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おはようございます。
あるビジネスマンの話です。その方は営業を担当していて、成績がとても優秀な方でした。新規に顧客を得ることも多く、自分でも自身があったそうです。その人が、ある時、新しい靴、しかも値段の高い、高級な靴を新調したんです。やはり、お客さんに会う時にきっちりとした格好で会わないといけないと思ったからです。でも、それから何故か営業が冴えなくなってしまいました。
何故だと思いますか?実は、新しく新調した靴が原因だったんです。
えっ?って思いません? その人はこう自分を分析されました。
高級な靴を買って、それを履いて歩くようになって、知らず知らずのうちに、道を選ぶようになっていた・・・というのです。荒れた土の道よりは、舗装された道、雨が降れば、アーケードを歩いて行ける場所・・・。全部、自分の高級靴をかばうためだったのです。でも、自分では、そのように道を選んでいたことに気付いていなかったそうです。これまで良かった営業成績が落ちて、それに気づいて、あ、そういうことか・・・と理解できたそうです。
わたしは、この方の話を聞いて「自分に何か大切なものがあって、それを守ろうとすると、得たいと思っている事を手に入れることができない」と思いました。この逆のことも正しいと思います。私たちの教会の奥に、幼稚園があります。のぞみ幼稚園の子供たちが、園庭で遊んでいると、時々、横を流れている水路にボールとか遊具が落ちてしまうんですね。水路が深いので、棒とか網を使って落ちたものを先生方は拾っておられます。
これまで、わたしも、2、3度、網とか熊手を使って落ちた物を拾ってあげたことあります。皆さまのご存じかと思いますが、横を流れる水路は普段は水の量が少ないんですね。殆ど流れていません。ですので、不衛生なんです。
緑色の藻なども沢山生えていて、汚い水路なんです。岸から手を伸ばして、それを取るというのは、ある意味、自分の状況を守りつつ、手助けをしているようなものだと思います。でも、どうでしょうか?不衛生に見える水路であっても、そこに下りて行って落ちたものを拾ってあげたら、それを見た子供の印象って違うのではないでしょうか?「ありがとう」の言葉にもっと深い喜びを感じてくれるのではないでしょうか?今日、心に留めて欲しいと思うことは、自分を犠牲にしてまで何かをする時、人はそこに愛を見るということです。
そして、その時、人は、その相手の人を得るということです。
イエス・キリストは、神さまなのに、ご自身の栄光を捨てて、人となられました。そして、鞭打たれ、最後には、罪人の姿になって十字架で死んでくださいました。全ては、あなたを得るためです。イエス様は、安全な岸から人を助けるような方ではありません。自分が犠牲になってでも人を助ける人です。
イエス様が、栄光も命も捨ててくださったことで、私たちは、命を得ることができました。そして、神の国が見えるようになりました。
イエス様の十字架の姿は、十字架にかけた人、ファリサイ派や律法学者、また、当時の宗教界の最高権力者の人は、「ざまあみろ。おれに立てつくからだ」と勝った気持ちになったでしょう。また、私たちのこの世界の支配者、悪魔の目にも勝利に映ったことでしょう。でも、実際は違いました。
イエス様は、神として、私たちの罪を背負って十字架で死なれることで、罪と死と悪魔から私たちを自由にしてくださったのです。そして、その姿に私たちは「ありがとうございます」だけでは言いあらわすことができない感情を心に頂きました。この勝利の逆転が、神の国なんです。先週の続きになりますが、イエス様は、集まって来た沢山の弟子たち、12弟子ではありませんが、次のようにお話されました。『しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。』(ルカによる福音書6章27節~30節)私たちは、このイエス様の命令を聞いてどう受け取りますか?
ある人は「崇高な生き方ですね」と思うでしょう。また、ある人は「確かに大切だと思いますが私にはできません」と思うでしょう。
また、ある人は「何でそんなことをしないといけないのか」と理解できないでしょう。そして、恐らく多くの人が思うのは「そんな生き方ありえません」ということではないでしょうか。ここ数年、戦争が絶えません。
恐らく兵士の誰もがこのイエス様の言葉を聞いて、そんなこと実践したら、そく敗北ですって言うと思います。また、最近、犯罪が多いですが、奪われたら、取り返さない、むしろ、上着を奪い取る者には、下着をも・・・って、絶対ありえませんよね。誰もが、ありえない、そんな生き方ありえないと思うことをなぜ、イエス様はおっしゃるのでしょうか。イエス様は間違っておられるのでしょうか?話は少し横道にそれますが、創世記の2章に「善悪の知識の木」と「命の木」の話がありますね。神さまはアダムとエバに、「善悪の知識の木から取って食べてはだめだ」と。「食べたら死ぬ」とおっしゃいましたよね。
クリスチャンに限らず、この話しを知っている人の多くが、「神さまは、なぜ、食べてはならない木を置かれたのか?」と質問されます。
皆さまは、どう思いますか?実は、そのように質問している事自体が、すでに、自分の善悪の判断を基準にして、神さまのなさることを判断しようとしていることになります。「どうして、神さまは、そのような木を園に置かれたのか?」という質問をしたくなる人の中に、「善」と「悪」の判断を自分が神と同じ様に判断している姿を見ることができます。「善悪の知識の木」不思議ですよね。その木から取って食べるという行為がすでに、自分で善悪を判断していることになっています。つまり、木の実が毒なのではなくて、「取って食べる」という自発的な行為の中にすでに、罪と死と悪魔を選び取ることになっていました。
親切にしなさい。祝福を祈りなさい。頬を打たれたらもう片方の頬を向けなさい。奪う者には更に与えなさい・・・そのように命じられるイエス様の言葉を「そんな生き方はおかしい」と思うのが私たちですが、でもそうではなくて、善悪の判断については子供のようにならなくてはならないのです。
そして、イエス様のこれらの言葉を、一つのキーワードを持って見直すならば、見えてくるものがあります。なぜ、そうするのか・・・それは、「相手を得るため」です。イエス様は、敵を愛しなさいとおっしゃっています。
それは、相手を得たいという思いが必要です。得たい相手を得る時に必要なのが、普通の人とは違う。罪人とは違う方法、つまり、イエス様がおっしゃる「普通とは逆の方法」です。『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。』(ルカによる福音書6章31節~35節)大事なのは、相手を必要とすることです。そして、『自分の何かが犠牲になる』ことを恐れてはいけません。
でも、人は「自分の大切なものを犠牲にする人を見た時」に何かが変わります。創世記を読みましたが、ヨセフは自分の兄弟に殺されそうになり、死ぬことはありませんでしたが、エジプトの売られることになりました。
ヨセフは、エジプトで大臣になり、そして、エジプトを飢饉から救うことができましたが、自分の家族を救うことにもなりました。
ヨセフは、兄たちを責めることもできました。しかし、ヨセフは兄弟を赦し、むしろ、そこに神のご計画を感じ取っていました。ヨセフが兄を奴隷にせず、これまでと同じように扱ったために、本当の兄弟の絆を手に入れました。
本当の兄弟関係を手に入れました。ヨセフを殺そうとした兄弟とは違い、愛し合う関係を取り戻したと言えると思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と聖書にあります。偶像を礼拝し、神を神ともせず、むしろ、自分の力を誇示する人間を神さまは愛されました。
そして、独り子をお与えになりました。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と聖書にありますが、私たちが滅びず、永遠の命を得るために、神のみ子ご自身は、命を捨て滅びを選択されたのです。
自分を犠牲にして何かをする時、たくさんの報いがあります。
ルカによる福音書6章38節にこうあります。『あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。』
私たちは、今日のイエス様の無理難題とも思われる命令を聞いた時に、まず、そのような道を通られたイエス様、そして、憐れみ深く、私たちの罪を赦し、もとの姿に戻そうとなさる父なる神さまを知る必要があります。
私たちは、憐れみの神、赦しの神の愛を受けとる必要があります。
私たちがそのような神を知り、そして、義の衣と愛を受けることが出来た時に、私たちは、敵の多い社会で、同じように、振る舞う勇気を頂くことができるかと思います。今年の目標は、「神と人とを繋ぐ」ということでしたね。
み言葉は、「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」です。私たちは、この大きな使命といいますか、栄光の務めを託されています。今日は、まず、「憎む者に親切にし」「悪口を言う者に祝福を祈り」「侮辱する者のために祈り」ましょう。そして、「裁くことより、赦すこと」を意識し、「相手を大事に」してあげましょう。
そうすることで、大きな報いを得ることができるでしょう。
恐らく、「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りをよくして、懐に入れてもらえる。」という言葉の意味を知ることができるようになると思います。
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