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おはようございます。
教会では、アドベントに入ると、聖壇、説教壇が紫色で飾られます。
他にも緑、白、赤がありますが、私は色的には紫色が上品で落ち着いた色なので好きです。美しさと端麗さ?を感じます。紫色の染料というのは、昔、高価なものだったので、紫色の衣服は、「高貴な地位」を象徴していました。
ですので、身分の高い「王や貴族」に許された色だと言われています。
ですので、この紫色というのは、主権者、王の色ということができるかと思います。しかし、紫の色が持つ意味がもう一つありまして、それは、「悔い改め」「悲しみ」です。自分自身を見つめるという感じです。来るべきメシア(王)イエス・キリストに気持ちを表すとき、人は必然的に自分の内面を意識することになります。「なぜ、神さまが人となられたのか」という事実に目を向ける時に、私たちは、自分の存在そのものに意識を向けざるを得なくなるんですね。「神さまが人となる」というのはありえないことです。「神さまっていい人ですね」という事ではないんです。ありえないことなんです。まして、「神さまが十字架で死ぬ」ということは、哲学的にも常識的にも絶対にありえません。裁判官が弁護人を兼ねるくらいにありえnいことです。また、弁護人が被告の代わりに刑を受けるくらいに考えられないことなんです。それほどまでにあり得ないことが起こったのです。神さまが人となられたことも、十字架で死なれたことも、すべては、私たちを救うためでした。自分達の力ではどうすることもできない私たちを、神さまは憐れんでくださって、人間の理解を超えた方法で、神さまは解決してくださいました。自らがその栄光を捨てて、人となり、十字架の死に至るまで従順に歩まれたのです。アドベントは、人の理解を超えた大きな救いの御業がなされたことに意識を向ける時なのですが、その時に、必要となってくるのは、洗礼者ヨハネの言葉です。それは・・・「天の国は近づいた。悔い改めなさい」という言葉です。これは、洗礼者ヨハネが荒野で人々に叫んだ言葉なんですが、これは、イザヤ書に預言されていたことでした。
旧約聖書のイザヤ書には何と書かれていたかと言いますと、こう書かれていました。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(イザヤ書40章3節~5節)一般的には、王が来られる時には、道を整えるわけです。道を整備し、でこぼこ道をなくし、また、くねくねした道をなくす・・・これが一般的なやり方です。でも、洗礼者ヨハネが言った言葉は、物理的な道ではなくて、あなたの心を神さまの前に正しなさいということでした。でも、よくよく洗礼者ヨハネの声に耳を傾けると、確かに「悔い改めなさい」「悔い改めにふさわしい実を結べ」「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と厳しい言葉を使っていますが、どこか、慰めを感じないでしょうか。どこか、もう一つの道が準備されているということを感じませんか?「悪い人間は神さまの裁きにあう、滅ぼされる」という事実を伝えていますが、洗礼者ヨハネは「結果的に良い人でないと滅ぼされるぞ」と脅しているのではなく、滅ぼされることのないように「悔い改めなさい」と叫んでいるんですね。先ほどお読みしましたルカによる福音書にはこう書いてあります。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたとあります。これは、有罪にならないようにしなさいと言っているのではなくて、有罪であることに気づき、無罪になるためにどうすれば良いのかを言っているんでいっています。必要なのは、正しく生きようと言う「悔い改めの思い」そして、「罪人の私を憐れんでください」という信仰です。
洗礼者ヨハネはこう言っています。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(ルカによる福音書3章11節)
火というのは神さまの裁きを表します。聖霊なる神さまがこの世に望むとき、それは、裁きの時です。「神さまが手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
と言っています。それは裁きのことを言っています。ところが、神さまの言葉を信じ、自分が神さまの前に罪人だと認め、神さまが準備してくださったイエス・キリストの十字架という救いの手段を信じ、悔い改めてそれを受けとる人は、同じ裁きの火は、その人には及ばないのです。この救いの手段を神さまは、私たちに示してくださいました。旧訳聖書にノアの方舟
はこぶね の話があります。ノアは、神さまの言葉に従って救いの舟を作って乗りました。その後どうなったでしょうか?大雨が降り続け、大地が水に覆われました。方舟に乗った8人、つまり、神さまの裁きの言葉を聞いて、逃れるために舟を作って乗り込んだ8人は助かりました。彼らは神さまの目に良い人だったから救われたのではありません。神さまの救いの手段に従ったから救われました。水は、地上にいる人には裁きの水でした。それは、世界を滅ぼす水でした。しかし、ノアにとって、その裁きの水は、新しい世界を作る水であり、舟は彼を裁きから救いました。
旧約聖書の世界ではなく、今後に起こる本当の裁き、火による裁きもそうです。洗礼者ヨハネは裁きの様子を、「神さまが手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と言っています。しかし、悔い改めて神さまの前にへりくだる人は、聖霊によって、イエス様の十字架の血を通して、救いを受けとるのです。
今日は、説教題を「聖く 義しく 美しく」としました。このフレーズ、聞いたことある方もいらっしゃるかも知れません。この「清く、正しく、美しく」という言葉は、宝塚歌劇団の創始者の方が大事にした言葉だそうです。
また、舞台に立つ人を育てる宝塚音楽学校が目標としている指針でもあるそうです。ただし、その場合「清く、正しく、美しく」というそれぞれの字は、さんずい偏に青いという字を書く「清く」、そして、一の下に止まるという字を書く「正しく」です。でも、今日の説教題はそうではなくて、聖霊の聖という字、そして、義人の義という字を使って、「聖く
義しく 美しく」としています。
この地上の世界で、どれだけ良いことをした人であっても、聖なる人になることはできません。この世で、どれだけ正しく生きたとしても、神さまの前に義なる人にはなれません。私たちは清くなれても、聖なるものとなることはできません。正しい生き方はできても、義なる人になることはできません。
「聖く 神さまの前に義しく 美しく」してくださるのは神さまです。
私たちは、旧約聖書の創世記を通して、アダムとエバのことを知っています。アダムとエバは、善悪の知識の木から取って食べた時、彼らの目は開けました。彼らは、いちじくの木の葉で、自分たちの腰を覆ったとあります。
これは、自分たちの評価をいちじくの葉で覆うことで、隠し合うことができたということを意味します。お互い同士は、それで十分でしたが、神さまが、現れた時、彼らは隠れてしまいました。これは、人の基準と神さまの基準の違いを表しています。聖なる神さまの前に、自分たちの姿がどのようなものでしかないのかがはっきり分かったのです。私たちが考える自分の正しさもそのようなものです。あの人は良い人だ。あの人より自分の方がましだ。そんな風に思ってしまいます。時には、わたしは聖書の教えを守っている、守れているという風に思っている人も時にいらっしゃいます。私が公務員をしていた時、行政指導をするために、ある事業者の方の所に行ったことがあります。
私たちは、その事業者さんが悪いので指導しに行ったのですが、その人が、私たちに堂々と「わたしは後ろ指さされることはしたことがない」っておっしゃいました。多分、自分のしていることはみんな同じようにやっているという思いがあったのでしょうか?世間ではこのようなことは悪いことではないということでしょうか。「正しい」という言葉(一の下に止まると書く)は、一般的に道徳的、倫理的に正しい行動や態度のことを言います。一方で義という漢字を使った「義しい」という表現は、神さまとの関係において正しい状態を指します。これは、「義しい」とは神さまの前で無罪であること、または神さまの義にかなう状態であることを意味します。そのように考えた時、神さまの持っておられる聖なる姿も、また、神さまが持っておられる義なる姿も、人間には到底近づくことも、到達することもできない姿です。私たちが、この地上の世界でどれだけ正しい生き方をしたとしても、神さまの義に到達することはできません。どれだけ、清い生き方をしても、神さまの真っ白な聖なるお姿には到底かないません。私たちの信仰の第一歩は、神さまが持っておられる義を理解することです。神さまだけが義なる方であるという事を認めることです。
信仰の第一歩は、神さまの前に、自分は義では全くないということを認めることです。この地上の世界で、どれだけ良いことをした人であっても、聖なる人になることはできません。この世で、どれだけ正しく生きたとしても、神さまの前に義なる人にはなれません。聖も義も神さまに属するものであり、私たちは所有していません。しかし、その聖なる姿、義なる状態にしてくださったのが、イエス様でした。神さまの前に認められる義が二つあります。一つは、律法を守ることによって与えられる義です。しかし、私たちは決してそれを満たすことができません。しかし、もう一つの義があります。それは、イエス様が私たちの代わりに死んでくださったということを信じることです。
イエス様が私たちの罪を全部背負ってくださって、ご自身が神さまの前に裁かれて死んでくださったのです。これは、弁護人が被告の罪を自分の罪として死んでいったのと同じです。有り得ないことです。神さまの救いを受けとるために必要なのは、自分が神さまの前に罪人であるということを認めることです。これが悔い改めです。悔い改めと聞くと、悔いて“改める”姿によって神さまが良しとしてくださると思いがちです。それだと、また、自分の行いを持って神さまの前に義となろうとしている人になってしまいます。そうではなくて、悔い改めるとは、神さまの前に悔い、そして、「憐れんでください」と願うことです。その時には、必ず、悔い改めに相応しい姿になろうという思いが湧き上がります。そのへりくだった行いが大事なんです。何度もいいますが、行いによって義と認められるのではなくて、イエス様によって、義と認められているということを忘れないでください。私たちの中に義はありません。
イエス様の中に義はありました。そのイエス様の義を十字架に架かることによって私たちは戴きました。そのためにイエス様はお生まれになられたのです。
洗礼者ヨハネの人々への言葉を見ましょう。ルカによる福音書3章10節~14節をお読みします。そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。洗礼者ヨハネは、民衆には、分け合いなさいと言いました。
徴税人には、立場を利用して罪を犯してはいけないと言いました。
また、兵士には力や権力を利用してむさぼってはいけない。と言いました。
洗礼者ヨハネはそれぞれの人に応じて、その立場に応じて、正しい生き方の勧めをしていることがわかります。クリスマスを迎えようとしています。
王であるキリスト、私たちの救いのために人となられたキリストに意識を向けると共に、自分の日々の生き方、ここ最近の生き方を見直してください。
小さいことに注目してみると、結構、正しくないこと、愛のないことをしているものです。自分では気が付かないこともあるかと思いますが、他の人と同じ様に振る舞うのではなくて、正しく生きるということを選択してみましょう。
自分には何ができるのか?を考えてくださる。勿論、私たちを聖なるものとするのは神さまの力、義なるものとするのも神さまの力であることを忘れないでください。イエス様は、私たちを聖なるものとするため、義しいものとするために、人となられました。今、こうして座っていますが、イエス様の十字架、あの犠牲によって私たちは義とされたのです。
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