宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マルコによる福音書9章30節~37
エレミヤ書11章18節~20節
ヤコブ書3章13節~18節

 「仕える者となる」

説教者  江利口 功 牧師

   

おはようございます。

先週は、礼拝後に敬老の日のお祝い会をいたしました。

多くの方が残ってくださり、“ぼっちゃ”をしたりして、共に楽しいひと時を過ごせましたね。そのような交わりの時をくださった神さまに感謝いたします。食事の後に、一冊の本から、男性と女性の違いについてお話しをしましたが覚えておられますか?その中で、このような項目がありました。

男性は、“プライドで生きている。女性は、パンで生きている。”

男性はプライドが高く、女性は現実的である。うまいこと男女の違いを表しているなと思います。勿論、男性と女性とでそういう傾向があるということであって、全ての人がそうだということではありません。そのような傾向を持っているのが私達ですが、「パンで生きている」人に対して聖書は、何と教えてくださっているでしょうか??「人はパンだけで生きているのではない」(マタイによる福音書4章4節)ですよね。主はこうおっしゃいます。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイによる福音書6章31節~38節)大切な言葉ですよね。「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」というのは、ただ、“み言葉が大事なのですよ”と教えているのではなくて、神は、必要に応じて、助けを与えてくださるのですということを教えています。ですので、心配しなくていいんです。

では、プライドで生きている人に対して聖書は何といっているでしょうか?それが、今日の御言葉です。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコによる福音書9章35節)。「わたしは偉い」「偉くなりたい」という思いに対して、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり」なさいと言うのが聖書の教えです。ところで、今日の礼拝のお花、私、生けさせて頂いたのですが、何これ?(なんじゃこれ?)って思われた方もいらっしゃるかも知れません。自分でも、自分の感性にびっくりしています。字や絵を描くと、その人の心の状態や性格を垣間見ることができるそうです。同じように、生けた花にも、その人の心の状態や性格が顕われてくると言われています。(そういう事もあって、私は誰かが生けてくださった花を修正しません。)ちなみに、今回は、「芸術は爆発だ~」見たいな気持ちで生けました (;^_^A「芸実は爆発だ」という言葉は、万博の太陽の塔で有名な岡本太郎さんがおっしゃった言葉なのですが、岡本太郎さんは、「上手下手に関係なく、表現の喜びを噛みしめるべきだ」とおっしゃっていたそうです。そして、「芸術は爆発だ」という言葉は、“何物にもとらわれず自分が表現したいと思うありのままを作品にぶつけるといい”ということだそうです。形や流派にとらわれず思ったままに表現したらいいんだ。

その方がいいんだという意味です。ですので、感じたままを作品にぶつけました。作品には性格が出てくると言えば、こんな風に思うかもいらっしゃるかも知れません。「クリスチャンになっても、自分の性格全然変わってないなぁ」って。でも、大丈夫です。ちゃんと、内側で生きてくださっている神さまの存在が、作品に現れてくると思います。イエス様は十字架で死んでくださり、そして、三日目に蘇られました。それは、神の勝利です。悪魔に対する、私たち人間の勝利です。悪魔は、私たちを黄泉(死)に閉じ込めることができなくなっています。イエス様が、十字架で死んでくださり、復活してくださったことによって、私たちもまた、信じ、洗礼を受けた時に、古い自分は死に新しい自分に生まれ変わっています。それは、性格や人からの見た目にはなかなか出てこないかも知れません。でも、内側で、イエス様は、生きておられます。

それが、何気ないところで、香りとなって現れています。自分に自信をもってほしいと思います。さて、今日お読みしました聖書箇所ですが、イエス様の十字架への道のりは、終わりに近づいています。イエス様は「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられましたが、弟子たちは理解できなかったようです。弟子たちは、ずっとこの世的なメシアのことしか頭になかったからです。彼らは、イエス様が地上のこの世に目に見える新しい神の国を建て、その国王となられると思い込んでいたので、イエス様がおっしゃる、「引き渡される」とか「殺される」「復活する」という言葉が理解できなかったのです。イエス様との言葉を聞いても「主は何をおっしゃっているんだろう」と思っていたのだと思います。ただ、そのような思いの一方で、自分達の間では「誰が一番偉いのか」ということが話題となっていました。「誰が一番偉いのか」このことは、社会において男性が結構、大事にして追い求めてしまうことだと思います。女性はどうかと言えば、人の上に立ちたい(マウントを取りたい)という思いを持つ“お局様 おつぼねさま”タイプの方は一定数はいらっしゃいますが、全体的には少ないのかなぁって思います。

今、自民党の総裁選が行われていますが、誰がリーダーとなるかという争いは、本当に、見ていて醜いですね。裏で色々なことが起こっています。

実際に見ていて思うのは、自分達の中で誰がトップの座をとるのかということに必死です。国民のための総理であるというのは見えてきません。

The Match」という自民党の総裁選のポスターがありますが、これを見たら、何を争っているのかが見えてきます。作品には、人の思いが出てしまうんですね。さて、イエス様は、「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」とおっしゃいました。

でも、これは、敗北者となる歩みではなくて、むしろ、勝利者となる歩み、もしくは、本当に実りある人生を歩むための生き方なんですよね。

弟子たちは、自分たちの内、誰が一番偉いのかと論じ合っていました。

それを知ってイエス様は、全ての人に仕える人となりなさいとおっしゃいました。「誰が一番偉いのか」という争いをする人は自分の欲望のために争う人になってしまい、その人からは本当に良い物はでてきません。

一方で、「すべての人に仕える」という生き方をする人からは、良い物が沢山でてきます。同じ軸にある対照的な生き方ですが、ここまで違うのです。

実りの多い生き方、実りのない生き方があるのです。私たちは、生まれた時、また、老いる時には必ず人のお世話になります。親は赤ちゃんが生まれるとお世話をします。おむつを替え、また、泣いたら食べ物をあげ、お風呂で体を綺麗にするなど、本当にお世話します。小さい子供のために一生懸命、仕えます。親としては、本当に寝る時間を犠牲にしての育児です。病んでしまう親もいます。でも、手をかけて、世話をした子供は、やはり、心が健康に育ちます。豊かな実りを見ることができるものです。このことにも、仕えることの実りを見ることが出来ます。誰が一番偉いのか・・・この人間の欲望は、必ずと言ってよいほど、犠牲となる人が現れます。聖書にはエレミヤの話が書かれています。

預言者エレミヤの時代に、王は各地に点在していた神殿を廃止し、エルサレムにある神殿のみに統合しようとしました。しかし、そうなると、これまで祭司として働いていた人達の職が失われてしまいます。王が言っていることは聖書的に正しいのですが、彼らからすると困った政策です。

預言者エレミヤは彼の故郷で、神の啓示により、その王様の施策に賛同したのでした。すると、エレミヤは故郷の人達の陰の策略により、殺されそうになるのです。しかし、主がそのことをエレミヤに教えてくださった・・・それが本日読んで頂いたエレミヤ書の内容です。自分達の地位にしがみつく人達によって、エレミヤは殺されそうになりますが、同じことが、それ以上のことがイエス様にも起こりました。イエス様は、目には見えない新しい神の国を建てるお方でした。そして、当時の神殿を司る人、また、宗教指導者たち(この人たちの代表はサンヘドリンという最高議会のトップの人達です)に煙たがられるようになり、彼らの悪だくみにより殺されてしまいます。イエス様は、色々なところで、彼らを批判していたからです。彼らもまた、「誰が一番偉いのか」という悪魔の誘惑に憑りつかれた人たちで、正しい判断ができなくなり、自分達は偉い。何を偉そうに言ってくる!そんな思いに覆われていました。そのような彼らの悪だくみによって、イエス様は十字架で処刑されることになるのですが、そこに神の栄光が顕されることになりました。イエス様は、三日目に復活されたのです。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者悦になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピの信徒への手紙2章3節~9節)とフィリピの信徒への手紙に書かれています。

仕えるというのは、へりくだり愛を注ぐことだと聖書は言っています。

そして、仕えるということの中に、自分が相手より優れた者(助けてあげる人)と思う心があってはいけないと教えています。悪魔は、助けるようとする善い心にも、「誰が偉いのか」という思いを抱かせ、それをつぶそうとしています。人生には誰もが登りたくなる山があります。確かに、その山頂から景色を眺めると良い景色なのだと思います。でも、イエス様が、私たちを連れて登られる山は、全然違う山なんです。その頂上への道のりも違います。

大変かも知れません。しかし、頂上に到達したときの気持ちと、見える景色は全然違うんですね。とても素晴らしいのです。私たちが洗礼を受けた時から、イエス様とそのような登山が始まるのです。最後になりますが、誰もが「誰が一番偉いのか」という思いになるわけでもありません。

「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」というイエス様の言葉にピンとこない人は、是非、神に仕える人になってください。毎日、祈り、聖書を読んでください。

そして、「あなたは今日私に何を望んでおられますか?」そんな問いかける祈りをする人になってください。するとイエス様が導く登山をイエス様の側で楽しむ人となり、又、イエス様がガイドする登山の豊かさを知る人となります。