宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マルコによる福音書9章38節~50節
民数記11章4節~6節
10節~16節・24節~29節

ヤコブの手紙5章13節~20節

 「争いと平和」

説教者  江利口 功 牧師

   

 おはようございます。ちょっと前のことになるのですが、私がリビングを歩いていて、足を下ろそうとしたその場所に何かが置いてあったんですね。

音と足の感触から「あ、何か大事なものを踏んでしまった」って思いました。足を下ろし切ることなく足を上げることができたのですが、足の下には、レンズが外れた子供の眼鏡がありました。寝転んでいた時に眼鏡を外したのでしょうか、置き忘れていたんでしょうね。「踏んでしまった~。申し訳ない」と思ったのですが、私の心にはもう一つの思いが浮かんで来まして、それが「何でここに眼鏡があるの?」という思い、プラスして、「何で床に眼鏡おきっぱなしにしておくの?」という思いでした。踏まれた本人にとっては「何で眼鏡踏んだの」って思いますよね。そこで、私が「床に置きっぱなしにしているからだ」と言い張ったらどうでしょうか。「踏んだ方が悪い」、「床に置きっぱなしにしたのが悪い」、と双方が言い争うことになりますよね。こういう時は、「踏んでしまってごめんね。でも、下に置きっぱなしだと、こうして気づかずに踏んでしまうから、これからは特に大事なものは置かないでね」と言うのが平和な解決方法(ベストアンサー)ですね。(ちなみに、レンズをはめ直すだけでは治らず、眼鏡屋さんに修理に出すことになりました。)今日は、「争い」と「平和」というテーマでお話ししたいと思います。「争い」は悪魔に属し、「平和」は神に属します。今、戦争がなかなか終わりませんが、爆弾って撃ち込んだら、色々なものを破壊しますよね。爆弾が落ちたら、そこに、花がいっぱい咲く・・・それを爆弾と言うかは別として、そんな爆弾を打ち合って欲しいです。争いは大なり小なり絶えないものですが、大事になってくるのは、今日の聖書箇所の最後のイエス様の言葉だと思います。イエス様は、こうおっしゃっていますよね。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコによる福音書9章50節)では、「互いに平和に過ごす」ためにどうしたら良いのでしょうか。まずは、気づくことが重要になってきます。今日の聖書箇所では、イエス様の弟子達以外の人が、イエス様の名を使って悪霊を追い出していることが話題になっています。ヨハネはイエさまにこう言っています。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(マルコによる福音書9章38節)お名前を使って悪霊を追い出しているというのは、恐らく、「イエスの名によって命じる。悪霊よこの人から出て行きなさい」と命じて悪魔祓いをしていたのでしょうね。これはエクソシストのような、憑りつかれた人を解放する儀式よりかは、病や苦しみから人を解き放つためにイエス様の名を用いて癒していたのだと思われます。弟子達にとっては、それが気にいらなかったようです。“こう言ったことは、私たち弟子達だけに任されているのであって、弟子でもない人が安直にするべきではない”と思ったからでしょう。

実際に、弟子たちは、止めさせようとしたみたいですが、その人は、止めようとしなかったようです「やめさせる」という言葉が未完了形で書かれています)。それもまた腹が立ったのでしょう。彼らは、イエス様も「何、私の名前を勝手に使って悪霊を追い出しているだと」と言って彼らの思いに賛同してくれると思ったようです。でも、イエス様の答えは違っていました。

イエス様はこうおっしゃっています。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(9章39節~40節)これは弟子達にとっては意外な視点だったと思います。「味方なんだ」という気づきを与えられたというかそう見るように教えられたわけです。でも、その気づきって大事だと思います。最初に眼鏡の話をしましたが、家族の中では、本当に些細なことで言い争ったり、折角の暖かい空気を台無しにしてしまうことがあります。些細なレベルで言えば、「(一つの目的を持っている)家族なんだ(仲間なんだ)」ということの再発見が争いを防ぎます。聖書を見ますと、ある時、イエス様が悪霊を追い出していると、イエス様のことを妬んでいる人が「悪霊の力で悪霊を追い出している」と批判してきました。イエス様を悪霊呼ばわりしたんですね。その時、イエス様は、こうおっしゃいました。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。(マルコによる福音書3章24節~25節)国というレベル、また、家というレベルでも、共通しているのは、争いは内輪もめだということです。

内輪もめが「平和」を壊しているんですね。この世界は神さまがお造りになりました。世界は一つ、人間は一つ、家族も一つ、親子も夫婦も一つです。

一つとなるところに愛があり、平和が生まれて来ます。悪魔はそれを壊しにくるんですね。家族も組織も、互いが尊重し合い、助け合い、愛し合い、赦し合っていくならば、暖かい組織になりますし、幸せを感じる空間になっていきます。でも、悪魔はそれを壊そうとしてくるんですね。だからこそ、「味方なんだ。仲間なんだ。」と気づくのが大事になってくると思います。時に難儀な人がいてこちら側もどうしても平和に振る舞えなくなることもありますが、些細なレベルでは意識するのがいいのでしょうね。さて、イエス様は。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」と教えておられますが、このイエス様の言葉にある、自分自身の内に塩を持つということが、「気づく」ことに続いて、平和を作り出すために大切になってくるのだと思います。平和のために、自分自身の内に塩を持つこと、正しさを持つことです。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(9章42節)イエス様は、小さい者、すなわち弱い人を大事にされるお方です。

そのような小さい者につまずきを与える人は報い(裁き)を受けることになるとイエス様はおっしゃっています。イエス様は弱い者を守ろうとされます。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。(9章43節、45節、47節)厳しい言葉ですね。でもこれは、文字通りの事を本当にそうしなさいということではなくて「小さい者を躓かせる罪の根をあなたから取り除きなさい」という意味です。プライドが原因であればそれを捨てなさい。金銭欲がそうさせるならそれを捨てなさい。争いの原因の中に、あなたの罪があるのであれば、それを取り除くようにとおっしゃっています。イエス様は、地獄という言葉を使って厳しく戒めておられますが、でも、そのような厳格な厳しい律法の言葉だからこそ、私達は内側に塩を持つことが出来るような人へと変えられるのだと思います。人は皆、火で塩味を付けられる。(9章49節)とある通りです。「自らに気づくこと」、「自分自身の内に塩を持つこと」、これらのことを私たちはイエス様の言葉から受け取っているのですが、よくよく考えると、これらの言葉を聞いているということは、私たちが神さまに愛されている証なんですよね。神さまに「あなたは私の子なのですよ」と大事にされている証なんですよね。最後に、「山上の説教」と言われるイエス様の教えを見て終わりたいと思います。山上の説教の中に、次のような言葉があります。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。             (マタイによる福音書5章9節)神さまの霊的な祝福をいっぱい受ける人はどんな人だろうか、それは、平和を実現する人です、その人たちは神の子と呼ばれます。という意味です。「その人たちは神の子と呼ばれる」この「呼ばれる」という表現、いいと思いませんか?他の人がその人を見て「神の子だと言う」というのです。また、神さまが、その人の生き方を見て、「わたしの子だ」と認めてくださるのです。嬉しくないでしょうか?「神の子と呼ばれる」という言葉を説明するのに、やはり一番相応しいのがイエス様です。

「神」は義なるお方です。神は正しい人としか交わることができません。

しかし、人間には罪が入り込み、神さまとの正しい関係を失いました。

しかし、神さまの方から、イエス様を通して、私たちの罪を赦し、和解しようとしてくださったというのが、福音です。そのために、平和を与えるために人となられたのがイエス様です。イエス様は、神さまとの間の隔ての壁を取り除くために十字架にかかって死んでくださいました。こうして、私たちは神さまとの間に平和を頂きました。福音書には、十字架刑の間のイエス様の言葉を記しています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」「渇く」「成し遂げられた」「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」イエス様の言葉の一つ一つが愛に満ちた言葉です。ローマの兵隊を率いる百人隊長はイエス様が十字架で苦しんでおられるようすをずっと見ていました。そして、全てのイエス様の言葉を聞いていたと思われます。そして、イエス様が息を引き取られた時、神殿の垂れ幕は真っ二つに裂け、また、地震が起こったり、太陽が光を失ったりと色々な現象が起こったのですが、百人隊長はイエス様の生き方、言葉を聞いて「本当に、この人は神の子だった」と告白しているんですね。また、フィリピの信徒の手紙を見ますと「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピの信徒への手紙2章9節)とあります。神さまもイエス様の歩まれた生き方を認証され、イエス様の名を大いなるものとされたのでした。私は平和を実現するというのは、単にニコニコして、仲良くやっていきましょうねということではないと思います。

地の塩、世の光として、正しく応対することだと思います。

今、世界は、本当に混沌としてきています。この時に相手のために祈りを捧げる、敵の為にも祈りを捧げる時ではないでしょうか。今こそ、平和の君であるイエス様を世に証するときだと思います。平和をもたらすために神さまはどのようなことをしてくださったのか…。そのことを世は知る必要があると思います。まずは、些細なところから、争いではなく平和をもたらす人となっていきましょう。