|
おはようございます。今年の2月に東京で研修がありました。
その際、朝一番に皇居周辺を散歩しました。国会議事堂を横目に見ながら皇居の周りを歩いていると、ここにGHQの拠点があったことを思い出しました。戦後、この場所を中心に新しい日本が築かれていったのだと考えると、非常に感慨深いものがありました。GHQと言えば、コーンパイプをくわえながらタラップに立つ姿のマッカーサー元帥ですよね。彼の回顧録には、皇居の中にいて、なかなか、会うことができなかった天皇陛下と初めてあった時のことが書かれています。日本国民にとって、天皇陛下は特別な存在であり、とても高貴な存在でした。現人神
あらひとがみ と称されるほどの尊厳を持ち、そのお姿を拝見することすら畏れ多いと感じるほどの方でした。でも、マッカーサーからしたら、陛下は一人の君主でしかありません。ただ、日本人にとって王様(キング)ではないことは良く知っていました。ある意味、皇帝(エンペラー)以上であり、神(GOD)のような存在であったことも良く知っていました。
そのマッカーサーですが、ようやく、天皇陛下と会う機会を得ることができました。勿論、GHQの本部に天皇陛下がやってきます。多分、現人神のように崇められる天皇陛下がいったいどんな人物なのか関心があったと思います。
あらかじめ、日本側から、天皇陛下に会う時の作法を教えられますが、彼は、占領している立場から、それに従うことはありませんでした。あくまで、支配する人の立場をとりました。今日、私たちは、ピラトとイエス様との対話を見ていますが、状況は全然違いますが、ピラトの立場は、マッカーサーと似ているなと思いました。勿論、陛下とイエス様は全然違います。ピラトは、マッカーサーと同じ様に、ユダヤという国を統治するためにローマ皇帝から任命された人でした。ピラトは過ぎ越しの祭りの時には、神殿の側に滞在する場所を構えて、暴動など起こらないようにしていました。そして、ピラトにとっては、自分が統括している、ユダヤの国は、ものすごく宗教的な国、一神教の神を崇拝する厳格な人達の集まりだったわけです。宗教的な人達ほど統治しづらいのですが、そのユダヤの宗教指導者たちが、過ぎ越し祭りのピークに達したとき、最もピリピリしている時に、イエス様を処刑してくれと、イエス様をピラトのもとに連れて来たのでした。ピラトは、イエス様が悪いことをしたのではなくて、宗教的な何かに触れて裁かれようとしているということは分かっているようです。ただ、宗教指導者達が必死で死刑にしようとしていることに、異様さを感じていたのは今日の聖書箇所を読んでいて分かります。この人はいったい、どんな人物何だろうか・・・。そんな興味を持った思いでピラトはイエス様を支配者として会ったと思います。先ほど、マッカーサーにとっては、天皇陛下が宗教的にどんな立場であっても、自分にとっては、ただの一人の人であったように、ピラトにとっては、イエス様が、聖書的にどんな人であろうと、単なる人でしかありませんでした。ピラトは法の下に生きる人であり、法で裁くことができる人でした。しかも、ローマ帝国から派遣されユダヤを支配している自分が、イエス様を裁く権威を持っているのです。しかし、そのピラトもイエス様とやり取りしていくうちに、ただの人ではないな・・・ということに気づいていったようです。「おまえがユダヤ人の王なのか?」とピラトは尋ねます。
イエスは答えます。「あなたがそう思っているのですか?それとも、他の人があなたにそう言っているのですか?」ピラトは答えます。「お前の同胞や祭司長たちがそう言って私に引き渡している。お前は何をしたのだ」それに対してイエス様は、ユダヤの王、つまり、この世の王すなわち見える世界の王ではなくて、この世に属さない、見えない神の国に属するものであるとおっしゃいます。そして、わたしは、真理に属し、その真理を証しするために、世に来たのです。そのようにおっしゃるのでした。ピラトは、イエス様が何を言っているのかは理解できなかったと思います。でも、イエス様が、堂々として、おっしゃる言葉に、何か深い真理が隠されていると思ったに違いありません。
自分がこれまで出会って来た人物とは違う、確かに、神的な何かを見出した。もしくは、見いだし始めたのかも知れません。ピラトは、何とか、イエス様を釈放しようとしますが、群衆が興奮し始めていることもあり、事を荒立てたくなかったので、イエス様を処刑することに同意するのでした。ユダヤ人の指導者たちは、やった~って思ったでしょうね。自分達の策略通り、ことが進んだって思ったでしょうね。しかし、ここに聖書の預言が成就していくことになります。イエス様は十字架で私たちの罪の赦しを得させるために、罪を背負い、死んで行かれるのです。(箴言19章21節)にこう書かれています。
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。
イエス様は、ピラトの意志により、処刑されたのではありません。
神のご計画の中で、神のご意志により、救いを成就するために、処刑されていかれたのでした。人がどれだけ策略を練っても、神のご計画だけが成就していくのです。さて、今日の総督ピラトとイエス様の話から、二つのことを覚えて頂きたいなと思います。一つ目は、私たちは、言葉では表しきれないイエス様のお姿の方のことを知っているということです。ピラトにとって、イエス様は弱弱しい一人の人でしかありませんでした。これは、イエス様を十字架につけて殺そうとしてユダヤ人たちにも共通していることです。
でも、私たちは、イエス様が神の御子であることを知っています。
ただ、私たちは、宣教をされているお姿や、十字架に架かられたイエス様のお姿を思い浮かべますが、イエス様が本当はどのような姿なのかということをあまり意識していないのではないかと思います。本当の姿のイエス様を知らないかも知れません。今日お読みした、黙示録にはこう書かれています。
神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1章8節)
イエス様は、世の始まりからおられ、そして、永遠におられるお方であり、全能者であるということです。もし、皆さまが、マッカーサーでもいいし、ピラトでもいいです。世の始まりからおられ、永遠に存在するお方が、会いに来たとなれば、びっくりしませんか?私たちは、長くても百年くらいしか生きることができません。でも、本当のイエス様は、何千年も何億年も越えて永遠に存在しているお方であり、私たちは、老いて行きますが、神は老いることはありません。そのことについては、ダニエル書7章9節にこう書いてありました。「なお見ていると、王座が据えられ「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであった」。「日の老いたる者」とは、永遠に存在する人という意味です。私たちは年をとると白髪になりますが、永遠に存在する方は、老いて白髪になるのではなくて、輝いて白髪のように見えているのです。今日お読みした黙示録の少し後にはこう書かれています。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。(黙示録1章14節~15節)ピラトが、イエス様を呼び寄せて、入って来たイエス様が、この黙示録のような本当の姿で入ってきたら、ピラトは気絶していたでしょうね。でも、全てを隠して人として来られたイエス様を見たピラトは、自分の持つ采配で何とでも出来ると思っていたのでしょう。でも、私たちは、そのようなお姿の方のことを知っており、そのようなお方を神の御子、救い主として信仰しているのです。ユダヤの地を歩かれたイエス様、十字架で死なれたイエス様の本当の姿は、威光と尊厳とを兼ね備えた光り輝くお方なのです。このお方を私たちは知っているのです。
そして、今日覚えて頂きたい二つ目のこと、それは、そのお方が、私と共に人生を歩んでくださる方であるということです。私たちの人生には、困難を感じる時、また、試練が訪れます。これは、誰にでも等しく訪れます。
しかし、力ある神、栄光の神、愛の神が私たちと共に歩んでくださるという喜びは、何にも代えがたいと思います。神さまの存在は、私たちが生きる力となります。また、み言葉を通して、私たちを導き、また、どのような時でも希望を与えてくださいます。さらに、神が愛の神であるという事実は、人生に生きる喜びや安心を与えてくれます。栄光の神が、輝く神さまが、永遠に生きる神さま、決して老いない神さまが、私たちの味方となってくださっています。
人の姿ではなく、本当のイエス様の姿を時に思い起こしていただいて、そのお方が愛をもって、私たちの味方となってくださっているということを是非忘れないで頂きたいと思います。ピラトの前に現れたイエス様は、私たちの救いのために、十字架に架かるために、人となられた神さまでした。
でも、本当のイエス様の姿は、全然違います。イエス様を思い起こすとき、永遠に存在するお方、老いることのないお方、光り輝くお方であることも忘れないでください。私たちの教会は、来週から待降節(アドベント)になります。イエス様がお生まれになるのを待ち望む期間となります。同時に、キリストが再び、世を裁くためにお越しになることを待ち望む私たちであることを覚える時でもあります。一度目は、人としてお生まれになりました。
でも、次にイエス様が私たちの前に現れる時は、本当の姿で顕われてこられます。私たちは、アドベントを生きる民、待ち望む民なのです。
|