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おはようございます。
今日の聖書箇所は、イエス様が一二弟子を選ばれた後、その山から下りて来られた時の話です。聖書を読みますと、イエス様が一二弟子たちと山を下りて来られると、そこに沢山の人達が集まって来ていました。
そこには、イエス様に就いて行きたいと思っていた弟子たちがいました。
もっと教えを聴きたいと思っていた人達、また、病に苦しみ、治して欲しいと願う人達、また、悪霊に悩まされて癒して欲しいと願う人達もいました。
共通しているのは、みんなイエス様を必要としている人達だということです。「ティルスやシドンの海岸地方から来ていた人もいた」というのですから、異邦人の人達もイエス様に興味を持ち、もしくは希望を抱いて集まって来ていたのが判ります。イエス様は一通り病の方たちを癒したと思います。
中には帰って行った人もいたでしょうし、中には残った人達もいたでしょう。イエス様は、集まった人達に、一つの大事な慰めの言葉をお語りになりました、それが「幸い」についてです。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。・・・」皆さま、よくご存じの御言葉だと思います。一方でイエス様はこうもおっしゃっています。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」ここでイエス様は、「富んでいる」か「貧しい」かを比較しておられるのではなく、神の国がその人のものであるか、それとも、この世的な慰めの中で満足している人のどちらであるかを問われているんです。
これは、大きなことだと思います。ここで、「不幸である」と訳されていますが、もともとの言葉では“哀れ”とか“災い”とも訳される単語が使われています。つまり、私たちの状態やあり方によって“幸い”と“災い”との違いがあると言っておられるのです。そこで、今日、皆さまと共に、このイエス様の言葉から、まず、意識したいと思うのは、「私は、この世的なものを所有していることで満たされていると誤解していないか。私たち人間は神さまの前に憐れみを必要としている物乞いのような存在であることを知っているか」ということです。逆に、神さまと私たちとの間に、「金持ちと物乞いほどまでの差がある」ことに気付くと、この世のものとは違う、とても大きなものを所有することができるということを知って欲しいと思います。
なぜなら、イエス様が、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」とおっしゃるからです。ルターの祈りの中にこのような祈りの言葉があります。「愛する私の神さま、私はあなたに心から感謝します。
私がこの地上では「貧しい乞食」であるようにと、あなたが望まれたのです。ですから、私は自分の死んだ後で家や畑や土地や財産を妻と子どもたちに残すことができません。」そして、ルターは最後にこう締めくくっています。
「私を今まで養ってくださったのと同じように、どうかこれからも彼らを養い、教え、守ってください。あなたは孤児の父親、やもめの擁護者なのですから。」つまり、「貧しい人は幸いです」という言葉を信じて生きたルターは、晩年、将来、家族も同じように守ってくださるという堅固な土台を確信していたということがわかりますよね。神の国がどのようなものなのかを知った人の言葉って素晴らしいと思います。私たちは、「人生、困らないで生きたい」って思いますよね。病気になると嫌だし、お金に困るのも嫌です。
でも、イエス様は、神の国は誰のものとなるのか?と言えば、それは、この世のもので満たされた人ではなく、貧しい人であるとおっしゃるのです。
これは、慰めや励ましではなくて、人を大きく二つに分けるほどの事実なんです。イエス様の願いは、神の国が、その人のものとなることです。
貧しさを、弱さを誇りましょう。恥ずかしいことではないのです。
貧しさ、特に心の貧しさを、他の人と比べて、劣るものとして自分を見るのではなくて、むしろ、神の国が私の所にやってくるんだ。
そのように思って欲しいと思います。よく、キリスト教は弱い人が信じる宗教だという風に言われますが、それの何が悪いのでしょうね?
その人こそ、本当の富と力がどこにあるのかを知ることができたのです。
また、イエス様の光がその人を照らすのです。そのような人こそ幸いな人なんです。この前、ある方の動画を見ていたのですが、その人は、幸せについて話されていました。その方は、「物質的に豊かになって、快適になって、世の中が便利になったのに、どうして人は幸せになれていないのか」ということをお話しておられました。その方曰く、「現代人は物質的に豊かになり、例えば、家があり、お風呂があり、エアコンがあり、テレビがあり、布団があり、食べ物があります。病院も充実している。さらに言えば、生きるのに便利になり、快適になっている。一昔前と比べても全然違う。昔から求めて来たものを得ることができているのに・・・」「なのに、人は幸せを感じられていない。なぜだろうか」その方がおっしゃるのは、人は自分の幸福度を「現状」ではなくて、「周りの人と比べてしまうから」です・・・そのようにおっしゃっていました。
商業主義がそうさせるのか、隣の芝生は青く見えるという人間の真理がそうさせるのかはわかりませんが、豊かさ、貧しさを、人との比較の中で感じてしまうのが私たちなのだと思います。もちろん、比較することが悪いことではなくて、コンプレックスは自分のモチベーションを上げるのには良いものなのですが、そこに強い劣等感を感じてしまうと良くないと言われています。
この前、“銀河鉄道999”というアニメを久しぶりに見たのですが、銀河鉄道999の内容、皆さまご存じですか?哲郎という主人公の少年が機械の体を手に入れようと、メーテルという謎の女性と一緒にアンドロメダまで列車に乗っていくという話です。哲郎という少年は、機械の体を持てば死なない。幸せになれる。
そう考えるわけです。でも、貧しくてお金がない。そんな時に、メーテルと出会い、メーテルがアンドロメダまでのパスを哲郎にタダでくれて一緒に旅にでるんです。アニメは、その列車の旅で遭遇する様々な出来事を描いているのですが、ストーリーが進む中で、だんだん、哲郎の考え方が変わっていくんです。そして、アンドロメダに着き、いよいよ機械の体を得れるようになったのに「要らない」という選択をするんですね。あれだけ、死なない身体を求めていたのに、旅を続ける中で、彼なりの「幸せの条件」を見つけたんです。
その“銀河鉄道999”というアニメですが、その歌の中でこういうフレーズがあります。♪人は誰でも、幸せ探す、旅人のようなもの。
希望の星に巡りあうまで歩き続けるだろう♪これは、本当に人の思いを表現した歌だと思います。人は、ずっと、幸せを求めて歩み続ける存在なのだと思います。今も、これから先もそうだと思います。でも、本当の幸せを掴むことができないのです。それは、哲郎という少年が、機械の体を持つために長い旅をしたのと似ています。先ほどの歌ですが、続いてこう言っています。
♪きっといつかはきみも出会うさ、青い小鳥に♪私は、何十年ぶりかにこの歌を聴いて、あ、これは、メーテルリンクの青い鳥という小説をベースにしていたんだぁって分かりました。(メーテルという名前の女性が登場するのもその理由だと思います)。私たちは、食べ物に困らない、住むところに困らない、生きることに困らない、それが幸せだと思って、何とか幸せの条件を獲得しようと歩みます。でも、実は、そこに本当の幸いはないんです。
本当の幸せは、神のもとにあるのです。私は、今回、説教を準備していて、何となくわかってきたのですが、この世界には争いがあり、悲しみがあり、飢えがあり、病があり、死がありますがそれは、私たちが神さまを見出すためであるのではないかと思いました。もし、私たちが悲しみもなく、涙もない世界に生きているのであれば、私たちは、神さまと永遠に出会わないんだろうなと思いました。本当の幸せとは何か、どこにあるのかを知ることができないんだろうなと思いました。私は、貧しい状態というのは、神さまが、私たちと出会うために、本来の神さまの願いではないけれども、私たちに与えてくださっている方法なんだと思います。目を開かせるためです。
そして、本当の幸いを得るためです。だからこそ、イエス様は、「貧しい人々は幸いである」とおっしゃるのです。エレミヤ書17章7節~8節に次のようなみ言葉があります。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。このみ言葉もまた「祝福された幸いな人」について教え ています。このみ言葉を通して何を教えているのかと言いますと、「幸い」は「何を持っているのか」ではなくて、「どこに自分の本当の土台があるのか」ということです。どのような実が実っている木なのかが重要なのではなくて、その木がどこに植わっているのかが大事なんですと教えているのです。
「幸い」というのは、ハッピーではなくて、ブレッスド(祝福を得る人)という意味です。それは、貧しさの中で、神を求める人、神に信頼を寄せる人、その人こそ、幸いな人であると聖書は教えています。なぜなら、その人は、神を知ることができるからです。イエス様の願いは、神の国が、みなさまのものとなることです。神さまと私たちとの間に、「金持ちと物乞いほどまでの差がある」ことに気付いて欲しいと思います。人や神さまの前に誇れる人ほど、神さまの目に「哀れな、不幸な人」であり、逆に、神さまに憐れみをこう人こそ「幸いな人」なのです。イエス様に信頼する人は、水の畔に植えられた木です。時がくれば実を結びます。今日、ここに集っている私たちは、イエス様を知っている幸いな人の集まりです。イエス様は、パンとぶどう酒を通して、罪の赦しを、命を与えてくださいます。イエス様に信頼し、イエス様こそ神のみ子、私たちのために貧しくなられ、十字架の死にまで従ってくださった方と信じている私たちこそ、祝福された、幸いを手にしていく人たちなのです。
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