宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マルコによる福音書10章2節~16節
創世記2章18節~24節
ヘブライ人への手紙1章1~4節・2章5~11節

 「真理はどこに」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。

皆さまは、「真理」という言葉に対してどのようなイメージを持っておられますか?わたしは「真理」と聞くと、「不変の真理」という言い方がありますので、やはり、「永遠に変わらない一つの真実」もしくは「誰もが納得する唯一の答え」のようなイメージを持っています。私は、中学生の時に聖書と出会いましたが、聖書を開いた時に、「ここに真理が書かれている」と直感的に思いました。神さまの言葉だと思いました。この世界を造り、治めておられる神だからこそ、真理をすべてご存じです。真理を全てご存じの方が、私たちにくださったのが聖書なのです。そして、さらに、この世界を造り、治めておられる神さまが、人を救うために人となられた。それが、イエス様です。

天地を創造された神さまなので全てをご存じなのは当然です。

イエス様と共に過ごしたヨハネは、ヨハネによる福音書1章14節の中で、「恵みと真理とに満ちていた。」そのように証ししています。

イエス様は「恵み」に満ちていた・・・そう言われれば、確かにそうだなって思いますよね。慈悲深く、また、憐れみ深く、御言葉と奇跡によって多くの人の心と体を癒されていた・・・そのようなイエス様の姿は恵みに満ちていた姿だと思います。これは、分かりやすいかと思います。では、ヨハネの言うイエス様が「真理」に満ちていたというのはどういうことでしょうか。

「真理」に満ちていたという意味は、二つあるんです。今日はそのことをお話ししたいと思います。一つ目は、知恵・知識において、「真理に満ちていた」ということです。それはそうですよね。聖書は、イエス様が天地を創造される時に深くかかわっておられたことを記しています。この世界を造られ、摂理を定められ、この世界を治めておられる神さまですから、イエス様は全てをご存じです。それは疑いもないことですよね。イエス様は全ての真理をご存じでした。私は中学生の時に聖書に出会いましたが、聖書は「真理」でいっぱいです。罪とは何か、愛とは何か、他にも人が知るべきことが沢山書かれています。

イエス様は、多くの人に聖書の真理、人生の歩み方をお教えになりました。

今日の聖書箇所も真理を教えるイエス様の姿が描かれています。

ある時、イエス様のもとに、ファリサイ派の人がやってきました。

彼はイエス様に「妻を離縁することは律法にかなっているか?」と試してきました。ここでは「人々」と書かれています。これは、何人かで責める方が良いと思ったからだと思いますが、イエス様が間違ったことを言った時の証人になる人たちが必要だったからだとも思います。イエス様は彼らの質問に直接お答えにならず、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と彼らに答えさせます。これは、答えを教えるのではなくて、質問者自らを真理へと近づけていくという手法です。彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えています。彼は、申命記の言葉を用いて答えています。彼は、律法を神から授かったモーセは、離縁状を渡すならば、離縁が許されると教えていますと答えています。まず、聖書には十戒のような明確な形で「離縁してはダメだ」という直接的な戒めがないんですね。でも、聖書全体が離縁を禁じているのは確かです。モーセが、離縁状を渡せば離婚してもよいという風に言ったのは、許可するために言っていなくて、妻をどうしても離縁する時は、離縁状を渡して次の夫との関係をスムーズにさせるようにと命じているんです。

ですから、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」というよりは、離縁するのなら離縁状を書いてややこしくならないようにという、どちらかと言えば、許可ではなく配慮であったわけです。しかし、後の時代には、離縁状を渡せば離縁が許されると解釈され、妻が気に入らなくなったら、離縁状を書いて、去らせてしまうようになっていました。ですので、イエス様は、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。とおっしゃり、何でもかんでも離縁することは神の御心ではないということをおっしゃったんですね。そして、イエス様は、聖書の言葉から、このことの真理をお話になりました。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」創世記を見ますと、神さまは、土から、つまり、この世に生きるものとして、人をお造りになったと書かれています。

そして、男と女に造られたのは、互いに助け合い、愛し合って生きるためです。そして、増え広がって行くことで、幸福な世界が広がっていく・・・そんな願いというか御心が込められていたんですね。花壇に花を植えると誰でも沢山花が咲いていくことを望みます。すると、花壇は、美しい花壇になるかと思います。

そこには花壇を手入れする人の心が顕われてきますよね。同じように、この世界に、人が増え広がり、また、お互いが愛し合い、助け合って、広がっていくことによって、世は、神さまが創造した世界の素晴らしさを見ることができるんです。しかし、罪が人間に入り込んだ時からおかしくなってしまったんです。イエス様の時代、本来ならば、神さまによって与えられた妻を喜び、神に感謝し、妻を愛するという生き方が求められているのに、社会的に男性が強く、女性は弱い・・・そのような構図ができあがっていました。これは、神さまの創造の秩序に反する状態なんです。また、イエス様の時代、子供達もまた、社会的に弱い存在となっていました。今日の聖書箇所で、弟子たちの前に、子供たちが連れて来られたのですが、それを弟子たちが叱ったと書かれています。

イエス様の弟子たちでさえ、子供たちを煙たがり、じゃまだじゃまだという風に、あしらっていたのがわかります。ここにも、男が偉そうにし、女性や子供たちが低く扱われていた社会を垣間見ることができるかと思います。詩編にこういう御言葉があります。あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。(詩編128編2b節~3節)葡萄もオリーブも祝福のしるしです。神さまは、妻も子供も、麗しいしるしである葡萄やオリーブに木に譬えられるんですね。それだけ、与えられた妻、子を喜びなさいという風に教えているのがわかります。なのに、彼らは、妻、子よりも自分が偉いという風に誤解していたのです。聖書の真理から遠くなってしまっていたんですね。

イエス様は、「真理」を全てご存じで、イエス様は、人を「真理」へと導くお方なのです。ヨハネによる福音書1章16節17節にこう書かれています。

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。律法はモーセを通して“与えられた”。

しかし、恵みと“真理”は“現れた”と言っています。“与えられた”のではなくて、“現れた”という表現をしています。これはどういう意味でしょうか?今日の聖書箇所では、確かに、イエス様が、神の御心はどこにあるのか(何が真理なのか)を教えられました。私たちも、聖書を読んで、真理を知ることができます。しかし、イエス様が人となられたお姿は、ただ、真理を説き明かす教師の姿ではなかったのです。「真理」と訳されている単語はギリシャ語では、「アレイセイア(λήθεια)」という単語が使われています。

これは「隠されることなく見えて来たもの」という意味で「真理」と訳されています。でも、もう一つ、大事な言語があります。ヘブル語です。

旧約聖書に使われているヘブル語です。「真理」と訳されている言葉は「エメット(אֱמֶת)」という単語が使われていますが、この「エメット」という言葉が奥深いんです。この「エメット」というヘブル語は、約束に対して「誠実」「忠実」という意味があるのです。最初に言いましたが、真理と言うと、何か「永遠に変わらない一つの真実」というイメージや「誰もが納得する唯一の答え」というイメージがありますよね。でも、旧約聖書では「真理」という単語は「誠実」という倫理的な要素を含んでいるんです。これを神さまと合わせるとどうなるでしょうか?それは、「真理の神」に加えて、「誠実な神」「約束を守る神」という神さまの真っ直ぐな姿、真っ白な姿を現す言葉となるのです。

神さまは、人となられました。でも、私たちは罪深く、神さまのいいつけを守らず、好きなように生きている私たちです。でも、私たちを救うために人となってくださいました。そして、十字架にかかり、私たちの罪の赦しを与えてくださいました。なぜでしょうか?それは、人を創造し祝福の言葉をかけられた神さまが、ご自身の言葉に「誠実」であられたからです。聖書では「思い起こす」という言葉が良く使われます。神さまがイスラエルの人達を顧みて助けたという時、「契約を思い起こされた」と言います。この思い起こすというのは、忘れていたことを思い出したという意味ではありません。神さまが「思い起こす」というのは、神さまが「誓ったことに対する真っ直ぐさ(誠実さ)がゆえに行動を起こされた」「誠実さを示された」という意味です。旧約聖書の創世記では、人が一人でいるのは良くない。助ける者を造ろうと言って、女を造られました。これは、男に対して女を造られたということですが、大事なのは、「人が一人でいるのはよくない」という神さまの思いです。人に罪が入り、愛し合う力を失ったとき、神さまは、再びこの御心を「思い起こされて」今度は、ご自身が直接、人を助ける者となってくださったのです。イエス様は、確かに真理を全て知っておられます。そういう意味では、真理の神であられます。

しかし、もう一つ、「真理の神(まことの神)」という時、そこには、最後までご自身の約束(思い)に誠実の生きられる神さまの倫理的な姿(最後まで人を愛する神さまの姿)をも表現しているのです。神さまは、男に対し、助ける者として女を創造されました。そして、最後に神さまは人を助ける者として、神ご自身が人となって現れてくださいました。真理は聖書の中に秘められています。また、イエス様も真理をお語りになりました。でも、本当は、イエス様ご自身が真理です。真理は形となって顕われました。真理はあなたを永遠に包み込み、真理はあなたから離れることは決してありません。イエス様はある時、こうおっしゃっています。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理 まこと をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(ヨハネによる福音書4章23節)「真理をもって礼拝する」ってどういう意味でしょうか?これは、約束に誠実である神を前にして、礼拝する私たちもまた誠実な心・態度で神と交わるようになるという意味だと私は思います。そのように神が求められているという意味でもあります。この後、聖餐式があります。聖餐式こそ礼拝です。

聖餐式の場において、神の真理と私たちの真理が出会います。

つまり、神の誠実と、私たちの真の信仰が交わります。聖餐式では、「記念として」という言葉を使いますが、これは、「思い起こして」という意味です。これは先ほどもいいましたが、記憶の中で頂くという意味ではなくて、誠実な信仰を持って頂くという意味です。神さまは、私たちのために、こうして糧をも準備してくださいます。ここに神の真理が形になって顕われています。私たちは、この恵みを記念して頂くのではなくて、神さまの“まこと”に対して、誠実に応答してこの糧をいただくのです。いつもご自身の誓いを覚えておられます。神の真理、神のまことは私たちから決して離れることはありません。

このことを今日覚えてください。