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おはようございます。
先週、クリスマス礼拝、燭火礼拝がありました。
そしで、一週間開けて、今日、礼拝で聖書朗読を聞きますと、イエス様が、もう12歳になっておられるんですね。「あれ、早いな、博士もまだやって来ていないのに、もう12歳なのか」って感じた方もいらっしゃるかも知れません…。伝統的なキリスト教会では、イエス様のご降誕の後、次の週に読む聖書箇所が決まっています。それは、イエス様が幼少期の頃の話です。
ひとつは、①イエス様が生まれて40日目の神殿での出来事。もう一つは、②東方の博士たちが来て、イエス様を礼拝した時の話(イエス様が2~3歳?)、そして、今日の話、つまり、③イエス様が12歳の時に神殿に詣でられた時の話です。降誕後の史実は一年ごとに繰り返して話されています。これらの話を読むと、イエス様は普通の人と同じように成長されますが、同時に選ばれたメシアとしての姿も世に示しておられます。つまり、イエス様の三つの話から人間としての側面と、神の子としての側面であるイエス様の神性の両方が描かれているということです。ですので、今日、私たちは、こうして礼拝をしていますが、私たちが礼拝しているイエス・キリストというお方は、幼い頃から、神としての姿を合わせ持っておられた・・・そのようなイエス様を私たちは礼拝しているんだ。そのことを心に留めて欲しいと思います。今日の聖書箇所からも、そのようなイエス様の姿を見ることができればなと思います。さて、今日の聖書箇所ですが、舞台は、エルサレムにある神殿です。イエス様と両親はナザレの人達と一緒に、神殿に来ていました。ユダヤ教では、神さまの戒めに従い、ユダヤ人の成人男性は年に3回、神殿に詣でていました。こう言ったときは、大きなイベントになっていまして、大抵、村をあげて、団体で神殿にやってきたようです。それの方が安全ですし、何かと都合がいいのでしょうね。
今日の話では、イエス様は、両親と一緒に、12歳の時に来ています。
神殿で祭儀が終わり帰途についたのですが、帰りの道のりの途中で、イエス様がいないことに気づくんですね。ちょっと、ありえないような気もしますが、神殿に詣でる時は、一大行事で、大人数で一緒にやってくるので、子供達同士で集まって歩いていると、どこに誰がいるのかってあまりわからないそうです。
さて、イエス様がいないことに気づいた、マリアとヨセフですが、探して、探して、探し回ると、何と、イエス様は、神殿にいたんですね。では、イエス様は何をしていたのかと言いますと、神殿の境内で、聖書の学者たちの真ん中で、話を聞いたり、質問したりしていました。昔から、神殿には、祭司をはじめ聖書を教える教師が多くいました。彼らは境内で教えていたのかも知れません。
一般の人々は、今の私たちのように一人一冊、聖書を持っているわけではありません。また、解説書が手に入るわけでもありません。ですので、人々は、会堂、もしくは神殿で、聖書の言葉を聞き、そして、教えを聞いていたわけです。また、自分たちの住む地域には会堂がありますので、そこに聖書を教える人はいますが、神殿に仕える人達は、凄く賢い人達だったと思われます。
イエス様は、神殿で、そのような専門家から話を聞いていました。聖書を読みますと、周りの人達は、イエス様の受け答えに驚いていたと書かれています。私も、信徒の方と祈祷会など聖書の学びをしていますが、時に、神学的にもするどい質問をなさる時があります。その時は、わたしも嬉しくなってついつい長くお話してしまします。イエス様も似たような感じだったんでしょうね。
神殿で教えるような人達、つまりエリートのような教師が、12歳のイエス様を見て「お、こいつ、知っているな」「鋭い質問するな」とか思ったんだと思います。もしかしたら、イエス様に教えていると思っていたら、逆に、教えられていたこともあったのかも知れませんね。とにかく、周りの人もイエス様のその受け答えに驚いていたようです。さて、マリアとヨセフは、学者の中に混じって話をしているイエス様を見つけます。そして、マリアはイエス様を叱るんですね。「あなたのお父さんも、わたしも心配していました」って。
すると、イエス様はこうおっしゃいます。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。マリアとヨセフにとっては、家はナザレにあります。父はヨセフです。しかし、イエス様がここでおっしゃったのは、わたしの本当の父は神である。わたしの本当の家は神の臨在するこの神殿である。そうおっしゃったわけです。イエス様ご自身が、ご自身の神性(神としての姿)をお示しになったといのが今日の出来事です。
こんな風にいうイエス様ですが、もちろん、その後、イエス様は、ちゃんと、ナザレに戻られます。そこで、ちゃんと、両親に仕えてお暮らしになりました。ルカは最後、こう締めくくります。『イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。』(ルカによる福音書2章51節~52節)素敵な姿ですね。
ルカは、イエス様の幼少期をこのように12歳で締めくくります。
この最後の書き方を通して、私たちは、イエス様が、神に忠実に仕え、両親にも忠実に仕えるお方であった(神と人とに仕えるお方だった)ということがわかるかと思います。イエス様は神さまに「選ばれた」メシアです。
そのイエス様が神さまに忠実に仕えてくださることで、私たちに祝福が及ぼされました。実は、聖書が「選ぶ」という時、時に、その人自身を特別に祝福するために選ぶということだけを意味せず、その人を通して多くの人が祝福を受け取っていく、そのために選ばれるということがあるのです。
皆さまもご存じのとおり、アブラハムという人はそのように選ばれた特別な人です。この時、神さまは、まず、アブラハムから生まれてくる子孫全てを祝福するとおっしゃいました。これが、イスラエルの民です。でも、それだけではなかったんですね。神さまは、諸国の民も祝福されると約束されました。
これはどういうことでしょうか。アブラハムの子孫は、イスラエルという民族となります。イスラエルの民族の選びは、他の民族と違い、特別扱いされるということではありませんでした。その歴史の中で、モーセに導かれて、強大な、エジプトという国を出ることできました。その時に、神さまは、イスラエルの民に対してこう言っておられます。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19章5節~6節)ここで、神さまは、イスラエルの民を祭司の王国となるとおっしゃいます。この「祭司」という言葉が、非常に大きな意味を持っています。これは、神に仕えることで、他の人々を祝福に導くという意味を持っています。祭司というのは、神と人との間にたって仕える人のことを言います。ある意味で牧師も似ています。祭司は、人々に対して、聖なる神を示し、また、罪の赦しを与えます。また、何が聖で、何が俗であるのか、何が正しくて、何が間違っているのか、また、何が命であり、何が死であるのかということを、礼拝の姿、仕える姿を通して示します。実はイスラエルの民が神さまとの契約に忠実に仕えることによって、世に対して、神さまの聖さ、また、神の祝福の素晴らしさ、神を信じる人に注がれる神さまの愛、また、信仰者が持つ力がどのようなものなのかを示していました。また、イスラエルの民が持っている特権を示しているのではなく、イスラエルの民を通して、多くの国民を招こうとされているというのです。イザヤ書を見ますと、『わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。』(イザヤ書49章6節)とあり、イスラエルの民が「世の光」として存在していると言う風に神さまはおっしゃっています。「神に選ばれる」とは「特別に愛される」ことであり、「特別の祝福される」ことでありますが、同時に、その人を通して周りの人が神を知り、その人も祝福されていくという広がりを持った言葉が「選ばれた」ことなのです。古い契約のもとで、イスラエルの民は選ばれました。信仰の父アブラハムは神に忠実でしたが、イスラエルの民は神の姿を正しく表現することができませんでした。古い契約では、世の光となることができませんでした。そこに、新しい契約を携え、イエス様が現れました。
律法による民ではなくて、恵みによる民を作るためです。イエス様は、忠実な大祭司として、神と人とに仕えてくださいました。イエス様は、ご自身の生き方を通して、聖なる神の姿をお示しになりました。そして、ご自身の十字架での死を通して、神の愛を私たちに差し出してくださいました。先ほど、イザヤ書を御読みしましたが、こう書いてありました。「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」ここで私たちは、“あなたたち”とはあ言っていない“あなた”と言っています。イエス様は、ご自身を信じ、十字架による救いを受け取った人を、新しく、神の民として世に遣わされるのです。神さまに救われるということは、あらたに、周りの人の祝福の基となるために選ばれるということでもあります。私たちは、イエス様を通して、新しい契約、恵みの契約の民となりました。私たちは、神が聖なる方であること、また、神の祝福がどのように素晴らしいものであるのかを知らず知らずのうちに世にしめしています。さらに、罪とは何か罪の赦しとは何かを世に告げています。イエス様は、恵みによる契約の民となった私たちにも、あなたがたは世の光である、地の塩であるとおっしゃいました。私たちの生き方は、必然的に、地の塩、世の光としての生き方となり、多くの人が神さまのもとに救いを求めてくるように導く存在となるのです。このように言いますと、何かプレッシャーを感じますが、しかし、私たちが一番に神さまの姿、神さまの前にいる私たちの凄さ、神さまが如何に大事なのかと云うことを、何処で表現しているかと云いますと、実は礼拝なのです。礼拝で私たちは、罪の告白をし、罪の赦しを得、聖書を朗読し、イエス様のことを学び、使徒行伝を告白し、主の祈りを祈っています。これらをすることによって、この礼拝を守ることで、世に対して神さまの姿を表しているのです。勿論、私たちは、正しい生き方を示すことができません。難しいと思います。だからこそ、「神がそのような私たちの罪を赦し、恵みで満たそうとお考えになった」ということを世に示すんです。私たちは、どこに、罪の赦しがあるのかを示すのです。それが教会です。
パウロは、聖餐式の意味について、コリントの信徒への手紙でこう言っています。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリントの信徒への手紙1
11章26節)。私たちは、聖餐式を通して、罪の赦しを頂くと共に、私たちの罪のために死なれたイエス様を世に告げ知らせているのです。「ここにあなたの罪の赦しがありますよ」「ここに来なさい」というメッセージを発信しているわけです。私たちは、この世界に神さまのこと伝える存在として選ばれている民でもあるんですね。私たちは選ばれ、聖なるものとされました。さらに神さまに愛されています。「神に選ばれる」とは「祝福を受けとる」ということだけを意味せず、気付かない所で、あなたを通して周りの人が祝福されていくということを意味しています。そんな風な選びは重荷だ・・・。そんな風に感じるかも知れませんが、選ばれた者として生きるとはどういうことかを、お正月の元旦礼拝で、もう少し詳しくお話したいと思います。今日は、是非、このことを覚えてください。皆さまは、神さまに選ばれ、救われました。皆さまは愛されています。そのあなたを通して、神さまは、皆さまの周りの人を祝福されていきます。皆さまを通して、周りの人は祝福されていくのです。
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