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おはようございます。
私は大学生の時に洗礼を受けたのですが、当初、洗礼を受けたことが本当に嬉しくて、母に一生懸命、宣教していたのを覚えています。
勢いがあったからでしょう、母親は「セールスマンみたいやな」って言っていました。今思えば、セールスマンというより“押し売り”に近かったと思います。ただ、残念なことにその時の私は、宣教するべき内容をよく理解していませんでした。洗礼を受けた私たちは、新しい生命を授かり、神の家族の一員となりました。私たちは、“その喜びを周りの人に伝えたい”と願うのですが、近年、宗教に対する壁があるので、ハードルが高くなっていますよね。
親や子供にはまだ伝え易いのですが、自分の兄弟や親戚、友人となるとちょっと難しさを感じますよね。特に、関心をもっていない相手に、聖書の話を持ち出すのには勇気がいりますよね。身近な人への宣教の難しさについては、今日の聖書箇所からも少し垣間見られるのではないかと思います。
ある時、イエス様はナザレという村で宣教なさったのですが、ナザレというのは、イエス様が生まれ育った村です。村人たちは小さい頃からイエス様を良く知っていました。また、イエス様の家族も一緒に同じ村で生活してきたので顔見知りで今も生活しているのです。イエス様の聖書の解き証しを聞いた人々は、びっくりしたようです。一つは、イエス様の口から出てくる深い聖書解釈です。
それは、聖書を良く知っている人も太刀打ちできないほどのものでした。
また、イエス様の語り掛けは、先生のようにではなく預言者のように「権威ある言い方」をなさっていたので、そのこともインパクトがあったようです。
このようにイエス様は、メシアとしてお語りになっていたのですが、ここに躓きがあったんですね。聞いていた村人は、イエス様の生まれも育ちも良く知っていたんですね。「所詮、大工のヨセフの倅だろ・・・」という思いが彼らの心にあったようです。ですから、「立派になったなぁ」と感心したかも知れませんが、「おお、この人は神から遣わされたメシアだ」とは思えなかったようです。ひれ伏すこともできなかったでしょう。「ありえない」という思いが彼らの信仰の目を塞いでいました。この出来事は、マタイもルカも記しているのですが、ルカによる福音書では、もう少し詳しく、彼らの不信仰さが描かれています。イエス様はこうおっしゃっています。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
(ルカによる福音書4章23節~27節)この言葉から分かるのは、「それだけお偉いことをおっしゃるのなら、何かしるしを見せてくださいな。
そうしたら、誰だって信じるよ」という思いが彼らにあったということです。勿論、イエス様は、そのように思う彼らに応えて奇跡を起こされませんでした。マルコは「起こせなかった」と書いています。これは、不可能という意味ではなくて、奇跡を起こすことが、彼らにとって良くなかったのでなさらなかったという意味です。私は、洗礼を受けた時、同じようなことを思いました。
祈ったらそのとおりになれば、多くの人が信じて救われるのに・・・何故って思いました。でも、それは違っていたんですね。実は、奇跡というのは、その人の“信仰を強めること”は出来ても、“本当の信仰を作り出すこと”はできないんですね。本当の信仰は、み言葉が心に直接働きかけることによって生じるものなんです。もし、奇跡を体験する事で信仰を持つ人がいたとしたら、自分に不幸が起こると、その人は神さまから離れてしまいます。
また、そのようなきっかけの信仰の行きつく先は、「願望を叶える神さま信仰」になってしまいます。その信仰は、私たちを幸せにはしません。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書20章29節)とイエス様はおっしゃいましたが、まさに、奇跡を見たからではなく、聖書の言葉に心打たれて神さまを信じる人が本当の神さまとの繋がりの中に入れるということなのです。
結局、ナザレでは一部の本当に信仰を持った人以外に奇跡を起こされなかったのです。このことは、私たちと周りの人との関係性に似ていると思いませんか?私たちの普通さ(つまり、いわゆるクリスチャンらしくない生き方)が相手の信仰のつまづきになっているということあるかと思います。
でも、本当の信仰の強みを伝えることはできるかと思います。
弱さに働く神さまの力を現すことはできると思います。思い煩い、悩み、苦難・・・すべては等しく訪れます。しかし、神さまと共に生きる人には、そのような中でも、「希望」が与えられ、「平安」が与えられ、「喜び」を感じることができるのですね。イエス様が与えようとされているのは、この恵みなのです。
私たちの信仰の喜びは、私たちの人生が思ったように進むから生じるのではありません。そのような時でない時でさえ。辛さと共に、神と共にいてくださるという「平安」や「希望」が喜びとなるのです。イエス様はこうおっしゃっていますよね。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11章28~30節)イエス様が与えようとされているのは、神が共にいることによる「安息」です。イエス様は、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃっています。そして、「わたしに学びなさい。そうすれば、安らぎを得られる(原文:魂は安らぎを見つける)」とおっしゃっています。
この二つこそ、誰もが本当に求めているものではないでしょうか。
先日、大阪で牧師の集まりがあって、その時に講師の方を招いてお話しを伺ったのですが、その時のテーマは「セルフケア」でした。多くの事に心を配ってしまうことによって疲れ果ててしまうことのないように(マルタのようにならないように)、いつも、自分のための時間を持ちましょう(マリアのような主と向き合う時間を持ちましょう)ということでした。でも、これは、現代人の多くの人に必要なことだと思います。その講義の中で「セルフケア」の一つの方法として、「マインドフルネス」という方法を教えて頂きました。
「マインドフルネス」というのは、瞑想のようなものです。呼吸法などを使って気持ちを切り替える方法です。これは、リラックスとは違うんですね。
リラックスよりもっと心と魂に有効な方法です。「マインドフルネス」というのは、“気持ちや心を過去や未来から切り離して、今この瞬間に生きる”ということを実践する方法です。この「マインドフルネス」というのは、東洋では昔からある瞑想方法なんです。今という瞬間を意識する。今という瞬間を感謝する。そのような切り替えをするときに、心が解放されていくんですね。
で、ここに、天地創造をされた神さまへの信仰、また、私たちを心から愛し、憐れんでくださるイエス様、そして、私たちの周りを覆うように存在してくださっている聖霊なる神さま、この三位一体の神さまへの信仰が合わさるとまた違ってきます。今というこの時、今という瞬間に神さまと繋がっているという喜びは強く心と魂の安らぎへと変わっていくんですね。今を生きる、今という瞬間を愛されて生きているということを意識することで、過去にも未来にもとらわれない今を生きる自分をその時だけですが造ることができます。
これを繰り返すわけです。神さまが今日くださった最高のプレゼント“今という時”を、雑念で無駄にするってもったいないですよね。過去や未来を一旦、切り離して、今だけでもいいから感謝する瞬間に生きるというのが、霊的なマインドフルネスです。やり方は、人それぞれにあったやり方があると思います。是非、それぞれ、ルーティンを作って実践してみてください。
私も今、挑戦中です。て、宣教において大事なのはその人の心に届くみ言葉です。私たちのためにイエス様が十字架にかかってくださったという福音です。しかし、「悔い改めて福音を信じましょう」とは、身近な人には中々言えない言葉です。でも、私たちの姿は、その人の心を開くきっかけになると思います。先ほどは、霊的なマインドフルネスの話をしましたが、イエス様に学ぶことによって生じる、もう一つの信仰者の心の変化についてお話ししたいと思います。イエス様は、このナザレでの出来事の後、他の村々を回られるのですが、今度は、弟子たちを派遣されます。その時、イエス様は、弟子達に、何も持つな、必要最低限の物だけ携えていきなさいと命じておられます。なぜでしょうか?これは、宣教をするものと共に神さまが常に共におられるということを経験するためであったと思われます。「明日どうなるかわからない」という現実を強制され、でも、実際に何とかなるという神の働きを見る体験がその人の心を強めていくのです。それは ,私たちの日々の生活にも同じです。
ある時、イエス様のもとに、一人の青年がやって来た話があります。
彼は永遠の命を得るためには何をしたらよいでしょうか?と尋ねています。
最終的にイエス様が彼におっしゃった言葉は「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書10章21節)という言葉でした。さすがに彼は従うことができませんでしたが、これもまた、明日どうなるかわからない身になったからこそ見えてくる神の世界があるということです。
また、イエス様は、弟子達に「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書8章34節)とおっしゃっています。今度は富を明け渡すことではなく、命を明け渡すことを命じておられますが、これもまた、命をも神さまに明け渡すことによってはじめて見えてくる神の世界があるということです。聖書にこういう言葉があります。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ8章9節)イエス様は、神であられたのに、ご自身のその身分をお捨てになり、人という姿になられました、そして、私たちの罪を背負って十字架で死んでくださいました。イエス様がご自身の栄光も命を全て捨ててくださいました。しかし、そのことによって私たちは命を再び得ることができました。ご自身が貧しくなられたことによって、私たちは豊かになったのです。イエス様の教えは沢山あります。それぞれが、単に実践することを求めているだけでなく、難しさゆえに何かを知る修行になるのだと思います。
例えば、自分の持ち分を半分相手に施したらどうでしょうか。
立場は逆転します。でも、それは相手をびっくりさせるのではないでしょうか。できない自分を知れば、謙遜になるし、それをなさるイエス様の凄さを知ることができます。また、憎い人を呪うのではなく、その人の祝福を祈りなさいとイエス様は教えておられます。それを実践すれば、心が何かから解放されるのは事実です。イエス様の教えは、時に、一般的には誰もしないことをさせます。でも、それは、された人になぜ?と思わせます。そして、その教えの素晴らしさに気づいた人は、何かを得ていくのだと思います。勿論、簡単にできることではありません。この生き方を目指すところに意味があるのだと思います。
それは、星を目指して歩むようなものです。星を目指して歩んでもその星に到達することはありません。それでいいのです。でも、その星が輝く方を目指して歩む人は、導かれたその先で、イエス様と出会うのです。宣教は近年とても難しくなってきました。身近な人に宣教することはさらに気を遣うようになってきました。でも今日の二つの箇所からどのような時にも信じる人がいるのが判ります。イエス様が私たちにしてくださったことの大きさは本当に凄い事です。そのことを伝えるために、まず、その素晴らしさに私たちが生きること、また、神の家族になった喜びを自分のものとすることだと思います。
そのために、霊的なマインドフルネス、そして、み言葉に生きるということを実践してみて欲しいと思います。
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