宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マルコによる福音書 10章 35~45イ


 「神は偉大なり」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。
 私達は、将来、栄光の神の国に入ることができます。私たちは神の眼に義人として見えています。でもそれは、私たちが良い人だからではありません。特段、悪いことをしていないからでもありません。人は全て神の前に罪人であり、行いによっては、神に認められることはありません。では、私たちは将来、なぜ、栄光の神の国に受け入れられるのでしょうか?それは、誰かが、私達のために代価を支払ったからです。イエスさまは、ご自身の血を流されました。あなたのために、ご自身の全てを捨てて、十字架で血を流し、私達の罪の代価を支払ってくださったのです。私達はイエスさまの血により、神の前に義とされています。これが、神のご計画でした。

 今、AIがどんどん成長しています。そのAIを用いて、未来を予測する人達もいるでしょう。そして、世を支配しようと策略を練る人もいると思います。しかし、AIは未来を予測することはできても、未来を知ることができません。あくまで予測するだけです。しかし、神さまは違います。神さまは、未来を知っておられます。そして、未来を決めることができます。

 皆さまは、旧約聖書に登場するヨセフという人をご存じかと思います。エジプトの王ファラオが夢に苦しんだとき、ヨセフに夢を解き明かすように命じました。ヨセフは、ファラオに、「あなたの夢は、これからエジプトの起こる、7年の豊作と、7年の飢饉を教える神のお告げである」と解き明かします。そのヨセフが加えてこう言います。

「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。」(創世記41:32)

 ヨセフははっきりと、神さまは「未来を決定し実行することができるお方だ」と言っています。

 神さまは未来を予測するのではなくて、未来を決めることができるお方です。すごいご存在だと思いませんか?その方が、私達に愛をお示しになり、ご自身の御子を世にお遣わしになり、その血をもって私たちを救おうとご計画されたのです。
 神さまは、大いなるお方です。その神の独り子がイエスさまです。
 イエスさまは、同胞に捨てられ、牢に入れられ、そして、鞭うたれ、十字架にかけられて、みじめな姿で死の苦しみを味わわれました。神に相応しいお姿では全くありませんでした。しかし、そのようにして救いを実現させるのが神のご計画でした。ここにも、神のもう一つの偉大な姿を見ることができます。
 私たちは、「自分がどれだけ偉いのか」ということを考える前に「神がどれだけ偉大な方であるのか」ということを知る必要があります。
 
 さて、今日の聖書箇所ですが、弟子のヤコブとヨハネが、イエスさまにこう言っています。

「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ10:37)

 これを聞いた、他の弟子達が「何を抜け駆けしているんだ」と怒っている様子も描かれています。
 彼らは、イエスさまが栄光の座に着く時、つまり、王となられる時、自分が、右か左、すなわち、神さまの次に偉い立場にして欲しいと願っています。彼らは、人の上に立つ人になりたかったんですね。弟子達の中でも自分の方が立場が上になることを願っていたんですね。でも、なぜ、上の位にそれほどなりたがっているのでしょうか。
 この前、タクシーに乗ることがあったのですが、後部座席に乗った時に、助手席の裏に貼っているステッカーが目に入りました。それは「STOP!カスハラ!!」というステッカーでした。最近、カスタマーハラスメントが問題になっていますよね。このカスハラをする人の心理ってどこにあるでしょうか。

 ショッピングモールとかに行きますと、丁寧に対応される店員さんっていらっしゃいますよね。時には、丁寧を超えて、丁重すぎるように思える店員さんもいらっしゃいます。丁重すぎてこちらが恐縮してしまうのですが、たぶんこれは、カスハラのトラブルを回避するためかなって思います。ちょっとしたことで怒る客が増えるのに、丁重に対応するのではないかと思います。

 話はそれますが、ユダヤ系の心理学者にアルフレッドアドラーという人がいます。彼は、「なぜ、客は怒るのか?」ということを鋭い視点で捉えています。客はなぜ怒るのでしょうか・・・。
 たとえば、ある時、店員がミスをしてお茶をこぼしたとします。怒って許さないお客さんっています。その怒る客は、“お茶をこぼしたので怒っている”つまり、「原因は、店員側にある」。と思っているわけです。しかし、アドラーは違うというんですね。

 怒る人は原因があって怒ったのではなく、目的があって怒ったと説明します。アドラーは、彼が“怒る”という手段を利用して、相手を自分の支配下に置こうとするという目的があったから怒ったのだと言うのです。

 確かに、怒りっぽい人は何でも怒りますよね。それって気性だと思うかも知れません。確かに、その一面もありますが、実際は、怒ることで自分にとって良い展開になることを知ったんですね。怒る方が自分の思ったとおりに事が進む。だから、怒るんです。多分、本人は気づいていません。本人は相手が悪いから怒らされたと(怒って当然だ)と思っています。でも実際は、怒ることでその場を有利に動かしたいだけなんです。彼は人を支配したいのです。これがアドラーが解き明かす人の心理です。

 人間の中には、上に立ちたいという欲求があります。それは、イチローとか大谷のようなその道の「一番」ということとは違うんですね。あくまで、人が願うのは、人を動かす(支配する)ということです。人の上に立ちたいというのは、はやり、人を自分の思い通りに動かせるからです。

 話を戻しまして、ヤコブとヨハネ、彼らは、イエスさまが王となられた時に、右に左に座らせて欲しいと願っています。でも、神の国では、そうではないとイエスさまはおっしゃるんです。イエスさまは、おっしゃいました。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
                        (10:42~44)

 この世は、人を動かせる人が偉い人、上に立つ人だと考えますが、神の国は、逆なんですね。神の国で神がお選びになる人とは、人に仕え、人の僕のようになって人助けをする人(した人)です。
 でも、私たちは、偉い立場でいたいと思ってしまいます。これは、私達の心の中にある一つの欲求なんですよね。

 先ほど、ショッピングモールの話をしました。確かに、私は、カスハラをする客ではありません。でも、時に、不愛想な店員さんっていらっしゃるじゃないですか。そんなとき、思わず、「わたしは客だぞっ」って思ってしまうんですね。私の中で、やはり、仕える立場、仕えらえる立場という縦の関係を作ってしまっているんですね。私はやはり罪人です。

 人はどうしてもお互いを縦の関係で見てしまいます。話はそれますが鬼滅の刃というアニメが以前に流行りました。その中に、とても素敵なセリフがあったのでご紹介したいと思います。
 それは、鬼になってしまった人のセリフですが、彼は、病人を放っておけない人だったんですね。その彼のこんなセリフが書かれています。

「病で苦しむ人間は何故いつも謝るのか。手をかけ申し訳ない。咳の音が煩わしくて申し訳ない。満足に働けず申し訳ない。自分のことは自分でしたいだろう。咳だって止まらないんだ。普通に呼吸ができればしたいだろう。一番苦しいのは本人のはずなのに。」

 私はこのセリフにドキッとしました。看護・介護「する人」「される人」。どうしても、そのような関係になります。これが、どうしても「してあげる人」、「してもらう人」という縦の関係になってしまうんですね。でも、イエスさまは、あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。とおっしゃるのです。そのように「仕える人」「僕のように奉仕する人」は神さまの目に、最高の姿に映るんですね。
 愛は、目的を持って愛するのではなくて、愛は、縦の関係ではなく、必然的に人に仕えようとするのです。

 縦の関係の話をしてきましたが、とんでもない人が聖書に描かれています。それは、イエスさまと一緒に十字架にかかっていた人です。彼は、イエスさまにこう言います。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
                         (ルカ23:40)
 謙遜すぎるイエスさまを誤解したんでしょうがとんでもない人ですよね。神にマウントする人です。もちろん、彼は楽園に入ることはできません。
 でも、そんな私達の姿が心の奥底に眠っています。聖書にはこんなみ言葉があるんですね。それは、ヨブ記に記されているみ言葉です。

 お前はわたしが定めたことを否定し自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。(ヨブ40:8)

 これは、心のどこかに留めておく必要がある言葉だと思います。これは、「何で善悪の知識の木を置くようなことを神さまはしたのですか?」という問いにも共通しています。それどころか、「どうして神さまは私に・・・」という問い(どうしても問いかけたくなる問い)にも共通しているんですね。そういう時は、どうしたらいいのでしょうか。先ほどの十字架にかけられていたもう一人の人の言葉にその答えがあります。神をののしった男に対して、もう一人の男はどういったのか・・・

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そう言って、彼は、イエスさまに対して謙遜に憐れみを申し出るんですね。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:40)。
 彼は、自分を正しい者とせず、自分の罪を認め(さらに言えば、神との関係性を正しく認め)神に憐れみを求めたわけです。すると、イエスさまの最高の言葉を聞きます。
 
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

 神さまがお聞きになりたい言葉は「憐れんでください」という言葉なんですね。すると、私たちを愛し、十字架にかかるまでしてくださったイエスさまと会話することができるようになります。
 
 私たちと神さまとの関係を隔てているのは、高慢な思いです。人の上にたちたいという思い、人を自分の思うように支配したいという思いです。その思いに打ち勝つには、いつも、あの偉大な神さまが私達のために何をしてくださったのかを知ることです。

 私たちは、神の眼に義として映っています。私たちは栄光の神の国に入ることができます。でも、それは、神が私達のためにへりくだってくださったからです。あの偉大な神が十字架にかかられたのです。その神が、神の国とは何か、栄光とは何かを教えています。

 最後に、パウロの言葉を読んで終わりたいと思います。
 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
(フィリピの信徒への手紙2章3~9節)

【今週の集祷:コレクト】
 主よ、あなたの恵みがいつも私達の前にあり、あなたの恵みがいつも私達の後に続きますように。私達があなたの恵みに満たされ、常に良い行いを続けることができるように助けてください。あなたと聖霊と共に、一つの神として、今も、そして、永遠に治められる御子、私たちの主イエス・キリストを通してお祈りいたします。アーメン。