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おはようございます。「キリスト教ってどんな宗教ですか?」と尋ねられれば、皆さまでしたらどうお答えになりますか?難しくないでしょうか?
「何を信じているのか」「何を大事にして生きているのか」ということは伝えやすいとは思いますが、「信じたらどうなるのか」「信じることでその人はどうなっていくのか」ということを伝えるのはちょっと難しさを感じませんか?実は、その問いというのは、クリスチャン自身も、わからなくなってしまうってことあるんですよね。特に、大きな試練に遭遇すると「信じていて意味があるのか?」という風に、信仰が揺らいでしまうことってあるんです。
「信じるってどういうことなのか」「信じたらどうなるのか」そう思う時に、良いみ言葉があります。それは、詩編の1編です。こう書いてあります。
いかに幸いなことか神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 (詩編1編1節~3節)「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は、川の流れほとりにある木のようです。その木が時がくれば、その木は、青々と葉を茂らせ、そして、豊かな実を結ぶようになります。」そう教えています。
信仰を持って歩んだ人の未来のことがきちんと記されているので、すごく分かりやすいですよね。譬えというのは、そういった未来のことや、真理を分かりやすく伝える力を持っています。でも、それだけではないんですね。
譬えをよく読むと、時に、隠された摂理や真理に出会うことがあります。
例えば、この詩編の第一編を読みますと、こんなことが分かります。
まず、誰もが、川の水のほとりの木は大きく成長するって知っています。
その前提でこの譬えを聞くはずです。すると、漠然とではありますが、誰もが気づきます。木が成長するのは、水の存在、水の恩恵だって。
木の力ではないんですね。つまり、神のみ言葉を大事にして、いつも、口ずさむ、また、実行する人は、神の存在とその恩寵によって、豊かな人となるのですよということです。ここには、神の豊かさも描かれています。
また、この譬えは、こんな表現が使われています。「植えられた木」という表現です。みなさまは、どんな風に思いますか?
「生えている木」と言っていません。「植えられた木」です。
つまり、人の決断を求めているんですね。「よし、そうしよう」って思う信仰を与えるんです。つまり、この譬えは、信仰を持って生きる人がどうなるのかという未来を語ります。この譬えを聞いた人は『未来に希望』を抱いて生きるようになります。また、「そのように生きよう」、「そのようにしよう」と信仰が与えられ「行動」が生まれます。この詩編一編というのは、神さまに対する信仰(神さまの教えに対する信仰)を持つ人がどのような人となっていくのかということを教え、同時に、最後まで信仰を持って歩むようにと「希望」を持つことも教えています。勿論、当然のことですが、神の教えは神を愛し、人を愛することですから、信仰を持つ人は、愛に生きる人になっていくわけです。「信仰」と「希望」と「愛」。これは、私たちが生きる上で大事な三本柱なんですね。さて、神さまは、私たちに、未来を、希望を持って見ることができるように、また、私たちが大事にしなくてはならないことを、よく譬えを用いてお語りになりますが、イエス様も、また、人々に(私たちに)譬えを用いて多くをお語りになりました。それが今日の福音書の言葉でもあります。
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコによる福音書4章26節~29節)
私は、毎年ニンニクを植えています(小さい面積です)。
初めのころは、良く知らなくて11月頃に植えていました。
すると、出来上がってきたのは小さいニンニクばかりでした。
何年か前から9月に植えるようにしたのですが、そうしたら、その時から、大きめのニンニクを収獲出来るようになりました。この譬えのポイントは、植える人、つまり種を蒔く人は、種を蒔くことはできるけども、成長させることはできない。成長させるのは、大地だということです。
これは、誰もが知っている真理です。これと、イエス様は、「神の国」とリンクさせておられます。つまり、霊的な事柄は、未来に必ず神さまが収穫(喜び)として、与えてくださるということです。恐らく、イエス様は、この譬えをご自身の宣教と十字架と死と復活、そして、最後の審判のことをおっしゃっていると思われます。実が熟すというくだりがあるので。一人一人に信仰を起こさせ、成長させていくのが、イエス様の宣教というか御業です。
人はイエス様と出会い、イエス様に触れられ、また、イエス様の言葉を聞くことによって、信仰が起こされます。そして、成長し、収穫の時を待っているのです。見方を変えますと、イエス様の宣教活動が始まり、イエス様の言葉を聞いている人に「救いの時が来た(始まった)」ということを伝え、イエス様を信じた人はどうなるのかという未来を教えておられるという感じです。
しかも、これは、不可逆的な出来事ですし、妨げることもできない事実として語られています。つまり、信じた私たちは、収穫される時、つまり、天の御国に永遠に住むことに必ずなりますよという約束を聞いています。
さて、イエス様は、「神の国」について、もう一つお話しされました。
更に、イエスは言われた。「神の国を何に譬えようか。どのような譬えで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコによる福音書4章30節~32節)私は、イエス様の、「何に譬えようか」「どのような譬えで示そうか」という言葉に、私たちへの篤い思いを感じます。この譬えでも、信仰者に対して、未来に対する希望を与えています。からし種というのは、種が小さいことで有名な植物です。一方で、大きく成長するのも良く知られている植物でした。イエス様は、このからし種と「神の国」を重ね合わせておられます。
これも、先ほどと同じ様に、イエス様のことをおっしゃっていると思います。地上に降りて来て、人として生まれてくださったイエス様ですが、(本当は、あってはならないことですが)人の手によって、十字架で処刑されてしまいます。それは、見るからに無力な人の姿でした。しかし、イエス様の死は復活へと繋がり、イエス様の教えは全て命の言葉へとかわり、人に命を与え、人を生かす力となり、人に希望を土台にした信仰を与えることとなりました。
イエス様が十字架で死なれた時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたと書かれています。これは、天への扉をイエス様が血を流すことによって開いてくださったことを象徴しています。イエス様が死なれた時、光であるキリストは、その輝きを失いました。それを示すかのように、イエス様が十字架で死なれた時、空が夜のように暗くなったと記されています。そして、イエス様が復活された時、再びこの世界は、光を見ることができました。
創世記の天地創造の記事では、6日目まで、「夕があり朝があった」という言葉が書かれていますが、7日目については書かれていませんでした。
しかし、イエス様が死なれ、闇が訪れ、そして、復活して再び光となって顕われた時、この世界は、8日目という新しい時の流れの中に入ったのです。
譬えにあったように、今、私たちは、キリストの再臨、つまり、収穫の時を待つ人となりました。キリストの再臨、私たちにとっては、新しい姿に生まれ変わり、永遠の神と共にすることになる、必ず起こるという、希望に満ちた時となっています。それまで、どんなことがあっても希望を失わず、信仰を持って歩んで欲しいと、神さまは願っておられます。
さて、最後にパウロの手紙を見たいと思います。
今日、お読みしました、コリントの信徒への手紙第2の5章の9節でこう言っていますね。『だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。』パウロは未来に復活して主と永遠に住むことを確信しています。希望を持っています。
そのパウロは、今生きるのも、将来主と共に生きるのも関係なく、『主に喜ばれるものでありたい』そう願っています。私は、この言葉が素敵だなと思いました。「主を愛したい」というのは、ちょっとハードルが高い。
でも、「主に喜ばれるものでありたい」これは、ハードルが低いんです。
それだけではなくて、愛に生きられない時、罪人である自分に悲しむ時であっても、イエス様のところに行き、赦しを願うことが、これもまた、主の喜びであるからなんですね。続けて10節で、パウロはこう言っています。
『なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。』この裁きというのは、信仰を持った人にとっては、救いをなくすかどうかを言っているのではありません。
そうではなくて、私たちは、この地上でどのように歩んだのかを、神さまはちゃんと見てくださっていて、将来、きちんと評価してくださるという約束なんですよね。互いに愛しあい、助け合い、赦し合うこと。
これは、神さまが一番望まれていることです。この主の教えに生きる人を、主は喜んでくださいます。その人は、詩編にあるように繁栄という形をもって主は報いてくださいます。今日、この後、聖餐式を行います。
これは、死んでくださり、復活して、天に昇られた、遠くにいるイエス様のことを思い出すときではりません。希望を持って、信仰に生きる私たちに、私はいつまでもあなた方と共にいますということを実感させ、霊的に満たしてくださるときなんです。信仰と希望と愛が強められる時なんです。
イエス様は、「神の国」をどう伝えようとか言葉を選んでおられましたね。
私たちは、礼拝の中で、イエス様の言葉を聞き、そして、聖餐を通して、その「神の国」を味わっているのです。さて、主が望まれていること、それは、未来に希望を持つこと、信仰を失わないこと、そして、愛に生きることです。
主に喜ばれるものでありたい・・・そう思って、歩んでいきましょう。
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