宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書6章51節~58節
箴言9章1節~6節
エフェソへの信徒への手紙5章15節~20節


 「神の霊が私の中に宿る」

説教者  江利口 功 牧師

   

 おはようございます。

この時期に買い物に行きますと、お寿司やお刺身コーナーはいつもよりいっぱい並べられていますよね。しかも、大きなパックが多く並んでいる気がします。先週、スーパーに買い物にいったのですが、気のせいかも知れませんが、普段より多くのご年配の方々が、買い物カゴいっぱいに買い物をしておられました。お孫さんが帰って来るんだろうなぁ・・・そんな風に見ていました。

食事の意味って、単なる、栄養補給だけではないと思います。

例えば、家族や友人と一緒に食事をすることで、心も満たされますし、また、お互いの絆も深まるかと思います。そしてさらに、その食卓に、美味しい料理や、美味しいお酒が並ぶと、また会話も弾みます。

そして、お互いの関係性も深まっていくと思います。

美味しい料理や、美味しいお酒、大事ですよね。私が小学生の頃、お盆やお正月になると、おじいちゃんが、みんなが帰ってくるからと、少し遠くのお魚屋さん(今でいうなら、専門店ですね)に、わざわざ自転車で出かけて行って、活け造りのようなお刺身を沢山買いに行ってくれていたのを覚えています。

みんなが集まる時に、美味しい料理やお酒を準備するのは、“久しぶりに会えるから嬉しい”という気持ちからだと思いますが、それだけでなく、“食卓が楽しい会話でいっぱいになって欲しい”、そんな願いもあってのことなんだろうなって思います。食事をしている時に見られる笑顔って本当にいいですよね。ちなみに、私は、このお盆の期間は、家族が実家に帰っていたこともあり、数日間、一人で食べていました。(;^_^A

ところで、殆どの日本人は、食事をする時に「いただきます」と言いますよね。これはありがたく頂戴するという、へりくだる意味と、あまり意識しないかも知れませんが、「尊い命を頂く」という思いで犠牲になった命に対して「戴きます」という思いで言っています。勿論、育ててくれた人、買ってくれた人、また、作ってくれた人に対する「感謝」の思いも込めての「戴きます」でもあります。食事というのは、単なる栄養補給に限らず、人同士のコミュニケーションの手段でもあるのですが、聖書の時代、中近東の世界では、食事を共にすることに大きな意味がありました。まず、食事を振る舞うということは、相手を大事な人であることを示す一番の表現でもありました。

聖書に次のような記事があります。それは、アブラハムのもとにみ使いが三人来た時の話です。主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。

暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」(創世記18章1節~5節) 

ここに記されているのは、大事な人に対してできる最高のもてなしは、食事を準備して、一緒に食事をするということです。

料理は客人との交わりをもつのに重要なアイテムでしたが他にもあります。

アブラハムに関してですが、さらにこういう記事もあります。

これは、アブラハムと神さまが契約する時の話ですが、こう書いてあります。アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。(創世記15章8節~10節)これは、当時の人達が契約をする時のやり方だそうです。

契約する時に動物を裂くのです。それは、“もし、あなたがこの契約を破れば、このようになりますよ”という意味があったそうです。

とはいえ、この契約の仕方、ちょっと残酷ですよね。

しかし、実は、この契約を交わしたあと、裂いた動物を一緒に食べるそうです。お互いの親密な交わりのしるしと象徴として食べていました。

ある意味、笑いながら握手をし、もう片方の手は剣を持っているという感じでしょうか。でもこれは大事な象徴的な儀式でした。日本では「杯を交わす」という言葉がありますが、これと似ていると思います。

また、日本には「同じ釜の飯を食う」という言い方をしますが、同じ食卓に並べられている食事を共にするということは、その人との関係性を現す大事な行為ですし、広い意味では、共同体に属している証でもありました。

ちなみに、教会では良く一緒に食事をしますよね。

これを“愛餐会”と呼びます。これもまた、旧約時代のなごりをもっている共同体の食事です。これまで、食事についてお話ししてきました。

食事は、単なる栄養補給ではなく人同士の大切な交わりの手段です。

また、絆を深めるための手段です。さらに、招く時も、相手を大切な人としてもてなす思いが込めてもてなすことで、関係を作り上げたり、回復したりもします。また、共同体であるということを示す要素になることもあります。

これらの要素全てが、私たちが礼拝で戴いている聖餐式に込められているんですね。勿論、招いてくださっている方、準備してくださっているは方は神さまです。神さまは、私たちと交わりを持つために、パンとぶどう酒をご準備くださり、ここで交わりを持とうとされています。これが礼拝です。

そして、この聖餐式の食事は、“神さまとの関係性を深める食事”であり、また、罪人である私たちを招くことで“関係性をあらたにする食事”です。

そして、最も大事なのは、キリストの犠牲を伴った私たちへの愛が現されている食事です。聖餐式のことを「ユーカリスト」とも言います。

これは「感謝」という意味ですが、生きた神さまが、私たちのためにもてなしをしてくださっていること、これは本当にありえないことで感謝してもしきれないことだと思います。でも、「感謝」の意味はそれだけではないのですね。

今日のイエス様の言葉からわかること・・・。それは、パンとぶどう酒を通して、イエス様ご自身を頂いているということなのです。

永遠の命となる糧をこの聖餐式を通して頂いているのです。

今日の聖書箇所でイエス様はこうおっしゃっています。

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネによる福音書6章51節)

イエス様が命のパンである。ということは、簡単に言えば「日々食しなさい」ということですよね。「日々食する」というのは旧約聖書の時代では食べ物に限らず「聖書のみ言葉、いわゆる神の口から出る生きた言葉」を内に戴くことでした。でも聖書は、その神の言葉が、人が見えるように“人となった”のがイエス・キリストであると言い、イエス様ご自身は、「私を食しなさい」とおっしゃるのです。さらには、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネによる福音書6章54節)と約束してくださっています。これは、人が考え出したものではありません。神さまがご用意されたのです。さすがに、このイエス様の言葉にユダヤ人はびっくりしました。この言葉は、イエス様が会堂でお話しになったのですが「天から降って来た」という言葉に対しては「ヨセフの息子なのに何を言っているのか」と思いました。また、肉を食べ、血を飲めという言葉に対しては、ありえないと多くの人がつまづいたんですね。

勿論、イエス様は、その通りにしなさいとおっしゃっているのではありません。実際にイエス様はご自身の血を飲ませたり、肉を裂いて人に与えたりしていません。イエス様は後に定められた聖餐式に秘められた神秘をお語りになっておられたのでした。イエス様のおっしゃる「食べなさい」という言葉は、「信仰」を「食べる」という言葉に言い換えたものではありません。「食べる」ということは、イエス様と人格的に「交わる」ことであり、イエス様を内に受け入れ「一つとなる」ということです。イエス様は、こうおっしゃっています。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。(ヨハネによる福音書6章56節)「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」神秘的な言葉ですよね。パウロも同じことをローマの信徒への手紙で言っています。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。(ローマの信徒への手紙8章9節~10節)私たちは洗礼によって、罪の赦しを頂き、キリストの聖なる食卓に相応しい人に聖められます。そして、聖餐式を通して、私たちはいつもキリストの命を頂き、キリストの霊(神の霊)がいつも内にいきいきと宿るように整えていくのです。イエス様は、公生涯の間、多くの人と食事を共になさっていました。取税人とも食事を共になさいましたし、ファリサイ派の人にも招かれて食事を共にされました。勿論、弟子たちとも食事をなさっていました。

イエス様にとって、食卓を共にするというのは、教えることでもありました。イエス様は神の国について多くお語りになっていました。

そして、最後の夜、イエス様は、弟子たちと共に過ぎ越しの食事をおとりになり、これを続けていくようにと聖餐式をお定めになりました。

食事の後、イエス様は捕らえられ、十字架で死なれ、私たちの全ての罪の赦しを与えてくださいました。そして、墓に葬られましたが、三日目に復活なさいました。聖書によると、イエス様は、復活した後も、弟子たちと食事を共にされています。そう考えると、イエス様は、公生涯を歩み始められてからずっと、人と食事を共にすることを大事にしておられます。

そしてその食卓で神の国について大事なことを語り続けておられます。

そして、今日も、イエス様は、この聖餐式を通して食卓を共にしてくださっています。もちろん、ここに準備されているものは、霊的なパンとぶどう酒です。確かに、聖餐式で私たちの目の前にあるのは、パンとぶどう酒でしかありません。しかし、ここにイエス様の言葉が添えられ、その言葉を信じて信仰によって見る時に、パンとぶどう酒は、命のパンと罪のゆるしの杯となり、それは、イエス様のからだと血であるわけです。この前、ある方から桃を頂きました。桃ってこんなに甘くておいしいの!って驚きました(皆さまにおねだりしているのではありません)。果物って人に喜びを与える力がありますよね。

聖書は、信仰に生きる人から生じる実り(霊の実)について教えています。

それは、他の人に良い影響を与える霊の結ぶ実です。喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。私はそういった愛は、絞り出すのではなくて、神の霊が内に宿ることによって生じる実りだと思っています。

聖書は、正しい生き方、愛ある生き方を教えていますが、やはり、私たちの頑張りではなくて、内側から自然に生じてくる実りだと思います。

イエス様は命の木です。その命の木から取って食べる時に、私たちの内にある「愛の木」が成長し、愛の実がなるのだと思います。

これから聖餐式を行いますが、イエス様は、この聖餐式での交わりを大事にしてくださっているということ。また、命の糧を私たちがなぜ必要としているのかを考えながら、聖餐の恵みに与って欲しいと思います。