宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マルコによる福音書5章21節~43節
哀歌3章22節~23節
コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章7節~15節

 「恐れることはない」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。

私は、祖父母が仏教を「信奉」していたからでしょうか、聖書における「信仰」と言えば「崇高な教えに従って生きる」という印象が強くありました。

ですから、「聖書の教えに忠実に生きる」と「天国に行ける」そのように思っていました。“思想”を信仰している感じです。でも、聖書の「信仰」というのは違うのですね。聖書の「信仰」というのは「私の頑張り」とか「天国という“未来”を掴む力」のことではなく「今」なんですね。

「今の私を形作るもの」なんですね。信仰は「今日の私を形作るもの」「今日の私を助けるもの」「今日の私の心を守るもの」なんですね。

信仰は、今日の私、今の私を創造し、私の「いのち」となっているのです。

霊的な生命維持装置のようなものかも知れません。クリスチャンの“立派な生き方”も素晴らしいと思います。でも、クリスチャンの方で、苦難の中でも、例えそれが僅かであっても、平安を得ている方を見ると凄いなって思います。その時、その平安を与えることができる神さまの存在の素晴らしさを感じます。神さまはその信仰を私たちに与えようとされているのです。さて、今日の聖書箇所ですが、二つ「信仰」という単語が出てきます。先ず一つは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」というイエス様の言葉です。

そして、もう一つは「恐れることはない。ただ信じなさい」というイエス様の言葉です。両者とも信仰が私たちに何を与えるのかを教えていますよね。

それは、信仰はあなたの中に「安心」を造りだし、信仰はあなたを「恐れから解放」をもたらします。“信仰”と“信じなさい”はヘブル語では同じ言葉が使われています。さて、実際の内容を見て行きたいのですが、ある時、イエス様の前に、二人の人が現れます。一人は、長血を患った女性です。(マルコによる福音書5章25節)彼女はイエス様に気づかれないように後ろから近づいてきます。もう一人は、今にも娘が死にそうな状態にある父親です。

この父親は前からイエス様に近づき、そして、イエス様の前にひれ伏します。

(マルコによる福音書5章22節)この父親はヤイロという名前の会堂長でした。会堂長というのは、当時、イスラエルの人たちの普段の礼拝の場所(シナゴーグと言います)を管理する人でした。礼拝の準備をする人でしたから、信仰も篤かったと思います。その会堂長の娘が“今にも死にそうな状態”だったのです。ですから、ヤイロはイエス様の足元にひれ伏し「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。

そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と必死に願います。

イエス様は彼の願いを聞いて彼の家に行こうとします。しかし、そこで、もう一つの出来事が起こるんですね。もう一人の女性が密かにイエス様に近づいて来たのでした。彼女は、12年間も同じ病気に苦しめられていました。

全財産をはたいても治らなかった人でした。彼女はイエス様のことを耳にして、「この人なら治してくれる」そう思って(原文では“言って”)イエス様の元にやってきました。しかし、そこに一つ大きな問題がありました。

彼女の病気が「血の病」だったんですね。私たちはあまり気にしないと思いますが、当時、彼女のような状態の人は「汚れた人」として扱われていました。

厄介なことに、彼女に触れた人も彼女が触れた人も全ての人が汚れたことになり、清めが必要となりました。当然ながら、人の多く集まる場所には行かれません。宗教的に偉い人たちは、汚れをとても嫌っていましたので、彼女は、真正面からイエス様に近づくのが怖かったんです。ですから、後ろから、気づかれないよう群衆に紛れてやってきました。そして、そっとイエス様の服に触れて帰ろうと考えました。でも、彼女の凄いところは、“触れただけでも癒して頂ける”と信じていたことです。彼女は、イエス様に触れることで癒されます。

しかし、彼女はイエス様の足止めをしてしまうことになります。

なぜなら、イエス様は、彼女を群衆の中から探し出そうとしたからです。

この時、恐らく会堂長のヤイロは、気が気ではなかったと思います。

まさに、娘が死にそうな状態だったからです。でも、その予感は的中しました。イエス様が、彼女を見つけ出し、彼女に声を掛けている間に、ヤイロの娘は死んでしまうのです。その時、イエス様がおっしゃった言葉が、「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉です。イエス様は、ヤイロと共に彼の家に行きます。家では死んだ娘の事でみなが悲しんでいました。

そのような中でイエス様は「子供は死んだのではない、眠っているのだ」とおっしゃいます。そしてイエス様が、死んだはずの娘の手を取り「起きなさい」とおっしゃると、娘は何と死んでいたのに蘇り、起き上がるのでした。

私たち人間は、病と切り離せない存在です。なぜ、病と切り離せないのかと言いますと、神さまと切り離されているからです。ですから、イエス様の真の願いは、私たちが神さまと繋がって“いのち”を取り戻すことなのです。

信仰は「病を癒すためのもの・勝ち取るもの」ではなくて、信仰は「いのちそのもの」なんです。聖書が「いのち」という時は、心臓が鼓動していることを言いません。また、聖書が「死」という時、それは、心臓が止まったことを言いません。神さまと繋がっている人は「いのち」があり、神さまと切り離されている人は死んだ状態なのです。聖書を読みますとイエス様の癒しの記事が多いと思います。当時、しっかりした薬もありませんし、医学も発達していません。ですから多くの人たちはイエス様の周りに集まって来たと思います。

イエス様に癒しを求めたのです。勿論、イエス様が人々を癒されたのは、人々の苦しみに寄り添う神さまの慈悲と憐れみの姿でした。

しかし、イエス様は、その痛みや苦しみを癒すことだけを目的としておられたわけではありません。イエス様はご自身こそが神の御子であることを知って欲しいと思われたわけです。そして、神さまと信頼を持って繋がるようになることを願われていました。なぜならそこに命があるからです。

信仰は生命を繋ぐ管だからです。今日の癒しの出来事ですが、それぞれの出来事から覚えて頂きたいことがあります。一つ目は、長血を患った女性の話からなのですが、イエス様は彼女が触れたことを感じ取られたということです。

真の信仰は神には分かるのです。彼女はイエス様の後ろから服に触れるだけで癒されると思っていました。実際に彼女は触れるだけで癒されたのですが、マタイやルカによる福音書を見ますと、彼女がイエス様に触れた時「自分から力が出て行ったのを感じた」とイエス様はおっしゃっています。

イエス様が触れた人を探そうとした時、弟子たちは、「沢山の人があなたの傍にいるのだから、誰かが触れたっておかしくないでしょう?」と言いました。

それはそうですよね。誰だって「勘違いではないですか?」と思います。

でも、イエス様は違うとおっしゃるのです。信仰をもって触った手とそうではなく触れた手は違うんです。これが、今日、覚えて頂きたい、一つの目のことなのです。特に、「主よ、助けてください」「憐れんでください」と心から助けを願い信仰の手を伸ばす人の手は、神さまの目に違うということです。

そして、その信仰の手を通して、神の平安は流れ込むということです。

神さまが喜ばれるのは、神さまを必要とする心です。それは、私たちの見た目には違いがなくても、神さまの目には違っています。神さまを真に求める心、神さまを切に求める心、神さまに心から憐れんでくださいと絞り出すように祈る心、それは、神さまとの間に太い管となるのです。さて、イエス様は、群衆の中から彼女を何とか探そうとしました。それは、神さまが憐れみに満ちた神であることを教えるため、つまり、汚れたものでさえ癒そうとする神であることを教えるためでした。さらに、「神さまを必要とする信仰」の大切さを教えるためでした。信仰が命となっているからです。さて、二つ目になりますが、今日、共に、覚えたいなと思うことは、ヤイロに語られたこの言葉です。

「恐れることはない。ただ信じなさい」イエス様と長血を患った女性と話をしている時に、会堂長のヤイロのもとに、家の人がやって来て、『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』と言いました。その時に、イエス様がヤイロにおっしゃった言葉が、「恐れることはない。

ただ信じなさい」でした。私は、なぜイエス様が「恐れることはない」とおっしゃったのかなって思いました。「悲しむことはない」とおっしゃったのなら理解できます。普通は娘の死を知らされれば悲しむかと思います。

でも、イエス様は「恐れることはない」とおっしゃっています。

私が思うに、これは、イエス様がヤイロにおっしゃったタイミングに関係するのだと思います。愛する人の「死」は、その現実を知らされた時には、最初、悲しみではなく、絶望が襲います。“頭が真っ白になる”と言いますか、糸が切れたかのような感覚です。つまり、イエス様がヤイロにこの言葉をかけたのは、使いの者が告げた言葉を聞いて、ヤイロが絶望したその瞬間であったということがわかります。実際に、福音書を見ても、イエス様は”傍で聞いていてヤイロに語られた“と書かれています。(マルコによる福音書5章36節)

イエス様はヤイロに「恐れることない」と言い「ただ信じなさい」とおっしゃいましたが、これは、ヤイロの気持ちに寄り添い励ます言葉ですが、さらには、信仰が消えてしまわないように励ます言葉でもあったわけです。

「お嬢さんは亡くなりました。もうイエス様でも無理です」と言わんとするような、不信仰な言葉がヤイロの信仰を弱らせようとしました。

神さまに伸ばした手の意味を失わせるような言葉でした。でも、その言葉が語られたと同時に、イエス様は、「恐れることはない。ただ信じなさい」と命じられたんですね。このイエス様の言葉「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉は、ヤイロだけではなくて、信仰者である私たちにも、いつも語られるイエス様の言葉だと思います。私たちは、確かに信仰が与えられました。長年かけて信仰は培われていきます。でも、不安に陥る時は誰にでもあります。自分のことで不安になり、また、愛する人のために不安になります。

そしてそれが恐れになってきます。「恐れ」というのは、私たちを覆ってしまう強い力です。その時、大事になってくるのは「神さまに手を伸ばす信仰」となってきます。「憐れんでください」「助けてください」と切に祈る心です。

イエス様は、「恐れ」に打ち勝つのは「信じること」だと教えてくださっています。「恐れ」のための備えはこの世のでは駄目です。

「神さまを信じる心」「神さまを信頼する心」にあります。

その思いに神さまが答えてくださるということを忘れないで欲しいなと思います。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』という不信仰の言葉は、私たちにも「この状況では神さまに期待しても駄目」と語ってくることや、思わせることがあります。信仰は細い糸のような非力に見えますが、信仰は管です。私たちの内に新しい私を再び創造する力が通る管です。信仰は、私たちの内に平安をつくり、信仰は、私たちの中から恐れを締め出します。このことを是非忘れないでください。私も忘れないように自分に言い聞かせていきます。最後に、本日の旧約聖書、哀歌の3章22節~26節をお読みしたいと思います。『主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。』アーメン。