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おはようございます。
財布やスマートフォンが見つからないと焦りませんか?
私は、よくどこかにやってしまうのですが、最初は、「あれ~どこかな~」って思う程度で探し始めるんですね。でも、考えられる場所にないと、「あらっ」となって焦ってきます。そして、いくら探しても見当たらないとなると、「あの時、落としたのかな」「あそこに忘れて来たのかな」「あそこに置きっぱなしにしてしまったのかな」と過去の記憶を思い出し始めます。
それが、遠い処であったり、スーパーなど人が多い処となると、“誰かが手にして悪用されるんじゃないか”って心配になります。こういった、日常の小さい事だけでなく、人生に対しても不安や心配になることがあるかと思います。歳を重ねると、何かと心配事が増えてきます。健康の事、自分だけではなくて、身近な人の健康の事、仕事の事、人間関係の事、家族の事・・・時代がそうさせているのかも知れませんが、将来のことなど、何かと気になること、心配事が多いですよね。大抵、困難や苦難に直面すると、まずは、自分のこれまでの知識や経験から解決しようとします。こうしよう、ああしよう、あの人に相談しようなど、色々と手を尽くします。しかし、それでも解決できないとなると、焦りを感じ、それが不安へとつながり、最後には、心配・恐れ・ストレスとなります。でも、私たちは祈ることができるんですね。この前、会堂で祈っていて思ったのは、やはり、祈ることができるって幸せだなってことでした。
恵みだなと思いました。例え、置かれている状況が変わっていなかったとしても、どこか安心を感じるんですね。漠然とはしていますが希望を感じることもあります。「なんとかなる」「大丈夫」と思えることもあります。
自分の知恵や知識や経験ではどうしようもないとなると、私たちの心は揺らぎ始めます。土台が揺らぎ始めます。神さまは、そのような時、祈りなさいとおっしゃいます。執拗に祈りなさいとおっしゃいます(ルカによる福音書11章8節)。神さまと繋がる時、不安で揺らいでいた土台が少し安定して来るんですね。それは、やはり神さまの存在が大きいからだと思いますし、祈りから来るちょっとした安心感は、神さまがくださる霊的な力だと思います。
でも、そこで大事なのは、信仰なんですね。神さまがどのようなお方なのかっていう事がはっきりとわかる必要があるんですね。それは、知識だけでは駄目なんですね。体験・経験が必要なんです。そして、それは、時に、神さまの沈黙を経験しなければなりません。体験が信仰を強くしてくれます。
今日のマルコによる福音書の箇所は、まさに、そのようなことを教えている箇所であると言えます。ある時、弟子たちは、イエス様と一緒に舟に乗ります。
イエス様は、お疲れになっていたのでしょうか、船の船尾で眠られます。
弟子達も、“ゆっくりと休んでください”・・・そんな感じで最初は思っていたのかも知れません。しかし、そこに大きな風が吹き始め、嵐になります。
弟子たちの多くが漁師ですから、彼らは、これまでの経験、また、知識で対応しようとします。でも、この嵐の前に、無力でした。水は、舟の中に入り込み、彼らは、もう駄目かもしれない・・・そんな恐怖が襲い始めました。
でも、イエス様は、寝ておられたんですね。弟子たちは、とうとう、イエス様を起こします。そして、こう言います。「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」もし、皆さまが、同じ状況下で、弟子達と同じ立場だとすると、何をして欲しいと願いますか?弟子たちと同じ様に、舟の帆(マスト)を操作することでしょうか?それとも、舟に入り込んだ水を外に一緒にかき出すことでしょうか?そんなことないですよね。人手が足りなかったのではないんです。
もう限界だったんです。そして、「溺れても(つまり死んでも)気になさらないのですか。(本文はDon't you care if we drown?)」という言い方は、<沈黙しているように思われる神に対する人間の叫び>に似ていると思います。遠藤周作の作品に「沈黙」というのがありますが、神さまは「沈黙しているのか」と思えるような状況、もしくは「私がどうなっても構わないのですか」と言いたくなるような状況ってクリスチャンになっても<クリスチャンだからこそ>ありますよね。時には、私たちは「信仰している意味はあるのか?」という思いがよぎることもあります。本日は、旧約聖書から、ヨブ記を読んで頂きましたが、ヨブもまた、大きな試練を体験し、神の沈黙を体験した人でした。
ヨブという人は、神さまの前に無垢で正しい人でした。しかし、神さまは<悪魔がヨブ試みるのをお赦しになったんですね。そして、ヨブにこれでもかっていうくらいの不幸が訪れます。所有している家畜が死に、身内に不幸が訪れ、そして、自分自身も重い皮膚病で苦しむようになります。友人は「あなたが何か悪い事をしたからではないか、天罰ではないか?」と言います。
これは私たちも思う事ありますよね。そして、ヨブは、辛さから、“自分が生まれて来たことを否定する”ようになります。これも、辛い時やしんどいことが解決しないと、私たちを襲ってくる内なる思いです。ヨブはある意味、神さまの沈黙を経験していくのです。(ヨブ記30章20節)でもヨブは、“自分は正しいのになぜ?”という思いが消えなかったのです。しかし、これが神さまの目に、「自分を無罪とし、神さまを有罪とするかのような思い(40章8節)」であったわけです。ヨブは、試練によって、自分の中にある義をもって、神の義を否定してしまったのです。ヨブに対して、神さまがお語りになった言葉が、今日、お読みした聖書箇所です。最初にこうありました。「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。」(ヨブ記38章3節~5節)これは、全知全能の神である神さまの姿を知らしめます。他にも、「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(38章12節)、「すばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。」(38章31節)、「お前が雨雲に向かって声をあげれば、洪水がお前を包むだろうか。」(38章34節)「お前が送り出そうとすれば稲妻が「はい」と答えて出て行くだろうか。」(38章35節)。と神さまは言っておられます。ヨブは、神さまの存在の前に、遥かに劣る小さい存在である人間であるということを学びます。そして、自分が正しいという思いから、逆に、神さまのなさることを否定するという罪に気づくのでした。
最後にヨブはこう言っています。「あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ記42章1節~6節)
ヨブは、試練を通して、神さまの義、神さまの存在の大きさを実感することができたのですね。実は、ヨブ記を見ますと、この後、神さまは、ヨブを祝福し、彼は、子孫に恵まれ、財産を与えられ、長寿を与えられるという恵みを受け取っていくことになります。私は思うのですが、大きな試練は、確かに辛いです。でも、私たちの信仰をさらに強いものへと変えていきます。
しかし、これが、単なる知識では駄目なんですね。体験が必要になってくるわけです。信仰は体験が必要なのです。先週、私たちは、イエス様が弟子たちになさった「神の国」の譬えを学びました。神の国の力強さ。そして、イエス様こそ神の国が形になって現れたお方であるということを学びました。
聖書を読みますと、イエス様は人々に多くの譬えを話されますが、弟子達には、その譬を解説なさっていたと書かれています。しかし、本当の弟子となるためには何が必要なのか、本当の「神の国」の素晴らしさを知るためには何が必要なのか・・・それは、体験なんですね。しかも、神さまの御業の力、素晴らしさを経験することなんですね。今日の福音書の箇所ですが、イエス様は「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とおっしゃっていますが、正確に言いますと、イエス様は、弟子たちの“臆病さ”をお叱りになっています。
そして、「まだ、信じないのか、信仰を持つに至っていないのか」とおっしゃっているのです。信仰は、臆病さを締め出します。臆病さは、不安定な土台の上に立つから生じます。しかし、神さまは私たちの人生を悪いようにはご計画なさいません。良いものを与える神です。イエス様は、起き上がり、恐れることなく、風にしかり、湖に「黙れ。静まれ」と言うだけで、風はやみ、すっかり凪になりました。これを見て、弟子たちは、驚きます。これだけの自然の驚異をものともしない方、しかも、命じれば自然も従う・・・。一体、この方は誰なのか?勿論、この言葉には、答えがちゃんとあります。
それは、この方こそ、天地を創造し、全てを支配されている神であるに違いないということです。このイエス様が(神さまが)、天に昇られる時に、「いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃったのです。「このわたしがあなたとずっと一緒にいるよ」という約束です。これを喜んでアーメンと言えるのは、弟子達の体験がそうさせたと思います。今日、パウロの手紙を読みましたが、パウロという人も、すごい信仰者だと思いますが、苦難、災難をいっぱい経験しますし、恐怖、不安を感じたこともありました。信仰者はみな、試練を経験し、臆病になり、また、怖れを経験するのです。でも、信仰者は祈るのです。
祈りを通して、状況が変わらない中でも安心を頂くことができるんですね。
勿論、完全な安心感ではなくて、神さまがいるから「大丈夫」「何とかなる」という安心感です。パウロが書いたコリントの信徒への手紙を読みますと、経験した信仰の数々が書かれています。私たちは、不安や心配事が尽きないと思います。私たちは、その時、祈ることができます。試練と祈りは、信仰者を強めていきます。でも、試練や苦難に遭遇すれば、また、翻弄されます。
今日の弟子達の嵐のような体験を私たちは何度もします。
その度に、「なぜ怖がるのか、臆病になっているのか。まだ信じないのか、信仰を持ち合わせていないのか。」という言葉を聞くのだと思います。
でも、これは、大丈夫ですという言葉だと思います。
神さまは、私たちに何を与えようとしておられるのか・・・そのことを今日の聖書箇所から是非考えて見てください。
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