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わたしが小さい頃、「ばちがあたる」という言葉を耳にすることがありました。宗教的なこととかに関係なく、何気ない会話の中にも「ばちがあたる、または、あたった」という言葉を聞きました。「ばちがあたる」という言葉は、昭和生まれ?の人にとっては、非常に馴染み深い表現ではないでしょうか?
「ばちがあたる」というのは、悪いことをしたら、天から罰がくだる(懲らしめを受ける)、そのような意味です。恐らく、「人が見ていなくても、お天道様は見ておられるよ」というのと同じ様に、「悪いことをしてはいけない」という“警告”のような意味があったと思います。でも、どうでしょうね、私は、自分の人生を振り返ってみて、これは単なる“警告”ではなくて、“実際”にありえるなぁって思います。どれって思い出すことは出来ませんが、悪いことをしたら自分の身に返って来る経験をしてきた気がします。
皆さまはどうですか? 「ばちがあたった」そんな経験ないですか?聖書はどう言っているかなぁって考えると、ヤコブの人生を見たら、そんな風に思います。旧約聖書でヤコブという人が出てきますが、彼は、兄の空腹を利用して長子の権利を奪いとりました。また、変装して父親を騙して、神の祝福を兄ではなく自分のものにしました。結果的に、ヤコブは兄に殺されそうになって、遠くへ逃げて行くのですが、逃げて行ったその先で、同じように騙されて痛い経験をするんですね。ただ、ここで、ヤコブに起こった出来事を、悪い事をしたから、神さまがヤコブを「罰した」のかというとそうではないと思います。
ヤコブに起こった因果応報のように見える出来事であっても、この試練を通してヤコブは、神さまとの関係を深めていくんですね。
良いように働くのです。私達に起こる辛い事、苦しい事・・・それは“罰”ではなくて、そのことを通して神さまはご自身のもとへ帰ってくるように、時に、霊的に成長するようになさるのが、神さまのご計画なんですよね。
先ほど読みましたイザヤ書の言葉にこう書いてありました。
天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ書55章9節)
神さまのなさることは、私達の思いを超えていて、見極めることは難しいのですが、そのような試練の後、人は、神さまから何か恵みを受けとることは事実なんですよね。因果応報のように(また、ばちがあたるかのように)捉えがちなのは、私たち日本人だけではなくて、ユダヤ教の人達も同じ感覚を持っていたのが分かります。でも、それは実際には、神さまのみ業が働く時なんです。このことは、今日の福音書の箇所を見てもそれがわかります。
ある時、イエス様の所に何人かの人がやって来るんです。
そして、イエス様にこう告げるんです。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」これは恐らく、エルサレムで行われている祭りか何かの時、つまり、犠牲の動物を捧げるために、巡礼者が集まって来た時に、その巡礼者をローマ兵が捕まえてその命を奪ったのだと思います。
一説によれば、殺されたのは、ガリラヤに多くいた「熱心党」の人達ではなかったか・・・と言われています。彼らは熱心さゆえに、今でいう愛国心が強すぎで、ローマだけではなく、同じユダヤ人にも煙たがられていた・・・とも云われています。そのような人達が、命を絶たれることになったのですが、ある人達(恐らく、ファリサイ派やサドカイ派の人達)から「罪深いから神に打たれた(ばちがあたった)」かのように思われていたようです。
これはシロアムでの出来事でも同じでした。シロアムというのはおそらくエルサレムにある池の場所だと思われますが、そこで、ある時、塔が倒れる事故があったんですね。その時、エルサレムに住んでいた18人の人が犠牲になったようです。この事件もまた、罪深い人たちが被った「神の裁き」のように捉える人たちがいたようです。イエス様に告げに来た彼らに対して、そのような時こそ、罪人である私達全ての人の及ぶ神の最後の裁きを恐れなさい・・・そのように警告なさるのです。良く「人を指さしてはいけない」っていますよね。「あなた」といって、人差し指で人指す時、残りの指は(親指は違うと思いますが)自分の方を向いているんですよって言いますよね。
つまり、人を指摘する時は、自分のこともちゃんと省みなさいということです。イエス様は、何かの事件を通して「あの人は罪人だから、あのような裁きを受けた」「悪いことをしたからばちがあたった」と思う時には、「私はどうなんだろうか」と“自分を省みる時にしなさい”とおっしゃるのです。
なぜなら、神さまは、自分を省みて、神さまの前に謙る人を求めておられるからです。でも、ここで、一つ、忘れないで欲しいことがありまして、神さまは、そのように悔い改め、謙る人を高く上げてくださる、そのような約束があることです。さて、イエス様は、そこで一つの譬えをなさいました。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。な
ぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」ここで、実りがない「いちじくの木」が出てきます。
聖書を読みますと、「いちじくの木」はよく登場してきます。
多くの場合、イスラエルという神の民を象徴して用いられます。
「いちじくの木」は、「オリーブの木」と並んで、豊かさと繁栄の象徴なんですね。実が“豊かに実っている”姿こそ、国の繁栄や平和を表していました。
一方で、“実りがない”状態は不信仰を表し、国が荒廃している状態であることを象徴していました。また、実りがなく、葉だけが茂っている姿は、見た目だけの繁栄を意味し、神さまはその状態を忌み嫌われていました。
そう考えると、みなさま、よくご存じのアダムとエバですが、彼らが罪を犯した時、何をしたのかと言いますと、いちじくの葉をつづりあわせて、自分たちだけ満足していたんですよね。お互いは、それで覆い隠せたようですが、神さまの前には、見た目だけの葉っぱでした。神さまの声が聞こえて来た時に、彼らは怖くなって、隠れてしまったと書かれています。(神さまは皮の衣を彼らに準備してあげます)。つまり、実りがなく、葉だけのいちじくの木は、外見だけの自己満足でしかない信仰者の姿をあらわしています。
イエス様が十字架で死なれる、数日前、エルサレムに向かわれる時に、葉の茂ったいちじくの木を呪われた話が書かれています。イエス様は、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われました。
そしたら、案の定、次の日、枯れていたのでした。
これは、イエス様が、お腹を空かせたのに、いちじくが実っていなかったので腹を立てられたという、イエス様の“わがまま”を表現しているのではないんですね。これは、「主よ、主よ」というだけで、神さまの御心を問う事も行うこともしなくなったエルサレムに対する怒りを表していたんです。
聖書では、「いちじくの木」ともう一つ「ぶどうの木」が出てきます。
ぶどうの木、木というよりぶどうの実りもまた、神さまの祝福を表し、また、国の繁栄、また、国の平和を象徴しています。そして、「ぶどうの木」と「いちじくの木」それぞれが何を象徴しているのかについては“文脈によって異なると思いますが”、わたしは、「いちじくの木」というのは、古い契約を表していて、「ぶどうの木」というのは、新しい契約を表しているのではないかと思います。つまり、イエス様がエルサレムで見た、古い契約に生きる人達からは愛の実りを見ることができなくなったのではないか・・・。だから、イエス様は、いちじくの木を呪い、一方で、ご自身がまことのぶどうの木になられたのだと思います。イエス様は、『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』(ヨハネによる福音書15章5節)とおっしゃっておられますよね。
これが新しい契約です。罪人である私たちは、律法によって、つまり神さまの戒めだけでは、本当の愛を人に注ぐ人にはなれないのです。
それは、時に、みせかけだけの義人を作ってしまうのです。
それは、葉だけで、実がない状態のようなものです。パウロは、『全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。』と言っています。
大事なのは、何をしたかという見た目ではなくて“心”です。
謙遜さから生じる愛です。自分を犠牲にしてでも施す愛です。
このような心にしてくださるのが、神さまの愛です。御子を犠牲にしてまでも罪の赦しを与えようとされた神の愛があって、神さまの受け入れがあって、はじめて、私たちは、本当の愛の実を実らせることができるのです。
イエス様は、まことのぶどうの木で、私たちはその枝であるとおっしゃってくださいました。そして、イエス様と繋がる人から豊かな実が生じるとおっしゃってくださいました。嬉しい約束だと思います。皆さまは良い実が実るようになっていきます。ただ、一つ注意しなければなりません。ぶどうの木は、剪定が必要なんです。以前、ある人が、ぶどうの木は、剪定をしないと野生化するとおっしゃったのが印象的でした。私たちもまた、愛の実りを失わないようにしなくてはなりません。私たちは、今、四旬節を過ごしていますが、この時期に大切なのは、自分を省みるということです。自分は、イエス様の愛を受けて喜んでいるが、それが慣れっこになっていないか。わたしは、野生化して葉っぱだけで、実りがない状態になっていないか。そのように自分を省みる大事な季節です。イースターは春です。沢山の花が咲き、イスラエルでは、麦が豊かに実る時です。その春を迎える前に必要なのが「自分を省みること(回心)です。」神さまの願いは、放蕩息子の譬えのように、神さまを必要として、神さまの元へ帰ることです。私は神さまを必要としているか。
自分の力に頼っていないか。み言葉に生きているか。イエス様の十字架がわたしの罪のためであったことを忘れていないか。イエス様の十字架が喜びとなっているか。神の元へ帰るとは、手を留め、立ち止まり、神との深い交わりを再開することです。悩むとき、苦しい時に手を留め神さまに心を向けて切に祈る。
何か大事な判断をしなければならない時に、自分の知恵に頼らず、神の知恵に聞くことです。主の前に悔いて「憐れんでください」と祈る人となりましょう。神さまは、自分の力に頼らず、実りのない自分を省みる人を待っておられます。野生化しないように、剪定されるかのような時があります。
私たちには色々な試練がおとずれますが、それは「罰」ではありません。
イエス様の十字架に対して人は「罰を受けている」と思いましたが、そうではありませんでした(イザヤ書53章)。私たちも同じです。
その人に「神の栄光が現れる時」、その人を通して「神の栄光が現れる時」です。また、「神さまによって高く上げられる時」なのです。
神さまは、私たちを愛しておられ、良い実りをもたらすように、私たちといつも関わってくださっているお方です。
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