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おはようございます。
この前、ネットを見ていましたら、ひとりの女性の方の話が載っていました。その方は、大人になってから、自分が実は養女であったことを知るんですね。勿論、育ての親とはうまくいっていて、感謝しているのですが、やはり、本当の自分の親のことが気になったようです。言い辛かったので、育ての親には内緒で、自分の親を探した・・・ということでした。その気持ち分かるなぁって思いました。“実は自分は養子である”と分かったら、私も、本当の親を知りたくなって探すのかなって思います。皆さまはどうですか?もし、自分の本当の親が別にいるとわかったら探したくなりますか?今、世の中の多くの人が、自分のことを、この広大な宇宙の中で「偶然に生まれてきた命」だと考えているようです。もしくは、この大自然の中から生まれてきて、この大自然に“返っていく”・・・。そのような摂理を受け入れて生きておられるようです。
その方々は、本当の自分のルーツを知らないでいます。
でも、私たちは知っています。私たちの命のルーツは神にあります。
私たちの命は神さまがくださったもの、神さまから分け与えられたものであり、私たちは、神さまのもとへ“帰っていきます”。それだけではなくて、今、この時、私たちは神が共にいてくださっていることも知っています。
すでに、永遠の命に生きています。人は本当のルーツに辿りついたとき、安心を得ることができます。さて、今日の聖書箇所ですが、イエス様は、ご自身とお弟子さんたちを追って集まって来た、群衆の姿を見て、「深く憐れまれた(34節)」と書かれています。「同情」という言葉がありますが、「深く憐れまれた」というのは、「心を痛める」という意味では、「同情」と似ているかも知れませんが、ここで使われている「深く憐れまれた」というのは、親が自分の子供が苦しむ姿を見て感じる感情に近いと言われています。
「助けたい」というのではなくて「何とかしてやりたい」「私が代わってやりたい」というまでの思いです。さて、イエス様は人々を見て「深く憐れまれた」のですが、その理由は、彼らの姿が「飼い主がいない羊のような有様」だったからとあります。これは一体どのような姿なのでしょうか。
今日の旧約聖書エレミヤ書はそれがどのようなことなのかを教えています。
エレミヤの時代、イスラエルの民には、王がたてられていましたが、王は、全く、神の声を聞かず、不正を愛し、民を搾取するような王でした。
神さまは、それを私の羊を正しく牧さないで散らすばかりであったと怒っておられました。そして、将来、本当の牧者、イスラエルを導く正しい牧者を与えると神さまは約束されました。そのことが書かれているのが、今日のエレミヤ書の箇所です。イエス様が、群衆を見られた時に感じられたのは、まず、エレミヤの時代と変わらず、政治の腐敗に苦しむ民の姿だったと思われます。
また、病で苦しむ人たちの姿も、イエス様の目に憐れに映っていたのだと思います。そして、もう一つ、霊的に枯渇している人々の姿であったと思われます。人生は、良い事も悪い事もあります。辛い時も多々あります。
その時に大事なのは、神の御言葉である聖書の言葉です。
み言葉はその境遇を変える力も、また、その境遇に耐える力も、また、その境遇において希望を与えることができます。それだけに限らず、聖書の教えは、その人の人生を実りある人生へと変え、その人の生き方が、周りの人に良い影響をもたらしていきます。つまり、神の御言葉(聖書に記された教え)は世界を貧困から解放し、世界に平和をもたらすのです。霊的指導者は、そのように人々を導く務めがあるのですが、イエス様の時代、王は駄目、祭司たちも駄目、律法学者も駄目でした。そう考えると、今の、イスラエル、ガザの人々の姿と似ていると思います。さて、イエス様は、エレミヤ書で預言されていたメシア(新しい王)だったのですが、実際のところ、イエス様は、直接的なこの世の王となるのではなくて、霊的な意味での統治者となっていかれます。
私は、今日の聖書箇所を読んで、「“飼い主のいない羊のような”当時のイスラエルの民の話」として読んで終わって欲しくないと思いました。
イエス様が羊飼いであられる以上、私たちもその羊なのですが、同時に、いつでも私たち一人一人が「飼い主のいない羊のような有様」になってしまうことのないように努める必要があると思います。昔に観たテレビ番組の話ですが、ある男性がいまして、彼は息子と作業をしていたのですが、作業中に息子の目に金属の破片(ワイヤーだったかと)が当たるんですね。
息子は目を怪我して、父親は医者に連れて行きます。お医者さんは「目は治療をすれば大丈夫」と言ってくれるのですが、加えて父親にこういうんですね。「あなたの目も治りますよ」って。実は、その父親の目も、昔、怪我をして視力が落ちていたんです。なぜ、それがわかったのかと言いますと、父親が斜視になっていたんです。父親は息子の目を治してもらうと一生懸命になって医者のもとに連れて行ったのですが、そのお医者さんは、お父さんの目も医者として診ていたんですね。怪我をした当時の技術では治らなかったのですが、その時は、治すことができるようになっていました。お医者さんからすれば、“お父さん、患者は息子さんだけではありませんよ。あなたもそうですよ”そう言いたかったのだと思います。イエス様は、魂のお医者さんです。
良いカウンセラーです。そのイエス様が見ているのは、私たち一人一人の心なんです。イエス様はこうおっしゃtっています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコによる福音書2章17節)
イエス様が、聖書でこうおっしゃっているということは、私たちは、ずっと、イエス様の前では、罪人であり“治していただく必要がある”病人だということです。ある時、イエス様のそばに一人の金持ちの青年がやってきました。
彼が、永遠の命について尋ねたので、イエス様は律法について質問しました。その時、その青年は「それらのことは小さい頃から守っています」そう答えたんですね。するとイエス様は、彼を見つめ、慈しんで(愛して)言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書10章21節)
私たちは欠け多き存在です。“聖化”という言葉がありますが、私たちはみ言葉によって整えられて行く必要あります。自分の趣味のように、自分も他人も知っている自己の部分があります。また、自分の無意識の行動や癖のように、自分は気づかず、相手が気づいていることがあります。
さらには、自分も周りの人も気づいていない潜在的なものもあります。
イエス様が「あなたに欠けているものがある」とおっしゃいました。
金持ちの彼は、それを実行できなくて、去っていきます。でも、イエス様のその言葉が、実は、彼に気づきを与えました。自分では気づいていなかった何かを意識させることができました。私は、イエス様の言葉は、そのように私たちに働きかけ、(理想通りにではありませんが)私たちを整えていく力があると思います。イエス様が興味のあるのは、今の「あなた」なのです。
「あの人が救われたらいいな」と思っている、「あの人、その人」ではなくて、イエス様が関心あるのは「あなた」なのです。今日、イエス様は「あなた」に語っておられるのです。聖書は神の言葉です。イエス様が羊飼いで、私たちが羊であるならば、聖書は神の言葉で“羊飼いの声”です。つまり、聖書は神の言葉(文字)を超えて、神の語り掛けとなります。ですので、聖書は“今日のニュース”のような情報を提供しています。先週どれだけ、み言葉を読みましたか?どれだけ祈りましたか?どれだけ神さまと深い交わりの時間を持たれましたか?羊飼いが一匹、一匹の羊に関心があるように、イエス様は、皆さま一人一人に関心があります。皆さまと話し合いたいと願っておられます。イエス様は、皆さまの名前を呼んでお語りになるお方です。また、イエス様は「羊飼い」ですので、羊が迷うことなくついてくることを望んでおられます。
なぜなら、羊飼いのいるところに、安心があり、守りがあり、導きがあり、糧があるからです。羊飼いであるイエス様から離れず、いつも、羊飼いの声を聴くようにしてください。
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