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おはようございます。
幼い頃に、親から『あなたは橋の下で拾ってきた子だ』と言われた記憶ありますか?私は、親から言われた記憶はないのですが、兄弟同士でこのフレーズを言い合ったような気がします。『あなたは橋の下で拾ってきた子だ』という言葉は昭和の時代によくあった言い方らしいです。しつけ目的なのか、ブラックユーモアなのかよく分かりませんが、子供によっては何かしらの影響を受けたようです。勿論、子供の言葉も時に親の心に刺さります。しみじみと、『もっとお金持ちの家に生まれたかった』って言われたら、結構凹みますよね。勿論、言い方にもよりますが、実際に親も「貧しいな」って感じる生活をしていると、『もっとお金持ちの家に生まれたかったなぁ』と言われると凹みます。でも、実際は、子が親に言う言葉より、親が子に使う言葉の方が、子供の心に残りやすいんだそうです。子から親への言葉は気持ちで処理できますが、親から子への言葉は、子供の深層心理の中に入り込んでいくようです。
ただ、残念なことに、親は気づかず、子供の「自己肯定感」を低くしてしまう言葉を良く使ってしまうそうです。先日のパリ・オリンピックで金メダルを取った選手に対して、芸能界の大物のタレントが「トドみたい」って言った言葉が炎上していました。ご存じですか?他の芸人の人は、かばおうとして「言い方に『愛情を感じる』」ってコメントしていましたが、それは違うと思います。愛情があればどんな言い方をしてもいいと思っているところに、そもそもの間違いがあると思います。親が子供に「あなたはダメな子」という時、もしくはそれに近い事を表現し続けると、子供の記憶ではなくて、心に残るようになります。そして、子供が親から叱られてばかりいたり、躾が厳しすぎたりすると「自己肯定感」が低くなり「自分はダメな子」と思うようになり「ダメな子であってはいけない」「良い人にならなければ」と思ってしまうそうです。
で、これは、私も知ってびっくりしているのですが、「自己肯定感」は色々なところで、私たちの生き方、考え方、人との関係の持ち方など、色々な所に現れているそうです。私たちの記憶に残らないレベルで形成された「自己肯定感」が今日の私の生き方、考え方、人との関係に影響を及ぼしているってびっくりしませんか?もちろん、「自己肯定感」は親の影響だけではなく、自分自身の生まれ持った考え方や、幼い頃の色々な環境、状況によっても形成されるのですが「自己肯定感」って意識しづらいのですが、私たちが生きる上で重要な要素だという事です。でも、よくよく考えると、聖書は「罪人」と言う言葉をよく使いますね。これは私たちの「自己肯定感」を低める言葉でしょうか。聖書は、私たちに「あなたはダメな人間だ」ということを言っているのではないんですね。そうでなければ、イエス様のもとに、徴税人や罪人と呼ばれる人が沢山集まってくるはずがないんですね。でも、なぜ、「あなたは罪人」だと言われてもイエス様のもとに人はやってくるのでしょうか?それは、愛と慈しみに満ちた神さまの口から出てくる言葉だからだと思います。
今日、共に賛美しました教会賛美歌294番に次のような歌詞があります。「恵みふかきみ声もてイエスは呼びたもう。「われに来よ」と今もなお、われを待ちたもう。来よ、来よ、来よ、われにとく来よ。疲れはてし罪人よ、われにとく来よ。」不思議ですよね、「罪人よ」とおっしゃるんですが、そこに羊飼いが羊を呼び集めるかのような、暖かさを感じるんですよね。
でも、このイエス様の恵み深き御声は、ある人達には届きません。
それが誰なのか・・・そのことを教えているのが今日の聖書箇所です。
今日の聖書箇所ですが、シチュエーションとしては、弟子たちが食事をしている時の話です。ファリサイ派や律法学者の人たちが弟子たちが食事をする様子を見ると、彼らが手を洗わずに食事をしていたので非難しました。これは、私たちが日常行う“食事の前に手を洗いましょう”というのとは違うんですね。私たちが手を洗う理由は、黴菌です。コロナ禍の時を思い起こすと、みんな外から帰って来た時には、手を消毒し、うがいをしていましたよね。
これは原因がウイルスです。ファリサイ派や律法学者の人達は、そういった、黴菌やウイルスから身を守るために、帰宅時や食事をする前に手を洗っていたのではありません。宗教的な“汚れ”から身を守るために儀式として、手や体を洗っていたのでした。マルコによる福音書にこう書いてあります。
ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。(マルコによる福音書7章3節~4節)聖書には、例えば、「安息日を覚えてこれを聖としなさい」という戒めがありますが、実際に「どうすればいいのか」「何をしてはダメなのか」?という事が細かく書いているわけではありません。でも、守らないと死刑に処せられるというのですから、厳密に知りたくなるのが心情です。すると、そこに賢人と呼ばれる、ラビ(先生)の中でもみんなが一目おくラビが出てきます。すると、実際にこういうことをしてはいけない。こういうことをしなければならない。という具体的な基準が出来あがってくるわけです。これが、『昔から受け継いで固く守っていること』になります。ただし、それが、聖書に継ぐ霊的な言葉となっていることが問題なのです。例え、霊的で賢いラビ達が言った言葉であっても、聖書以外に神の言葉と並ぶ教えがあるというのは問題になってくると思います。
ただ、宗教が国を統治する宗教となっている場合は別になります。
どうしても、法律に施行規則、施行細則というのがあるように、聖書の戒めにおいても、具体的な解釈が必要になってくる場合があるからです。
でも、人間の考えることですから曲がってしまうことあるんですね。
それが、イエス様の時代、具体的に大事にしていたやり方が、聖書の教えから離れてしまっていたというのが今日の聖書箇所で言っていることです。旧約聖書では“汚れ”という言葉がよく使われています。病気や死んだ人の体や血などに触れることも“汚れ”に値することが多くありました。
そうなると、“汚れ”たままでいたくないので儀式的な洗いが必要になってくるかと思います。彼らは、なぜ、手を洗い、身体を洗っていたのかも言いますと、「外で“汚れた人”と触れたかも知れない、もしくは、“汚れた人”が触ったものに、知らずに触れたかも知れない」という理由からなのです。
でも、どうして、食事をする前に、手や身を清めてからでないと食事をしないのでしょうか。恐らく、“汚れ”を食卓に持ち込みたくないという理由だと思います。持ち込んだ“汚れ”が自分の体の中に入ることで、内側から“汚れる”ことのないようにするためだった思います(勿論、理由は聖書には書かれていません)。しかし、ここに大きな間違いが、彼らの中にありました。
イエス様は人々に向かってこうおっしゃっています。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコによる福音書7章14節~15節)イエス様のおっしゃることは、分かりやすいと思います。内側のあなた自身に目を向けなさいということです。
イエス様はこうおっしゃっています。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコによる福音書7章20節~23節)私たちの中には原罪というものがあって、これが原因で、心から良くない思いが湧き上がってきます。それが時に行動になって顕われてきます。私たちは罪を犯すから罪人なのではなくて、罪人だから罪を犯すのです。彼らは一生懸命、手や体や杯や寝台まで洗っていました。
それは、“汚れた人”になりたくないからです。でも、イエス様は、「外側を洗うことでは、あなたは清くなりません。」とおっしゃるんです。
そうではなくて、内側に目を向けなさい(そうすれば罪人であることが判ります)とおっしゃるのでした。なぜなら、イエス様は内側から私たちを清めるために、人となり、十字架に架かられたからです。聖書は、「義しい人は一人もいない」「善を行う者はいない、ひとりもいない」と言っています。
これは、私たちの「自己肯定感」を低めるために神さまが言っておられるのではないんですね。最初に、「あなたは橋の下で拾ってきた子なの」という言い回しのことをお話ししましたが、でもどうでしょうか、例えそれが事実であったとしても、「でも、あなたが私の子供であることがとても嬉しいの」って親が本当にそう思っていたら嬉しいのではないでしょうか。
聖書は、「あなたは罪人です」と教えていますが、「そのあなたが私の目にとても高価で尊いので、わたしは、自分の命を犠牲にしてでも、あなたを救おうと計画したのです」と神さまはおっしゃっているのです。
そして、イエス様は、あの十字架の姿を通して、「あなたは私の目に高価で尊いのです」とお示しになってくださったのです。贈り物は贈り物だと分かった時に、贈り物となります。それまでは当然のように受け取るだけで終わっています。神さまの贈り物(つまり一方的な愛)は、それが、この私の為だったと分かった時に、本当の贈り物になるのです。聖書は、「あなたは罪人です」と言います。私たちの内に「善を行う力は全くない」と言っています。
でも、聖書は、そのために、イエス・キリストが十字架に架かり、罪の赦しを与え、そして、将来、もとの私、愛に生きる私に戻してくれるそう約束してくださっているのです。今日お読みしました、ヤコブの手紙にこう書いてあります。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。(ヤコブの手紙1章17節~18節)イエス様は天から降って来てくださいました。それは、私たちの心の内側を清めるためです。イエス様は、私たちの内側から変えてくださいます。ファリサイ派や律法学者の人たちはイエス様の贈り物を受け入れることができませんでした。なぜなら、彼らは、自分は正しいと思っている“偽善者”だったからです。“偽善者”と訳されている単語は“役者”のような意味があるそうです。つまり、“偽善者”とは心から善を行っているのではなくて「善い人」、「義しい人」を演じているに過ぎない者という意味となります。イエス様は天からの良い贈り物、完全な贈り物です。
それは、罪人の心に入り込み、内側を清め、造り主である神さまの愛を心の中に届けます。そして、本当の意味で愛を実践する人へと変わっていきます。
義人は一人もいません。だから、安心して、罪人だって思いましょう。
一部の人だけが罪人なのではありません。そして、イエス様の罪の赦しを受け取ってください。すると、神の力によって善を行う人へと変えられて行きます。本当の善いことを行う人へと変わっていきます。
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