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おはようございます。
ちょっと、想像してください。皆さまが家にいると、ピンポーンとチャイムがなります。誰だろう?と思って、インターホンのモニターを見ると、そこに映っているのは、“ずっと食べていないような人”です。
ちょっと困惑するかも知れません。でも多分、皆さまは、こう尋ねるでしょうね。「はい?何でしょうか?」って。でも、その人が何を望んでいるのか大体判ります。食べるものですよね。しかし、そこで、その人がこう言ったらどうでしょうか?「わたしはあなたに必要な食べ物を持っています」
一瞬「何のことかな?」って思うかも知れませんが、大体、心の中に浮かんで来るのは、こんな思いではないでしょうか。あなた、食べ物、何も持ってないじゃないですか。食べ物が欲しくて来たんでしょ?何を与えるというのですか?まあ、誰だって、そのような人を見たら、そう思いますよね。
でも、その人が言っていることが真実だとすれば、どうでしょうか?
「わたしはあなたに必要な食べ物を持っています」という言葉が本当の事だったら・・・私たちはその人に扉を開く必要がありますよね。
聖書のヨハネによる福音書4章に次のような話があります。
ある時、イエス様はサマリアという村を通って行かれました。
その時、イエス様は、井戸を見つけてそこで休まれます。
すると、そこに一人のサマリア人の女性がやってきます。
イエス様は、彼女に「水を飲ませてください」とお願いします。
すると、その女性は、最初、「なぜ、ユダヤ人であるあなたがサマリア人である私に声をかけるのですか?」と尋ねてきます。ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かったからです。実は、イエス様は、水が欲しかったのではなくて、彼女に命を与えようとされたんですね。イエス様は、こうおっしゃいました。
あなたが、私が誰なのか(つまり、神さまが賜った独り子であることを)知っていたら・・・さらに、私があなたに何を与えることができるのかを知っていたら、あなたの方から「それをください」って言うでしょう。
そして、あなたは“この井戸の水とは違い”「生きた水」を手に入れることができるのです。そんな風におっしゃいました。先ほどのピンポーンを鳴らした人の話ではありませんが、「あなたに必要な水をわたしは持っています」
そんな風に彼女にいったんですね。このイエス様の言葉をまだ理解しきっていない彼女はこう言います。「主よ、あなたは汲むものをお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」
(ヨハネによる福音書4章11節)彼女の思いはこうです。
「喉が渇いているのはあなたですよね?水を与えるって言っても、あなたは、井戸から汲むものを持っていないじゃないですか?だから、私に水を飲ませてくださいって言っているのでしょ?どうやって、私にそのような水を与えることはできるというのですか?」という感じです。すると、イエス様はこうおっしゃいます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に私たちが摂取している水は、何度飲んでも、時間がたてば、また、渇き始めます。イエス様は、そのような水を与えようとしているのではありません。イエス様が与えようとしているものは、魂の飢え渇きを満たす水。
(私たちの内側から霊的に働いてくる水)です。
イエス様を受け入れる人、つまり、イエス様を信じる人は、肉体的な喉の渇きが癒されるのではなく、永遠に魂の潤いを持つ人へと変えられていくのです。さて、ぼや~っとですが、イエス様のおっしゃることが判りはじめた彼女は、イエス様にこう言うんです。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネによる福音書4章15節)イエス様を受け入れた彼女、心を開いた彼女は、この後、イエス様との会話を通して、信仰者へと変えられて行き、彼女の人生はこの時から大きく変わっていきます。彼女は、「生きた水」を手に入れたのです。
彼女は渇きを覚えていました。それは、喉の渇きではなく、霊的な渇きだったのです。しかし、イエス様を信じることによって、その渇きが(彼女が気づかないところで)癒されていくのでした。さて、この井戸端での話は、“人の渇き”に対して“生きた水”がポイントとなっていたのですが、今日の聖書箇所は、“空腹”に対する“命のパン”がポイントになってきます。
今日の話は、イエス様が5千人もの人に、有り余るほどパンをお与えになった奇跡の後の出来事です。(先週の聖書箇所)人々は、イエス様の奇跡を知って、イエス様を追って周りに集まってくるのですが、その人たちを見て、イエス様は、大事なことをおっしゃいました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネによる福音書6章26節~27節:抜粋)イエス様がおっしゃりたいのは、「あなたがたは“生活の糧”であなたを満たす者だと思って私のもとに来ているが、あなたがたにとって本当に必要なのは、“生活の糧(肉的な満足)”ではなくて“命の糧(霊的な命)”なんです。」そうおっしゃっているのです。そして、その糧を神は天から与えようとしてくださっていると言うと、彼らは、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」とイエス様に願いました。その言葉を受けて、イエス様はこうおっしゃいます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネによる福音書6章35節)イエス様を信じ、イエス様を心に迎え入れる人は、その人の内側で永遠の命が芽生えるということです。そして、心と魂が満たされた人は、命に満足し、愛に生きる人、隣人を助ける人へと変えられて行きます。
内側が満たされていないと、真のよい行いは出てきません。
でも、私たちの多くは、霊的な飢え渇きに鈍感になっています。
ポイントは、イエス様は、生活の糧ではなくて、命の糧を切に与えたいと願っておられることを知ることです。宗教画の一つに、イエス様が扉を叩いている絵があります。何人かの人が黙示録のある一節を描いています。
そのみ言葉は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3章20節)というみ言葉です。その絵の特徴は、イエス様が叩く扉に取っ手がついていないということです。取っ手は内側にだけついています。その人が、戸を開けてイエス様を招き入れないとイエス様は入っていけません。本人の気づきによらなければ、決して外から与えられないものってあるんですね。そういうものって、人を幸せにするものが多いです。神さまの贈り物も同じで、その贈り物に気づいて「それを私にください」と願って、手を差し伸べないとその人のものにならないのです。見方を変えれば、そのように心を開いて切に願うと私たちは変えられていくということになります。ここで、注意したいのは、扉を叩くイエス様の絵、つまり、黙示録の御言葉は、未信者の方に対して語られているみ言葉ではないということです。イエス様を信じる人たちに語られている言葉なんです。
サマリアの女性は、「この井戸はヤコブの時代からある井戸で私たち祖先もみなこの井戸の水で潤してきました。」と言いました。
それに対して、イエス様は、「これを飲むものはまた渇く」とおっしゃいました。今日の話では、ユダヤ人は、「私たちの祖先はモーセを通して荒野でマナを与えられてきました」と言いました。神は天から糧を与えてくださるのですと言いたかったのでしょう。でも、その糧を食べても永遠に生きることはできないのです。とおっしゃるのです。ヤコブの井戸を飲んで来た祖先も、マナを食べた祖先も、みんな神さまのことを知っていたけれども、死んでしまいました。なぜなら、井戸の水もマナもこの世のものだからです。
でも、神さまは、今、本当の糧(水やパン)を与えようとしています。
「それが、わたしである」。とおっしゃっているのです。イエス様は、戸を叩き、魂の飢え渇きを覚えている人に命を与えようと近づこうとしておられます。でも、信仰者である私たちであっても「いえいえ、困っていませんよ。
十分ですよ(むしろ困っているのはあの人です)」と思っていることが多いんです。私たちは持っているようで大事なものを持っていません。
イエス様は、何も持っておられないようで、一番大事なものを豊かに持っておられます。イエス様は、それを私たちに与えたいと願っておられます。
私たちはみんな、霊的に満たされた状態になる必要があります。
イエス様は、私たちを霊的に満たしたいのです。聖書にこう書いています。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章16節)神さまの天からの最高の贈り物はイエス様ご自身だということです。私たちの罪の赦しを与えるために、命を捨てることを承知で天から降って来たのが神の独り子です。それは、聖なる命の犠牲を通して私たちに命を与えるためでした。永遠の命がどのようなものなのか・・・それは、イエス様が見せてくださいました。十字架で死なれ、墓に葬られましたが、3日目に復活してこられました。これが、永遠の命を持つ人に宿る力です。
この力が私たちの内に賜物として与えられています。今日、このあと聖餐式がありますが、差し出されたパンを見ながら「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」という今日のイエス様の言葉を思い起こしてください。
「私に必要な真の命の糧を今イエス様は、パンとぶどう酒を通して与えようとしてくださっている」と思って、信仰を持って頂いてください。
教会はイエス様の命令に従って、ずっと聖餐式を守り続けてきました。
聖餐式は、真の命の糧、恵みの糧です。教会でしか頂けません。
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