宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書6章1節~21節
列王記下4書42節~44
エフェソへの信徒への手紙3章14節~21節

 「主は私の羊飼い」

説教者  江利口 功 牧師

   

おはようございます。

みなさま良くご存じの詩編23編ですが、ここには「神さまが私たちの羊飼いである」という麗しいメッセージを伝えています。こう始まります。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。「主はあなたの羊飼いである」・・・この聖書のメッセージは、とても勇気と希望を頂ける言葉だと思います。

どんな時もこの神さまからのメッセージを忘れないで欲しいと思います。

ところで、大事なのは「羊飼いとはどのような存在」なのかということですよね。皆さまは、「羊飼いはどのような存在」だと思いますか?羊飼いは、まず、「羊を養います」。羊飼いは羊が飢えないように、適切な牧草地に連れて行き、十分な餌を与えます。また、羊が渇かないように水辺に連れて行くのも羊飼いの役割です。羊飼いはまた、羊を“危険から守ります”。狼や野犬などの肉食動物から羊を守るために常に警戒しています。昼夜問わず、羊の安全を確保するために見張ります。そして、獣がやって来た時には、羊を守るために戦います。さらには、羊が危ないところに行ってしまわないように気をかけているのも羊飼いです。他にもあります。“羊の健康を管理する”というのも羊飼いの役割です。羊の健康状態をチェックし、病気や怪我を見つけたら、治療など処置を行います。羊毛を定期的に刈るというのも健康管理の一つなのかも知れません。さらには、“繁殖の管理”というのも羊飼いの役割なのです。

健康な子羊が生まれて群れが大きくなっていくように考えて、面倒を見るというのが羊飼いの役割なのです。さらには、羊飼いは“羊を目的地へ連れて行く”役割も果たします。羊飼いは広範囲の土地の状況を知っています。

もし、現在の場所がもう牧草地として不適だと判断すれば、遠くても、羊を新しい場所へと連れて行きます。こうして見ると、羊飼いは羊の生活全般を“毎日”支える大切な役割を果たしていることがわかります。つまり、羊にとって羊飼いは欠かせない存在なのです。また、生涯、羊飼いと一緒に生きるのが羊です。羊は“良い羊飼い”が一緒だと安心して生活できます。

羊飼いは、羊の生活全てを支える欠かせない存在なのです。

イエス様は、私たちの羊飼いです。イエス様ご自身も「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃっています。このイエス様との関係性をしっかりと持つことで、私たちは、「今という時」も、「私に待っている未来のこと」も、さらに「私が見ることのない後の子孫(or霊の家族)」のことも信じて委ねることができるようになります。聖書の中で、この「羊飼いと羊の群れの姿」が色濃く現れているのが、出エジプト記の出来事です。私たちは、この出来事から多くのことを知る事ができます。イスラエルの民は「飼い主のいない羊」のようなありさまで、エジプトで奴隷として暮らしていました。その姿を見て憐れまれたのが神さまです。神さまは、イスラエルの民を救い出し、豊かな牧草地、乳と蜜の溢れる地であるカナンの地に連れて行こう(連れ戻そう)とされました。

神さまは、モーセを選び、モーセを用いて、彼らをエジプトから連れ出すのですが、その姿はまさに、「羊飼いが名を呼び、その声を聴いて羊飼いを先頭にして着いて行く羊の姿」(ヨハネによる福音書10章3節~4節)と同じでした。でも、良い事ばかりではありませんでした(私たちの人生と同じ)。

彼らは、長い期間、荒野で過ごすことになるのです。不便な生活を強いられたという感じです。好きなものを食べることはできないし、食べ物がいつもあるわけでもない、食べ物に困り、水に困るということが起こりました。

彼らは時に不平を言うのですね。「エジプトに居た方が良かった」「なんで荒れ地に連れて来たのだ」「喉が渇いた、腹が減った」そのような文句ばかり言っていました。でも、神さまは、羊飼いが羊を養うように、飢え渇くことのないように、彼らに水を与え、彼らにマナや肉の食べ物を与え、また、敵から守り、彼らを約束の地カナンに連れて行きました。そのような彼らと神さまとの関係ですが、最後、彼らが約束の地に着く時に、神さまはこうおっしゃるのですね。(実際の言葉は申命記8章2節~4節)。あなたがたは、確かに、荒野で飢え渇き、不便な生活を強いられ、かつ、危険な中で生きて来た。

でも、いつも、神であるわたしは、あなたと共にいて、あなたを守り必要を満たしてきました。そのことを忘れてはいけません。人は、自分の力ではなくて、神である私の導きと守りの中で生きているということを知らなければならなかったのです。そんな風におっしゃったのですね。イスラエルの民は約束の地に入ると、家を構えるようになります。また、仕事につき、農業をする人も出てくるでしょう。お金を蓄え、安定した暮らしを実現していくことになります。でも、忘れてはならないのは、神さまのご存在なのです。

神さまが日毎に必要なものを「考えて」「与えて」くださっているという感謝と謙遜な心だったのですね。神さまは、荒野をさまよったイスラエルの民にだけでなく、これから彼らから生まれてくる子孫たちにも、この出来事を通して、大事なことを忘れないように示してくださっていたのです。

勿論、これは、私たちにも同じです。「私たちは自分の力で生きているのではありません。神さまが全て必要なものを、わたしたち一人一人のために与えてくださっています。足りないと思うかも知れません。

しかし、神さまは必要なものを全て与えてくださっています。

ルターが書いた、小教理問答の中で、次のような箇所があります。

これは主の祈りにある、「日毎の糧を今日も与えたまえ」という願いについてですが、こう問いと答えが書かれています。問い)日毎の糧とは何ですか?

答え)それは、肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。

例えば、食物と飲み物、着物と履物、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子供、信仰深い召使い、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人などです。神さまが私たちに下さっていることはこれだけあるのですね。

さて、神さまは羊飼いのように、私たちを養ってくださっているのですが、今日の聖書箇所は特に、イエス様が、私たちの牧者である(羊飼いである)ということを強調して教えている箇所になります。今日の話ですが、イエス様を追って、多くの人が集まって来ています。癒しを必要とし、教えを必要としている人たちです。その数、なんと、男性だけで5千人もの人がいたと書かれています。ここで、イエス様は、弟子達に「より深い神の国の力」をお見せになろうとお考えになりました。イエス様はおっしゃいます。「この人たちに食べさせるにはどこでパンを買えばよいだろうか?」季節は過ぎ越し祭りの時期なので“春”です。大麦を収穫する時期です。青草も生えていて気候は良いと思います。ですが、場所が悪いのです。パンを手に入れようと思えば、足を運んで遠くに買いに行かなくてはなりません。しかも、この人数です。

フィリポは、「沢山のパンが必要ですが、そのためには、沢山のお金が必要です」と答えています。200デナリオン(100万円~150万円)あっても、“めいめい少しずつしか食べられません”。そう答えます。

アンデレは、5つのパンと2匹の魚を持っている少年を見つけます。

でも、「このパンと魚では何の役にもたたない」と言いました。

弟子達の到達した意見は、「どう考えても無理です」でした。「無理・・・」ここがポイントだったのだと思います。今日、こうして皆さまは、主のみ前に集まっておられます。どうですか?この会堂の中で、カバンに、何か食べ物が入っている方、どのくらいいますか?水筒は皆さまお持ちでしょうが、食べ物はどうでしょうか。ちなみに、私のカバンには、出先で食事がとれない時のために、プロテインバー(In Bar Protein)を何本か入れています。

夜も遅くなり、でも、ここにいなくてはならない場合、残念ながらこのプロテインバーをみんなで分けることになります。今日の聖書箇所もこのような状況です。この人数でしたら大丈夫ですが、人数がもし、100人位いたらどうでしょうか?一人の人が食べられるのは、粉々になった粉末になるでしょうね。

でも、ここにイエス様がいらっしゃったら、違うのです。

イエス様は、パンを持って来させ、パンを取り、感謝をしてパンを裂き、みんなに与えていかれるのだと思います。皆さま全員が満腹するのです。

でも、全然、パンが減らないのです。そして、さらに、私たちの教会で用いているトレイは、裂かれたパンでいっぱいになったままのです。

恐らく、私たちは、イエス様の霊的な力を知ると思います。

5千人もの人が食べて満腹した今日の話もそのような感じです。

イエス様は、弟子達に命じて、人々を座らせるように命じます。

青草の原に人々が座っている姿は、羊がところどころでじっとしている姿に見えたに違いありません。イエス様は、少年の持っていたパンを取り、感謝の祈りをして、弟子達を通して人々に配って行かれました。

どのようにパンが増えたのかは書かれていません。

カナの婚礼では、イエス様が瓶の水を運ばせると、それはぶどう酒に代わっていました。この時もどのようにして変わったのか書かれていません。

でも、実際に弟子たちはこの奇跡を見ました。奇跡というより、イエス様の凄さを体験したのです。さて、イエス様は、弟子達に「無駄にならないように、残ったパン屑を集めなさい」とおっしゃいました。弟子たちが集めると、12の籠にいっぱいになったと書かれています。このことは、(今日読んで頂いた、列王記の預言者エリシャの時と同じように)、有り余るほどの恵みを与える神さまのお姿が描かれています。惜しみなく与える神さまという感じです。

さらには、イエス様から溢れ出てくるものは“尽きない”ということを示しています。12の籠がいっぱいになったというのは、同じ奇跡を今からでも再び起こすことができる状態であるという余裕を現しています。

イエス様は私たちの羊飼いです。羊飼いは絶対に羊の側から離れません。

離れてしまった羊がいれば探し出します。また、イエス様は、常に霊的に養い、霊的に守り、霊的に永遠の命の世界へと導いてくださいます。

イエス様は、あなたの羊飼いです。あなたには、いつも羊飼いが必要です。

羊飼いの声をいつも聞かなくてはなりません。なぜなら、羊飼いの声は、魂を養い、心と魂を癒す言葉であり、私たちの生き方を導き、永遠の命へと連れて行く言葉であるからです。イエス様は、良い羊飼いです。

羊飼いは、養う・守る・導くという点では、“リーダー的”な存在ですが、羊飼いは“仕える存在”でもあります。自分の時間を犠牲にして羊の面倒を見るのが羊飼いです。そして、善い羊飼いは、羊のために命を捨てるのです。

イエス様は、私たちと神さまとの関係を回復するために十字架に架かってくださいました。私たちの“罪のために”罪のないイエス様が自ら罪人として十字架で死んでくださいました。十字架の上で死なれましたが、死んで復活されたイエス様が、今度は本当の霊的な羊飼いとして私たちと一緒にいてくださっているのです。「主は羊飼い」ではなく、「主は“私の”羊飼い」と心からの感謝と喜びをもってそう告白できる信仰になるように目指していきましょう。