは、上からでもなく、また、僕のように仕えるというものでもなく、アダムと同じ視線で、向き合い、お互いが補い合うような存在として創造されたという意味でした。神の御心を実現していくためにお互いが必要であるようにお造りになられたという意味のようです。私たちが、人に仕えるという時も同じだと思います。それは、「人を助ける」と言っても、上から目線でもなく、また、僕のように「はい
はい」と言って人に仕えるのでもなく、同じ視線にたって、相手を励まし、相手に仕えるということになります。
でも、そう考えると、イエス様こそ、私たち人間の助ける者となられたお方であるということがわかります。イエス様は、神であり、永遠の存在でした。
しかし、イエス様は、私たちを助ける者となるために、そのままの神のお姿で来られることはありませんでした。エバがアダムの体の一部を使って生まれてきたように、イエス様は、マリアという女性からお生まれになりました。
そして、死ぬ必要のない方が、私たちと同じ罪人の姿を取り、死の定めまでもお受けになってくださいました。どこまでも私たちと同じ姿になろうとされたのがイエス様です。そして、私たちと向き合うものとなってくださり、最後には、ご自身の命を捨てて、私たちに永遠の命を回復してくださいました。
イエス様のお姿に中に仕える人の本当の姿があります。私たちは、人に仕えるのですが、まず、イエス様が、私たちに仕えてくださったということを忘れないで欲しいと思います。その上で、私たちは、イエス様が私たちにしてくださったのと同じように、隣人に対して、上からでもなく、また、僕のようにでもなく、同じ視線で寄り添う必要があります。吉川先生はルターの“キリスト教者の自由”だと思うのですが、律法は“この世の正しいことは何か”を教えていますが、実行する力は与えていません。その一方で福音は、正しい人の姿を教え、かつ正しい人になる力を与えると言われました。私もキリストに仕えて戴き、また私もキリストに仕えていきたいと思うのです。イエス様が「目に見えない」というのは、「居ない」ということではありません。
今も生きておられ、私たち一人ひとりと関わり、導いておられます。
信仰によって私たちはそのイエス様との交わりを持ち、イエス様から恵みを頂き、そして、世に遣わされて行きます。今日のペトロのように、私たちもまた、洗礼を受けて新しい命に生かされ、遣わされています。そして今、神に仕え、そして人に仕える人生へと招かれています。それは教会の中だけではなく、家庭で、職場で、地域で、どこにいても、イエス様に従い、仕える者として生きることです。それが、新しく頂いた私たちの生き方です。
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