宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書6章56節~69節
ヨシュア記24章1節~2a節  14節~18節
エフェソへの信徒への手紙6章10節~20節

 「最後まで」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。

皆さま“蛙化現象”って聞いたことありますか?あのゲロゲロって鳴く蛙です。勿論、人が蛙のようになってしまうことではありません。“蛙化現象”というのは、「片思いの時は相手に夢中だったのに、 相手が好意を示すようになると、急に、相手のことが気持ち悪くなったり、興味を持てなくなる」という心の変化のことです。これは、心理学的にもとても興味深い現象なのですが、現在、使われている“蛙化現象”という言葉は、ニュアンスが大分変ってしまって「好きな人の嫌な面を見て幻滅してしまう」という簡単な意味にもなっています。例えば、好きな人と一緒に食事をしていたときに、食べ方が汚かったりすると、「もう無理」って簡単に嫌いになってしまう・・・そのような感じです。

気持ちは判りますが、ちょっと、身勝手な“無責任”って感じもします。

さて、本日の聖書箇所ですが、イエス様の周りに集まって来ている人に起こっている“蛙化現象”みたいな話になってきています。イエス様は、ある時、ご自身のもとに集まって来た大勢の群衆をみて「羊飼いのいない羊のようだ」と心を痛められました。そして、ご自身こそ羊飼いであることを示そうと“5つのパンと2匹の魚”を用いて全ての人のお腹を満たしてあげたんですね。

こうしてイエス様はご自身が、肉的にも霊的にも人々の命の源である天から遣わされた救い主であることを人々にお示しになったんです。

この奇跡を見聞きした多くの人たちがイエス様を知る処となります。

勿論、その後、沢山の人がイエス様のところに集まって来ました。

でも、どうやら、彼らが期待していたのは、この世的なパンを与える力ある人、つまり、政治的な意味で、力ある「王」だったようです。

ここに理想と現実とのギャップがありました。イエス様がカファルナウムにある会堂で安息日にお話しされているときのことですが、「わたしは天から降って来たパンである」とおっしゃると、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」とつぶやき、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」という風に、神学的にとても大事なことをおっしゃると、「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか。」とぶつぶつ言い始めました。

そして、なんと、イエス様を信じていた人達が“イエス様の処を去って行って、共に歩まなくなった”のでした。“イエス様の処を去って行って共に歩まなくなった・・・”とても悲しい言葉です。キリスト教会でも、洗礼を受けたけれども教会を去っていく人って多いんですね。ただ教会を去っていくのでしたらいいのですが・・・、つまり他の教会を探すのでしたらよいのですが、“イエス様と共に歩まなくなる人”が多いんです。私が神学生の時に、学生室においてあったキリスト教会関係の新聞を読んでいた時に、同じようなことが書いてありました。その新聞には、洗礼を受けて教会員になっても、3年、6年経つと学校を卒業していく学生のように教会を離れていく人が多いと書いてありました。この前、ある牧師先生がおっしゃっていたのですが、洗礼を授けて、しばらくして教会に来なくなった信徒の家を訪問したら「もう大丈夫ですから」っておっしゃったそうです。何が大丈夫だとおっしゃるのでしょうね。私が思うのには、多くの場合は、期待していたものと違った・・・ということではないかと思います。信じてもこの程度のものかという早計な判断からくるのだと思います。

でも、神さまのくださる祝福ってそんなものではないんですよね。

さて、イエス様の周りから離れていく弟子達が沢山いたのですが、イエス様は、十二弟子にこうおっしゃいました。「あなたがたも離れて行きたいか」

そのイエス様の質問にシモン・ペトロはこう答えます。

「主よ、私たちは誰の処へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」ペトロの言葉は、イエス・キリストが“自分の理想の人物”、“自分の期待通りの人”かどうかではなくて、“あなたの中に永遠の命がある”その確信を持っていますという、素晴らしい告白です。勿論、まだ永遠の命や祝福などは確認していません。でも、わたしがどう今感じるのかではなくてわたしを満足させるかではなくて「あなたは誰なのか」ということを中心にした生き方を示した信仰なんです。最初に、「蛙化現象」の話をしましたが、ある方がそのことに関連して“恋”と“愛”の話をしておられました。

“恋”も“愛”も相手に対して持つ好意的な感情なのですが、恋と愛は違うんですね。“恋”は一時的なもので不安定な感情ですが、“愛”は永続的な安定的な感情です。“恋”は自己中心的で自分の理想や欲望が支配していますが、“愛”は、相手中心で、相手の幸福や成長を願う気持ちが強く、自己犠牲や無条件の思いやりが含まれます。“恋”は相手の行動や気持ちに対して敏感になりますが、「愛」は信頼を伴い相手との関係において安定感を持ちます。

そう考えると、例えば、夫婦というのも、“恋”のようなものから始まり、年を重ねると信頼関係の愛へと変わっていくものだと思います。

勿論、“恋”が信頼関係の愛に変わるまでには、色々な処を各自が、また、一緒に通っていく必要があるかと思います。でも、それが、信頼関係の愛を作り上げていくために必要なのだと思います。最後まで耐え忍ぶ必要があります。神さまに対する信仰も、色々な試練を通して深まり、そして、神さまの本当の愛、また祝福が分かるようになります。また、神さまへの信頼も本物へと変わっていきます。そのような意味で、信仰を深めるためには、自分の感情を中心とするのではなくて、ペトロが言った言葉のように「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。

あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」という信仰告白をいつも心に持っている必要があるのだと思います。

申命記5章9節~10節に「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」とあります。これは、神さまに従う人と、違う神さまを信じる人がどう変わっていくのかを教えているみ言葉です。やはり、クリスチャンの方で、どんなところを通ろうとも最後まで信仰を持ち続けて神さまを第一とする人は、その人だけではなく、その方の家族も祝福されているなぁって感じることが多くあります。今日、お読みした、エフェソの信徒への手紙でパウロは、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(6章11節)と言っています。それは、私たちから信仰を奪おうとする力は、霊的なものであり、闇の世界の支配者である悪の諸霊を相手にしているからだというのです(6章2節)。イエス様は、断食された後、荒野で誘惑を受けられました。

その時、悪魔が言って来た言葉は、まず、「石をパンに変えたらどうだ」という誘惑でした。パンがないなら自分の力で石をパンに変えたらそれで済むじゃないかという誘惑です。これは、私たちの視点で考えると、神さまを信じて何か得していますか?やっぱり、生きていくのは自分の力でしょ?という誘惑に近いと思います。自分の力で生きて行こうと思わせる誘惑です。

次の悪魔の誘惑は、高いところから飛び降りて見たらどうだ?という誘惑でした。勿論、高いところから飛び降りても普通の人と同じ結果になります。

でもこれは、見方を変えれば、「ね、神さまは信じているあなたを特別扱いしていないよね」って思わせるものだと思います。悪魔の三つ目の誘惑は簡単です。神さまの祝福よりこの世的な満足が最高だよね。私を拝むなら、富の権力もお前にあげようっていう誘惑です。これは、本当に人間の欲望を逆手にとって誘惑です。勿論、どんなことがあっても、先ほどの申命記の言葉にあるように、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」という祝福を期待し信じるという生き方が大事だということです。

神さまは何もしてくれなかった。自分の力で生きて行こう。

私のために何もしてくれない。やっぱりこの世的な快楽を求めて生きて行こう。

そのような思いというのは、信仰を持って何年かすると必ずと言って良いほど起こることなんですね。でも、そう言った思いは、自分が導き出して結論のようで、実は、エバを誘惑した蛇のように、悪魔がうまく誘惑してイエス様から引き離そうとしたことによる結果なんです。ですので、パウロは、これは、悪の諸霊を相手にしているので、自分の力ではなくて、神の武具を身に付けて戦わないとだめですよ。と教えているんですよね。実際にイエス様も悪魔の誘惑には神の武具で戦われました。神さまは、ご自身を愛し、ご自身の戒めを大事にして生きる人を祝福してくださる神さまです。この祝福は個人に留まらず、家族、子孫、また、周りの人にまで及ぶ祝福なんです。

時に試練が起こるかも知れません。でも、それは、必ず形を変えて、良い実りをもたらし、自分の家族、子孫、また、周りの人の恵みとなっていきます。

さて、多くの弟子が去って行くことになった(理解できなかった)天からの祝福、それは、イエス様ご自身と“一つとなる”という霊的な最高の贈り物である命の糧です。イエス様はそれを「これは(わたしは)天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。

このパンを食べる者は永遠に生きる。」とおっしゃり、それを聖餐式を通して私たちにお与えになろうとされているのです。信仰が無ければ救われません。

同じように、パンとぶどう酒に対しても、イエス様の言葉をそのまま受けとる信仰がなければ、聖餐式を通して与えたいと思っておられるイエス様の恵み(祝福)は残念ながら、受けとることができません。人の心は移り変わるものです。悪魔は何とかして神の祝福から私たちを引き離そうとします。

最初に得た確信を最後までしっかりと保ち続けなさいと聖書は言っています。「主よ、私たちは誰の処へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」神さまの私たちへの思いは最初から「愛」です。神さまは決して「もう無理」とおっしゃるような移り変わる心を持った方ではありません。

私たちがどんな姿であっても、祝福したいと願っておられるお方です。

み言葉を通し、また、聖餐式を通して、神さまは私たちに力を与えてくださっています。この力は、祝福へと変わります。

どんなことがあっても最後までイエス様から離れないでください。