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おはようございます。
先ほど、取税人ザアカイの劇を通して、聖書のメッセージを聞きましたので、いつもより少し短く、聖書のお話をしたいと思います。昨日、私が会堂で今日の礼拝の準備をしておりました。土曜日に隔週で子供たちの養育をしている方に部屋を利用してもらっているのですが、そこに来ている小さい子供が二階からガラス越しに私の方を伺っていました。小さい子供って、じ~っと、観察するように見ますよね。そして、こちらがリアクションをとると、目をそらすんです。その子も、興味深げに私の方を見ていましたので、手を振ってあげると、さっと、カーテンに隠れました。でも、また、覗き込むように、じーっと見てきました。何でしょう、好奇心なんでしょうか(怖いもの見たさでしょうか)。でも、その姿は、子供ならではのピュアさでいっぱいでした。
純粋な顔、純粋な眼差しなんですね。私はそういう時、その子の目になって、映っている景色を想像するんです。恐らく、二階から眺めると、綺麗な広い会堂があって、そこでうろうろしている、おじさんがいるわけです。
これは、私が2階から下にいる人を見る時とは違うんです。
私は、色々なフィルターがあって、眺めてしまいますが、小さい子供は、純粋に、見えてくる情報を興味津々で取り入れるんだと思います。
私は、小さい頃の自分を思い出して、子供の視線や目線になって、見えている景色や情景を想像するのですが、すると、どこか、すっきりした感覚になれるんですね。今日の説教題を「子供の目線」という風にさせて頂きましたが、子供って私たちが通って来た姿であり、時に、見習って帰るべき姿なのだと思います。今日の聖書箇所で、イエス様は、こう言っておられます。
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」「子供のように神の国を受け入れる人でなければ・・・」
これはどういうことでしょうか。「決してそこに入ることはできない。」とおっしゃるイエス様は何を教えようとしておられるのでしょうか。自然の豊かな所に行きますと、心がすっきりとしませんか?綺麗な景色を眺めていると、色々なことを忘れることができます。でも、せっかく良い景色のある所に行ったとしても、色々なことで頭がいっぱいだったら、景色を味わうどころから、その空間にいる喜びもなくなってしまいますよね。神の国も同じだと思います。
神の国は、確かに、こことは違う世界のことかも知れません。
しかし、イエス様は、こうおっしゃいました。ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17章20節~21節)これは、イエス・キリストがいらっしゃる場所こそ、神の国であるということではないでしょうか。今、神の国に居ながら、“神の国はどこですか?”というのは彼らが見えていないからです。綺麗な景色がある場所で「綺麗な景色のある場所はどこですか?」と「そこに連れて行ってください」と尋ねているようなものかも知れません。綺麗な景色は、あなたがたの間にあるのです。
それに気づいているかどうかなのです。これが、イエス様のおっしゃりたいことではないでしょうか。私たちの周りは、神の息で満ちている。
神の存在で満ちている。しかし、私たちがその存在を認識できていないのではないかと私は思います。では、それは、どうやって、見えるのでしょうか?
答えは、「子供のように神の国を受け入れる」ことです。私ごとですが、先日の夜、目が冴えてしまって、なかなか、寝ることができませんでした。
天井を見ながら、お祈りしていました。何を祈っていたのかと言いますと、「真理を深く教えてください」「もっと、神さまのことが感じ取れるようにしてください」そのようなことを祈っていました。すると、何か気づきが与えられました。父なる神さまは、旧約聖書を通して、私に語り掛けておられ、キリストは、福音書を通して私に語り掛けておられ、聖霊は、パウロに始まる、手紙を通して語っておられると気づかされたんですね。そして、私にとっての気づきは、一人のメッセンジャーではなくて、父、キリスト、聖霊、それぞれの神さまがメッセンジャーなんだということでした。そして、もう一つ、気づかされたのは、「子供のように神さまのメッセージを聞く」ということでした。これは、単に素直にという大人でもできそうなことではなくて、好奇心いっぱいで、フィルターが全てない状態で、神さまの言葉を受けとるということです。教会の隣に幼稚園がありますが、子供たちが大きな声で童謡を歌っているのが聞こえてくるんですね。「屋根より高いこいのぼり~!」とか歌っているわけです。大人はあんな風に歌えないなって思います。「屋根よりたーかーいこいのぼり」ってちょっと澄まして、歌うかなと。あの子たちも、大きくなったら、そんな風に歌うのは恥ずかしいって思うだろうなって思います。
でも、私たちもそんな風に歌っていたんですよね。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」子供のように聖書の言葉に対して心を開くと、私たちのただ中にある、神の国の一員になれるんです。綺麗な景色のある所で、綺麗な景色はどこにあるのですか?と尋ねる人ではなくて、綺麗な景色に包まれているのがわかるということです。
子供のようにとはどういうことでしょうか。それは、単に素直にということではなくて、あの純粋さ、あの好奇心、そして、あの素直さを持って、聖書から語られる神さまの言葉を受けとるということです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコによる福音書10章14節~16節)イエス様は、子供たちを抱き上げ、手を置いて、祝福されたとありますが、動詞は「祝福された」です。“子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された”と訳された処は、ギリシャ語では“子供を祝福され始めた”になっています。未完了形で書かれていますので、子供たちを祝福し始められたという感じです。イエス様は、ご自分の懐に子供たちを抱きかかえ、そして、手を置いて、一人一人を祝福し始められたのでした。子供の目線は低いです。しかし、抱き上げて、大人と同じ目線にし、大人よりもむしろ子供の方が神さまの国が見えているということをおっしゃろうとしているのかも知れません。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」これは、「子供のように神の国を受け入れれば、私が見えてくるよ。」ということではないでしょうか。
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