宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカにおる福音書24章1節~12節
イザヤ書65章17節~25節
コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章19節~26節

 「過去も未来も」

説教者  江利口 功 牧師

 

主のご復活を心より賛美いたします。

「門出」という言葉、ありますよね。この「門出」という言葉は、「新しい人生の門出」とか「二人の門出」と言った使い方がありますが、意味としては、人にとっての「新しい始まり」を表す言葉です。ただ「何かが始まる」ということを表すだけではなく、入学、就職、結婚、引っ越しのような人生の節目に、誰もが感じる、「新しい何かが始まるというワクワク感」「そこに待っている期待や希望」。そういった、「新鮮さ」「不安」「どきどき」そういった「心に生じる思い」を想起させるのもこの「門出」という言葉に含まれていると思います。

この「門出」という言葉から連想される、どこか清々しい空気、また、新しい何かがこれから始まる・・・そんな希望に満ちた雰囲気、これが、門出という言葉に感じることです。私は、イエス様の復活の出来事も同じようなものではないかと思います。イエス様は、十字架と死と復活を通して、私たちと神さまとの隔ての壁を取り除いてくださいました。イエス様が復活したとき、私たち人類は、神さまが私たちのために準備してくださった、新しい時代に入ったのです。それは、ノアが新しい大地に降り立った時と同じような感じです。

ノアが大洪水の後、激しい嵐の後の静けさを舟の中で感じたと思います。

そして、いよいよ大地に降り立とうとしたとき、ノアは神さまが準備された新しくなった世界をみました。そして、澄んだ空気、清々しい感じ・・・ノアは神さまが造りだしてくださった新しい世界を厳粛に受け止めたと思います。

おそらく胸いっぱいに深呼吸をして、「新しい世界が始まった」と一歩踏み出したことでしょう。イエス様は、十字架で「成し遂げた」そう言って死んで行かれました。しかし、墓に葬られた後、三日目に新しい身体を持って復活して出て来られました。これはあくまで想像でしかないのですが、イエス様を「人としての側面」で見た時、十字架で「我が神、我が神、どうして私を見捨てたのですか」とおっしゃり「わが霊を御手に委ねます」と言って、息を引き取られたのですが、そのイエス様が、再び、目をあけられた時、場所は、お墓ではありましたが、新しい身体で蘇った自分を実感されたのではないかと思います。そして、墓が出て来られた時、そこに広がるのは、神さまと関係が回復した世界でした。ただ、新しい門出は、イエス様だけの門出ではなくて、私たち、人類にとって、そして、この世界にとっての新しい門出となりました。

確かに、この世界は、イエス様の復活前後で、何もその姿を変えていません。でも、イエス様が、十字架で息を引き取られ、蘇り、そして、墓から出て来られた時に、新しい世界が始まったのです。私たちは、新しい世界に、今、生きているのです。イエス様の復活と共に、この世界は、新しい「門出」を迎えました。新しい世界が始まりました。しかし、イエス様の復活は、弟子たちにとっては、ピンと来ていませんでした。イエス様は復活されたのに、婦人たちは、死んだイエス様のご遺体に塗る香料を持ってお墓に行っています。

すると、石が転がしてあって、中には、ご遺体がなかったのですが、婦人たちは、誰かが遺体を盗んでいったと思いました。み使いたちに復活したことを告げられますが、婦人たちは、信じたとしても、“実感が伴わない”状態だったようです。婦人たちの話を聞いて、他の弟子たちも“半信半疑”でした。

その中で、ペトロとヨハネが墓に向かい、中を覗き、そして、そこにイエス様を包んでいた亜麻布だけが置いてあったのを見て、イエス様のご遺体が盗まれたのではないということを実感します。だんだん、何が起こったのかが分かってきます。そして、復活されたイエス様と出会い、語りあい、食卓を共にする中で、弟子たちの中に少しずつ確信が芽生えていきます。

徐々に、イエス様の復活が真実味を帯びてきて、そして、ペンテコステの日に、イエス様の復活の聖書的な意味、神学的な意味を悟ります。

そして、「世界が新しい時を迎えたんだ」ということを実感し、世界宣教に出かけたのでした。ずっと一緒に、イエス様といた弟子たちでさえ、復活の事実を実感しにくかったのですから、今の、私たちはなおさらだと思います。

私たちにとって、イエス様の復活は、二千年も前の話です。

遠い昔のことです。ですので、イエス様の復活に関しては、漠然としていたり、信じているようで確信できていなかったり、もしくは、ピンと来ていなくてもおかしいことではありません。でも、実際は、私たちが、こうして復活を覚えて礼拝していますが、こうして信仰を持つに至ったのは、復活のイエス様と出会い、そのことを確信し、迫害されながらも、全世界にイエス様の復活を命がけで弟子たちが宣教したからなんですね。私たちは、弟子たちが命がけで、復活したイエス様のことを証ししてくださったので、今、信仰を持つことができているんですね。私たちは、あの時の弟子たちと繋がっているんですね。

パウロという人がいます。パウロは、イエス様の直接の弟子ではありませんが、栄光に輝く復活のイエス様と出会った人です。パウロは、イエス様の十字架によって与えられた恵みについて、また、復活されたイエス様のことを人々に告げ知らせた人なのですが、やはり、復活という出来事は、なかなか、理解されていなかったようです。しかも、パウロの言葉を信じて、イエス様を受け入れた人達の中にも、イエス様の復活に対して、半信半疑の人たちがいたようです。そのような人たちにパウロは次のように言っています。今日、お読みした箇所ですが、パウロはこう言っています。『キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。』コリントの信徒への手紙Ⅰ15章12節~14節)そうなんです。イエス様が復活しなかったのであれば、イエス様は、ただ、愛を説いて死んでいった、素晴らしい人格者であって、永遠の命は私たちのうちにありません。さらに、パウロはこう言っています。『この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。』(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章19節)私は、この「最も惨めな者です」という言葉が、ぐさっときました。もし、イエス様が復活していないのであれば、こうして、復活したと言って、喜んで礼拝している私たちは、惨めな存在です。それだけではなく、復活する、死後の命を確信して、信じて死んでいった人こそ、もっとも惨めな人でしかありません。でも、パウロは、決してそうではないと言います。

続いて、パウロは素晴らしい証しともいえる言葉を書いています。

『しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章19節)

パウロは「しかし実際にキリストは死者の中から復活したのです」と言っています。「実際に」と言っていますが、ここで使われている単語は、「nowナウ」と訳されている簡単な言葉です。「事実」「実際」「今や」というのが日本語の翻訳です。ただ、手紙の内容の展開を加味して考えると、パウロが言いたいのは、「これまで、復活していないことを前提に話してきましたが、いいですか。何が起こったのか言いますよ。」『キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』と断言しているんです。

これは、キリストは、本当に復活したんです。そして、キリストは初穂なのですからあなたも復活するんです!これがパウロの伝えたい真実です。

イエス様が復活された今、イエス様がおっしゃったことは、全て、神の言葉であり、真実なのです。聖書こそ、真理の書であり、イエス様を信じる者に永遠の命が与えられます。私たちは眠りについても新しい身体になって目を覚まします。これは事実なのです。そして、今、イエス様は、羊飼いのように、私たちを持ち主のところへ、つまり、父なる神の処へ私たちを導いてくださっているのです。私たちが迷わないように、連れて行ってくださっているのです。

イエス様は、こうおっしゃいました。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』(ヨハネによる福音書14章6節)イエス様が、本当に復活されたので、この言葉は、本当に大きな意味を持っています。今日、私たちは、イエス様のご復活を覚えて、礼拝しています。この後、聖餐式に与かりますが、イエス様のみ言葉が語られるところに聖霊が働き、み言葉で約束どおり、イエス様はそこにいらっしゃいます。イエス様が私たちに願っておられることは、イエス様が、本当に、復活されたことを信じることです。そして、イエス様が与えたかった、永遠の命を喜ぶことです。そして、もう一つ、私たちが信じる必要があることがあります。それは、将来、神が再び新しい“世界”をお造りくださるという約束です。イエス様は、復活されましたが、この世界は、変わっていません。

世界はまだ呻うめいています。神さまは、この世界を裁き、新しい世界をお造りになります。ただ、その時のことは、私たちにとっては、まだ見てない未来のことです。今日の説教題を「過去も未来も」としたのですが、これは、今を生きる私たちにとって、イエス様の復活、イエス様の再臨、ともに、目にすることはない「遠い日の出来事」です。でも、私たちは、その過去も未来も信じる信仰が求められています。アブラハムは、まだ、子供が与えられていない時、しかも、いいお爺ちゃんになっている時、神さまは、夜空の星をアブラハムに見せて、あなたの子孫はこの星の数のようになるとおっしゃいました。

年老いたアブラハムは神さまの言葉を信じました。神さまは、それを「義」と認められたと書かれています。アブラハムは、「まさか、そんなことあるのか・・・」って心のどこかで思っていたと思います。でも、信じました。

そして、アブラハムは神さまからの祝福の基となりました。私たちが喜ばれるのは、神さまの言葉をアーメンと信じて、生きることです。イエス様の復活、また、イエス様の再臨、共に、遠い過去、遠い未来かも知れません。

でも、『実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた』のです。イエス様は、復活し、今も、生きておられ、羊飼いとして、私たち羊を、父なる神さまのもとへ、はぐれないように、しっかりと、守って、導いてくださっているのです。今日、皆さまの心に留めて頂きたいのです。

過去も未来も本当の話です。