おはようございます。
今日は共にヨハネによる福音書第2章(カナで行われた婚礼の時の話)を見たいと思います。この箇所はイエスさまが、カナという町(ナザレの北の方なんですけども)そこで、ある人の婚宴の席に出席された時の話です。誰の結婚式なのかは分からないのですけども、マリアとイエスさまが一緒に婚宴に出席していました。当時のユダヤ教の習慣では、婚礼には、多くの人に集ってもらって、しかも、何日間もかけてお祝いをすることになっていました。どれだけの人を呼ぶのかということが、当時の人のステータスを計るものであったのかも知れません。
皆さまも婚宴の席に招待されたことあるかと思いますが、婚宴の席にお酒は欠かせませんよね。沢山の人を呼ぶのであれば、それだけのお酒を準備しなければならないということになるかと思います。
イエスさまとマリアが婚宴に出ていると、ぶどう酒が足りなくなってくるんです。本当はあってはいけないんですけど、予定より人数が多く来たのか、料理が美味しくて婚宴が盛り上がったのか分かりませんけれども、ぶどう酒が足りなくなってきました。
マリアはイエスさまに、「ぶどう酒がなくなりました」って言うんです。何でイエスさまに言ったのかということを考えると、もしかしたら、マリアとイエスさまに近い人の結婚式で、どちらかと言うと、世話役側(接待側)の立場だったのかも知れません。
マリアが「ぶどう酒がなくなりました」と言うと、イエスさまが「わたしとどんな関わりがあるのですか」という風に言うわけです。一見すると冷たい感じのする言葉ですが、続いてイエスさまは「わたしの時はまだ来ていません」という風におっしゃいます。ここで、マリアは、もう一つのイエスさまの思いをくみ取ったんだと思います。ですので、マリアは、召使いに「この人が何か言いつけたらそのとおりにしてください」という風に告げます。ここでマリアは、“何か不思議なことが起こるんではないか”と考えたのだと思います。
イエスさまはどうおっしゃるかと言いますと、召使いに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じます。婚宴のために雇われている人か、それとも、この花婿の家がそこそこのステータスがあって、普段から雇われている召使いなのかも知れません。ともかく、イエスさまは、その召使いに「水がめに水を満たしなさい」と命じるんです。召使いたちは、命じられたとおり、大きな水がめに水を満たし始めます。ただし、その水がめというのが、何の水がめなのかと言いますと、ユダヤ教の日常的な儀式の中でも、清めの水が入っていた水がめだったんです。
イエスさまが、清めの儀式に使われる水がめに水を満たさせたということから、まず、このかめの水はかなり減っていたということがわかります。これは、婚宴の食事の前に、参加した人達の手を洗うために、すでに多くの水が使われていたということですね。80リットルから120リットルくらいの瓶の水が6つ置いてあったということですから、かなりの人が出席していたということもわかるかと思います。
召使いの人達が、水がめの水を飲み水のための瓶から移したんだと思われますが、その水がめを満たしたところで、イエスさまは、「さあ、それを汲んで世話役の所に持っていきなさい」とおっしゃいます。もともとのギリシャ語を見ますと、召使いが6つのかめに満たしたところで「今だ」という感じで言っておられるのがわかります。7に1足りない、6という数のかめに水がいっぱいに満たされた時に「今だ」という風にイエスさまがおっしゃったのには意味があったんですね。
(それは、使い道が変わる・・・そのような前触れです)
イエスさまは、そこから汲んで世話役のところに持っていきなさいという風に命じました。召使いはそのとおり、水を汲んで世話役の所に持っていきます。世話役というのが当時のどのような立場の人で、どのようなことをするのかは、よく分かりませんが、花婿の近しい人で、粗相がないようにと、全体を統括している人だと思われるので、世話役自身、ぶどう酒が足りなくなっているので、内心、どきどきしていたと思います。そこにぶどう酒が届くわけですが、それを味わった時に、世話役の人はその味に“驚く”んですね。世話役は、これを実は花婿が陰で準備していたものだと彼は勘違いしているわけで、それを、飲んで、あまりにも美味しいぶどう酒なので、思わず、新郎に「お前、こんな最高のぶどう酒を取っておいたのか」と。「普通だったら、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回って来たころに、劣ったもの(劣ったというのは悪いという意味ではなくて、最初に飲む良い物とは違うという意味ですが)そのような、劣ったぶどう酒を出すものだけど、あなたはこの良いぶどう酒を最後に取っておいたのか」と驚いたというか、感動したんですね。新郎からしたら「何のことかわからない」と思うんですけども、そのぶどう酒は、イエスさまが、水をぶどう酒に変えられたものだったんですね。
婚宴の食卓に着くために必要であった否定的な意味での清めの水の器が、イエス・キリストによって、肯定的かつ祝福を意味するぶどう酒を運ぶ器に変えられました。それは、清めの水が必要なくなり、代わりに神の祝福のぶどう酒が与えられているという象徴しているのです。
実はですね、私は、このカナでの婚礼の話は、とても思い入れがある話でした。私がまだ洗礼を受ける前のことなのですが、兄の結婚式の時に、式上げたその教会の牧師先生がこの箇所から説教をしてくださったんですね。
その時に牧師先生がどこを中心にしてお話してくださったのかと言いますと、世話役が花婿に言った
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
という言葉からお話してくださったんです。
結婚式ですからね、新郎新婦に大事なことを伝えようとしてくださったわけです。それは、何かといいますと、新郎の新婦もお互いに愛し合っているものだと(自分の中でも最高の愛情を最初は注ぎ合うものだと)。でも、長年連れ添っていると、最初の頃のあつい思いも冷めてくるんですよと。そういう意味では、愛情も劣ってくると(実際のどのような言葉を使われたのかは覚えていませんが・・・)。そういうものですと。とおっしゃるんです。でも、そうではなくて、最初の頃と同じ愛情を最後まで注ぐことが大事なんですよ・・・そのようにおっしゃいました。
私はその時、大学生だったのですが、そのお話を聞いて、「ああ、確かにそうだな」と思いました。私たちは、最初は、大切な人に対して、気を使い、尽くそうとするんですね。それは、ほんと大事なことです。でも、だんだん、馴れてくるというか、最初の頃とは違ってくるんですよね。
大事なのは、気づいた時に初心に帰るということなんだと思います。それは、夫婦の間に関わらず、どんな人との関係においても、言えることだと思います。
普通は、最初に良いもの、後に劣ったものであるのが常です。でも、後になって良いものを捧げる時に、人はそこに本当の愛を感じるのだと思います。時々でもいいので、もう一度、配偶者でも、親に対してでも、子に対してでも、初心に戻って、相手を見つめ直すということが大事なのではないでしょうか。
私、少し前に、夢で、子供が大けがをする夢を見たんです。子供が階段から落ちて、自分の怪我にびっくりして、私を不安そうにじっと見つめているんです。夢の中ではありましたが、切ないというか、苦しいというかそんな思いになりました。夢から覚めた時はホッとしました。その後に子供を見た時には、普段とは違う感情が湧き出て来たのを覚えています。
普段だったら、子供の生活態度に、イラっとしていた状況でも、何とも思っていない自分がそこにはありました。
私が思うのは、そのような感情は、消えてしまったんじゃなくて、心の奥に収まってしまっている感情なんだと思います。本当は、相手のことを思っているのに、いつの間にか、奥に収まってしまっているのだと思います。ですので、時にそういった感情をもう一回取り戻しながら愛をずっと注ぎ続けるということが聖書が教える愛ということでしょう。
最後に、この聖書箇所からもう一つ、イエスさまについてお話したいのですが、そのことも、やはり、世話役の言葉、
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
なんですね。
この言葉は、イエスさまの栄光に対する、私達の賛美の言葉でもあるということなんですね。
これは、イエス・キリストこそ、最後の最高の預言者であるということであり、イエス・キリストが私たちのために、最高のものを私たちの人生のために準備してくださったということなんです。
神さまは、人類に対してご自身をずっと啓示されているんですね。しかし、人は神さまに逆らい、神さまの戒めを守らず、神さまではなく自分を信じて滅びに向かって歩むようになっているわけです。
そこで、神さまは、何をお考えになったのかと言えば、ご自身の独り子イエス・キリストを世に遣わし、十字架で全ての罪の赦しを、ご自身の独り子を通して与えることで、「わたしのもとに帰ってきなさい」というメッセージを送られたんです。
大事なのは、神さまが、自分の愛する子を遣わせれば、必ず、みんな私の所に帰って来る、私の愛に気づいてくれると考えてくださったというところですね。
み使いではなくて、ご自身のたった一人の愛する子を十字架にかけることで、ご自身の愛というのを世に示し、永遠の命を得るために私のところに帰ってきなさいと言うメッセージを送られたんです。
私、大学生の時に、あるフェスティバルがメリケンパークというところでありました。いくつかのブースがあって、その一つが、ヤシの実のジュースを飲ませてくれるというものでした。本物のヤシの実が冷やしてあって、それにストローがささっていたかな・・・ヤシの実から直接飲むんです。果実から出てくるジュースって美味しいですよね。
この前、果汁の入ったジュースを飲んだんですが、なんか、懐かしい味がしたんですね。それは、サクランボのジュースなんですが、サクランボとは違う何か懐かしい味がするんです。それで、成分を見ますと、「サクランボ」とは別に、「りんご」って書いてありました。「りんごかぁ」って思って、でも、この懐かしさなんだろうなって思ったら、「あ、この味思い出した」ってなりました。昔、母がよくリンゴを絞ってジュースを作ってくれたんですね。ジューサーって言うんですか?ミキサーではなくて、ジューサーです。果物を切って容器に入れて、上から押し込むと、下に絞られた果汁が出てくるというやつです。私が懐かしいなって思ったのは、あのジューサーで作ったリンゴジュース、あの独特の味だったんですね。
もし、神さまが下さる果実のジュースがあるとしたら、それは、エデンの園になっていた命の木から取れる果汁なんだろうなって思います。どんな味なんでしょうね。本当に美味しいんだと思います。そう考えると、イエスさまは水から変えられたぶどう酒は命の味がしたのだと思います。イエスさまは、地上のどのぶどう園から取れるものに優る、ぶどう酒を与えることができ、地上のどのような麦畑から取れる麦を使って作るパンにも勝るパンを当たることができるお方なんですね。私たちは、そのイエスさまがご準備くださるパンとぶどう酒を聖餐式で頂きます。もちろん、味は、地上の味ですが、それは、神さまが私たちのためにご準備してくださったぶどう酒ですよね。良いぶどう酒(グッドワイン)ではなく、ゴッドワインです。聖餐式のぶどう酒には霊的な命が宿っています。
ここには、Good wine ではなく、God wineがあります。
イエスさまは、私たちが神の祝宴に着くために、水ではなく、御自身の血によって私たちを清めてくださり、その愛情によって与えられたぶどう酒が今ここにあるということですね。
場所も形も違いますが、イエスさまが準備してくださったぶどう酒が、礼拝の聖餐式の時に与えられるということを覚えて頂ければと思います。
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