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レオナルドダヴィンチが描いた絵画に「聖アンナと聖母子」という絵があります。ご存じでしょうか?その絵にはマリアの母アンナとマリア、そして、幼いイエス様の三人が描かれています。そして、その絵にはもう一つ、正確にはもう一匹描かれているものがあるのですが、それが小羊なんです。
その絵は、幼いイエス様が小羊を手でつかんでいて、そのイエス様をマリアが懐に引き戻そうとしています。実は、その絵に描かれている小羊は、「犠牲として捧げられる生贄の動物」を象徴しています。イエス様が将来引き受けることになる十字架での受難を意味しています。旧約聖書を読むと、神さまとの関係を回復するためによく動物が捧げられてきました。傷のない小羊も犠牲の動物の一つでした。神への供え物となる動物は、供える前、もしくは、供えた後に血が流されなければなりませんでした。ダビンチの絵に描かれている小羊は可愛い小羊ではなくて、「生贄」となる小羊であり、その将来の宿命を暗示している小羊を幼いイエス様が掴んでいるのです。ダビンチの絵は、宿命である受難(十字架による贖い)をつかみ取ろうとしているイエス様と、そのことがご計画だと知りながらも引き離そうとしている母マリアの母性が描かれているそうです。イエス様は、最後、私たちと神さまとの関係を回復するために、つまり、罪の赦しを与え、罪と死と悪魔を滅ぼすために十字架で死んでくださいました(肉が裂かれ、血を流されました)。私たちは、その姿に“私たちの命を買い戻すためにその人生を歩まれたイエス様の献身的な愛”を受け取って欲しいと思います。是非、このことを覚えていて欲しいと思います。
わたしは、先週の火曜日に、病院で検査をしました。どこか悪いというわけではなくて“特定健診”という生活習慣病予防のための検査です。
これまで何度か、同じ検査をしてきているのですが、寂しいことに、だんだん、正常値の範囲からはずれる項目が出てくるんですよね。健康にいくら気を使っても、身体には品質保持期限と賞味期限があるんですね。毎年検査をしなくてはならなくなった自分。また、いくら健康に気を使っても数値に異常が出るようになる自分。そうなって感じるのは、“若さって贈り物”だったとういうことです。『子供叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ』という、言葉があります。これは、自分も子供の時には同じことをしてきたんだから、子供に目くじら立ててはいけない。そして自分も将来、歳を取って若い時にようにはいかないんだから、老いた人を馬鹿にしてはいけない。むしろ尊い存在として見なさいということを言った言葉です。誰もが生まれた時に人の世話になり、年をとって、また、人の世話になります。ずっと若いのが一番いいのですが、必ず、歳を取ります。その時には、いくら頑張っても、いくらお金を払っても、失った若さを「取り戻す」ことはできません。まして、失った命を買い戻すことなんて絶対にできないのですね。私は待合室で座っていながら、改めて、そのことを感じていました。イエス様は、今日の聖書箇所で、こうおっしゃっています。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マルコによる福音書8章36節~37節)まさにその通りだと思います。
全ては命あってのことなんですよね。喜びもまた繁栄も全てそうです。
命の尊さを考え直し、そのために何をすべきかをまず考えなさい・・・。
イエス様はそうおっしゃっているのです。命って大事なんですよね。
当たり前に持っているものではないんですよね。そう思ったら、今ここに私たち、貴重な存在なんです。尊い命を神さまから頂いたもの同士が座っているんですよね。イエス様の譬え話の中に「高価な真珠」の話があります。
神の国は良い真珠を探している商人のようだ。そんな風に始まります。
そして、「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイによる福音書13章46節)とあります。
神さまは、私たち一人一人の尊さを教えてくださっています。
皆さまの横に座っている人も尊いんです。イエス様は、自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。とおっしゃっています。これは“買い戻せない”ということです。“あなたの力では買い戻せない”という意味です。
では、私たちは終わってしまう存在なのでしょうか?消えてしまうような存在なのでしょうか?そうではないんですね。聖書は、私たちを買い戻してくださった、つまり、私たちが永遠の命に生きることができるように買い戻してくださった一人の方を教えています。それが、イエス様です。聖書は、私たちはもともと神さまに永遠に生きるように造られたと教えています。
しかし、罪が私たちに入り込んだ時に、私たちは、土に返るものとなってしまったと教えています。その私たちの「死」という定めから、イエス様は解放してくださいました。「買い戻す」という言葉は、聖書では重要な言葉でして、「贖う」とも言い換えることができる言葉です。「贖う」というのは、単に「救出」するという意味に限らず、「解放する」、「買い取る」あるいは「身の代金を払って身受けする」という意味を持っています。イエス様は、十字架で苦しみ罰を受けられることで、私たちの罪を全て背負ってくださいました。私たちがどれだけ罪を犯しても、私たちを神の前に罪人に定めるものはありません。私たちの罪状書きは、私たちの名前ではなくてイエス様の名前に変わっています。そして、その罪状書きによる償いをイエス様は十字架で引き受けてくださいました。悪魔がどれだけ私たちを誘い、罪を犯させたとしても、悪魔は私たちを捕らえることができなくなったのです。イエス様は、ご自身の尊い血を流されることで、私たちを罪の縄目から解き放ってくださいました。
私たちをそれだけ価値のあるものとして見てくださっている、扱ってくださっているということです。さて、イエス様は、今日の聖書箇所でこうおっしゃっています。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マタイによる福音書8章34節~38節)まず、このイエス様の言葉は、当時の人たち、目の前にイエス様を見ている人々にお語りになった言葉であるということを踏まえて欲しいと思います。つまり、まだ、イエス様の十字架に架かられた死と復活を見たわけでもなく、また、イエス様の言葉にある、その霊的な意味を知らない人たちに語られているのです。当時の人たちにとって「十字架を背負って従いなさい」というのは、抽象的な意味ではなくて、今の私たちよりリアルに聞こえています。
当時の十字架刑というのは、ローマ帝国による残酷な処刑方法でした。
いきなり十字架で処刑されるのではなくて、十字架の横木を背負わさられ、処刑場所まで持って歩かされました。十字架を背負って歩かされている人の姿は、人々の目には、みじめで悲惨な姿にしか映りませんでした。
それを見世物にされました。また、それを見ている人たちの中にはあざける人たちが沢山いました。ですので、イエス様のこの言葉を聞いた人の中には、“そんな道を歩みたくない”とイエス様に躓く人も多くいたと思います。
それでも、イエス様と一緒に歩んだ人たちが本当の弟子達となってきました。
イエス様が昇天された後も、弟子たちは命がけで福音を宣教しました。
続く時代の人たちも迫害されながらも命がけで福音を宣教し続けました。
そうして、世界に福音が広がっていったのでした。では、今の時代に生きる私たちはどうでしょうか。どうすればよいのでしょうか。十字架刑のない、ある意味平和な時代に生きる私たちは、イエス様のこの言葉をどう受け止めていけばよいでしょうか。聖書にこういう言葉があります。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(コリントの信徒への手紙Ⅰ6章20節)私たちは、確かに、イエス様の贖いによって(つまりイエス様が命を買い戻してくださったことによって)永遠の命を頂くことができました。私たちは死んで終わりません。復活します。
また、私たちは、罪から完全に自由にされています。しかし、そのために、その救いを与えるためにイエス様は人となり、十字架で肉を裂かれ、血を流され、命を捧げてくださいました。このことを忘れてはならないと、自分の生き方を通して神の愛を表しなさい・・・そう言っています。イエス様は救われた私たちに「わたしに従って来なさい」とおっしゃっています。家でずっと平穏平和にしていなさいとおっしゃっていません。イエス様から新しい命を受け取った人は、じっとしていることはできないのです。イエス様の歩み方と同じ様にして歩むようになります。それが、命ある生き方だと聖書は教えています。
もし、「自由に生きる」ことを「好きなように、つまり“我がまま”に生きる」ことだと誤解するならば、その人の周りに何も良い実りはもたらされません。
誰も、その人に魅力を感じないでしょうね。神さまもその生き方に魅力を感じることはないでしょう。しかし、人が「愛」に生きるならば、それは、周りに良い実りを沢山もたらせることができます。これこそ「自由」に生きることなんです。「自由に生きる」とは「愛に生きる」ことです。
イエス様は、尊いご自身の命を対価として、みなさまを買い戻してくださいました。このことを忘れないでください。イエス様はお金を支払われたのではありません。ご自身の命を代価として差し出されたのです。
それほどに、「あなたは高価で尊い」とおっしゃってくださっているのです。この後、聖餐式を行います。旧約聖書では、動物が犠牲として捧げられたあと、その犠牲となった命に感謝して、また、犠牲によって、神さまとの関係が回復されたことに感謝をして、その犠牲になった動物の肉を家族で食していました。聖餐式では、イエス様の十字架の贖いを覚えてパンとぶどう酒を頂きます。
私たちは、聖餐式の時に、“アグヌスデイ”という歌を歌いますが、アグヌスデイというのは“神の小羊”という意味です。愛ゆえに喜んで神の小羊となってくださったイエス様を覚えて、アグヌスデイを感謝し世にそのことを伝えるように歌っていただければと思います。
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