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おはようございます。
私たちクリスチャンは洗礼を受けた時から、新しい命に生きる人へと変えられています。私たちの内には、今は見えませんが、栄光の体が備わっています。罪の世界で生き、罪の姿をまだ持ち合わせているので、その栄光を感じることはできないかも知れませんが、私たちが復活するときに、覆いが取り除かれたように本当の姿が現れてきます。私の中に、今、神の命が宿っている・・・。
今日、まず、そのことを心に留めて欲しいと思います。
さて今日は、ルカによる福音書の9章28節からの話です。
この時の出来事は、皆さま良くご存じかと思います。ある時、ペトロとヨハネとヤコブの3人がイエス様と一緒に、祈るために山に登りました。
聖書の世界では山というのは特別な場所としてよく描かれています。
例えば、シナイ山でモーセは、栄光に満ちる雲の中で、神さまから律法を受け取りました。また、預言者エリヤは命が奪われそうになった時に、ホレブに逃れ、ホレブの山で祈る中で神の御声を聞きました(列王記上19章)。
他にも、アブラハムがイサクを捧げるために登ったのはモリヤの山です。
このように、聖書では時に、神さまの臨在の場所として山が登場します。
また、山は、オリーブ山のように、信仰が試される場所でもあります。
イエス様と弟子達がそこで祈っておられると、突然、神の臨在がありました。でも、それは、神が現れたのではなくて、イエス様御自身が栄光の姿をお示しになられたのです。マタイによる福音書(17章)では、イエス様の顔が太陽の光のように輝き、服は真っ白に輝いたとあります。
神さまの臨在を体験し、さらに、そこに、モーセとエリヤも現れて来たというのですから、弟子たちは、聖書の約束の中に自分達が生きていることを実感したと思います。弟子たちは、イエス様の栄光を見、そして、モーセとエリヤを見た時、非常に驚いたと思います。恐れさえも感じたと思います。
すると、今度は、栄光の雲が彼らを包み始め、そして、天の父の声を聴きます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」弟子たちは、その声にも非常に驚き、恐れを感じました。このことを体験したペトロは、こう言っています。
『わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。』
(ペトロの信徒への手紙Ⅱ1章16節~19節)
父なる神さまは、弟子達に「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」とおっしゃいました。でも、この言葉は、私たちにも語られている言葉です。「これに聞け」この言葉は、信仰を持つ時にとても大事なことです。
神が語り、私たちは聞く・・・。この関係性が、信仰の基本です。
イエス・キリストの言葉を聞く。そして、それを信じる。
ここに救い、そして命があります。イエス様のご存在そのものが、私たちの命です。イエス様の言葉は、私たちの行くべき道、歩むべき道、そして、真理を示します。イエス様こそ、私たちにとって、「道であり、命であり、真理」なのです。イエス・キリストの存在とその御声は、私たちを生かします
弟子達が見てきた、これまでのイエス様は、確かに、奇跡を行う人で、また、真理に満ち、愛に満ちたお方でした。ある意味、格好いい姿でした。
でも、この時、弟子たちが見たのは、そのような人としての輝きではなく、神の輝きでした。この出来事の後、イエス様は、エルサレムに向かいそこで十字架で死なれるのですが、なぜ、イエス様は、十字架で死なれる前に、この姿を弟子達にお見せになったのでしょうか・・・。聖書にその理由が書かれていないので、推測の域を出ないのですが、私は、あの十字架の姿と、本当の栄光の姿を重ね合わせて見るためではないか・・・そう思います。
鞭打たれるイエス様、十字架を担がされるイエス様、そして、十字架で釘打たれ死んで行かれるイエス様を見た時に、なぜ、あの栄光を隠されたのか。
山で見せられたあの栄光を隠されて神が死なれたのか・・・このことをいつも心に留めておく必要があるからだと思います。そのことを考える時に、私たちは、本当の真理、本当の命ある生き方が見えてくるのだと思います。
ルターの言葉に、次のような言葉があります。「人は独占し、他者に与えないために自分のものを隠し、神は明らかに示して与えるために、ご自分のものを隠される。」「人は独占し、他者に与えないために自分のものを隠す」これは、誰もが納得できる表現ですよね。でも、次にこう言っています。
「神は明らかに示して与えるために、ご自分のものを隠される。」
神もまた隠される。でも、神さまが隠されるのは私たちとは違う理由がある。ルターはそういいます。これはどういうことかと言いますと、私たちが、大切なものを隠すのは、人に知られたくないため、見つからないためですよね。しかし、神さまも、同じように隠されるのですが、神さまは、「私たちにとって本当に大切なもの」を“与えるため”にご自身のものを隠されるというのです。
ある一つの譬え話を考えました。ある村に、「先生」と呼ばれる人がいました。「先生」は、村の人達を愛し、大事なことを教え続けました。
その「先生」が、ある時、弟子達を呼びます。そしてこう言います。
「お前たちのために大事な宝を隠しておいた。それを見つけなさい。
見つけた者がそれを受け取りなさい」弟子たちは、一生懸命、家の中を探します。しかし、見つけることはできませんでした。何日も探しましたが、見つけることができず、弟子達は、探すのを諦めました。しかし、一人の弟子は、見つけるのを辞めませんでした。彼は、「先生」は絶対に嘘を付かないと思ったからです。彼は、一生懸命探し続けました。でも、見つかりません。
そこで、探すことをやめ、考えることにしました。彼は、こう思いました。
「先生は、本当に宝を隠したのだろうか?いや、隠されたことは確かだ。
でも、どうして見つからないのだろうか・・・もしかしたら探し方が間違っているのかも知れない」その時、彼はふと気付きました。もしかすると、宝は、私たちの目には隠されているようで、実は、そうではないのかも知れない。
気づいていないだけかも知れない。そう思ったのです。そのお弟子さんは、「先生」がよく腰を掛け、弟子たちに教えを説いていた石が目に入りました。彼はそこに行きました。そして、石の表面をまじまじと見つめました。
すると、そこにはうっすらと文字が刻まれていることに気づいたのです。
こう書かれていました。「真理は隠されていない。あなたのすぐそばにある」
イエス様は、人々にこうおっしゃっていました。
『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』(マタイによる福音書11章25節)
人が自分のものを隠すのは独占するためですが、神さまは、人に本当のものを与えるために、それを隠されるのです。しかし、それは、見える人には見えるのです。求めれば見えてくる、探せば見つかる、隠されているようで、隠れておらず、子供のような信仰で聖書の言葉を受け入れると見えてくるのです。
神は語り人は聞く。ここから生じる信仰こそがその宝を見る目となるのです。神の国は、こことか、あそこにあるのではなくて、私たちのただ中にあるのです。今、私たちの間にあるのです。その神の存在は、信仰を通して見えるようになります。私たちは、今日、聖餐式を行いますが、是非、パンとぶどう酒に隠されているキリストの命に気付いて欲しいと思います。
イエス様は、み言葉の約束があるところには必ずいらっしゃるのです。
今日の話では、イエス様は、弟子達にご自身の持っておられた栄光を示されました。でも、そのことを他の人に言わないように命じられました。
イエス様は、多くの奇跡を行われましたが、ある時には、誰にも言わないようにと口止めされました。それは、イエス様の奇跡を見たので信じるのではなくて、イエス様の言葉に信仰を持って欲しいからです。
さて、最後に私たちの栄光についてお話したいと思います。
初めに、私たちの内に、すでに、神さまの命が宿っているというお話をしました。私たちは、人の目に素晴らしい人になることを望みます。
でも、私たちがまず誇るべきものは、イエス様のあの栄光を捨てられた姿によって頂いた、神の命です。頂いた永遠の命は私たちの内で灯となって輝いています。私たちの内に隠されている神の命(光)を意識してください。
聖書は、私たちは、ますますキリストと同じ栄光の姿へと変えられていきますと約束しています。それは、まずは、この地上での人生において始まり、復活において完成します。パウロはコリントの信徒への手紙でこう言っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章18節)
栄光とは、単に外面的な光の輝きだけではなく、神の完全な性質や愛、聖さが私たちの内に満ちることです。初めに、山の話をいたしましたが、モーセは、山で神さまに出会い、語り合いました。その時に、何と、彼の顔は輝いていたと書かれています。これは、神と語り合うことで、神の栄光が、彼に映し出されるまでになったということです。私たちもまた、神の御言葉に触れ、また、霊的な心で深く祈り続けることで、神の栄光が私たちのうちに映し出されるようになります。時には、試練を通して、私たちは、精錬され、さらに光ものへと変えられて行きます。イエス様は、あの十字架という大きな試練を通られる時、その前に、ゲツセマネで深く、強く、長く、執拗に祈られました。
ヤコブが最後神と格闘したくらい、イエス様は、できればこの杯を取り除いてくださいとまで、お祈りされまして。しかし、あなたの御心がなりますようにと、最後お祈りして、あの十字架の道を歩まれました。
その十字架の贖いによって、人は皆救いを受けたのです。
イエス様の命が、わたしのものとなったのです。そのように自分の十字架を背負って歩むとき、それは、また、栄光の姿でもあります。
この世では、目には見えない隠された光を持ちます。そして、最後、私たちのこの肉が土に返り、全ての人と一緒に復活したイエス様と同じ様な栄光の姿へと変えられます。今日は、真理は隠されているが、私たちのただ中にある。神の国はただ中にある。そのことを覚えてください。そして、私たちは、栄光から栄光へと変えられて行き、最後に主と同じ姿に変えられる。そのことを覚えてください。私たちのうちに、隠されて見えないですが、神の命(灯)が灯っています。
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