宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マルコによる福音書2章23節~3章6
申命記5章12節~15節
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章5節~12節


 「安息に招待されている私たち」

説教者  江利口 功 牧師

 おはようございます。先週の日曜日の礼拝後に奈良県の女性会の集まり“ハンナ会”がありました。各教会のお一人の方が、ご自身の思い出の賛美歌を紹介してくださったのですが、ある方が紹介してくださった賛美歌が、教会賛美歌の467番でした。賛美歌の一番の歌詞は、こういう歌詞です。主にある子供は み胸に抱かれ、巣にある小鳥に まさりて安けし

これは、私たちがこの世で安らぎを感じるどのような場所も、天の父のいらっしゃるところで安らぐ子どもの平安に勝ることはありません。

ということを賛美した歌です。メロディーも柔らかくて、聞いていても安らぎを感じる賛美歌だと思います。わたしは、この歌の歌詞の意味を聞いて、まさに、今日の礼拝の御言葉のテーマである「安息」を現しているなと思いました。

主にある子供は み胸に抱かれ、巣にある小鳥に まさりて安けし

地上にあるどんな場所も神さまのそばに勝る場所はありません。

安息というのは、まさにエデンの園で人が最初に得ていた祝福だったわけです。しかし、人は罪を犯し、神のそばにいることができなくなり、その結果、平安、安らぎ、安心を失ってしまいました。しかし、神は、再び私たちに安息を与えようと、働かれた・・・これが、聖書の内容であり、福音なんです。

そして、イエス様こそ、その安息を私たちに再び与えようと考えて、人となって来てくださったお方なんですね。そして、福音書はイエス様のそばにはいつも「安息」があったことを書き記しているのです。それは、福音書に従って「わたしのもとに帰って来なさい」という神さまの語り掛けでもあります。

今日の福音書の箇所ですが、テーマは「安息日」です。今日は、二つの記事を読みました。一つは、弟子たちが、麦の穂を摘んで食べた出来事。

そして、もう一つは、会堂でイエス様が、手の萎えた人を癒したという出来事です。イエス様は、安息日以外にも人を癒されました。空腹を満たされたこともありました。でも、福音書がどうして特に、安息日にイエス様がなさったことを多く記すのかと言いますと、それは、イエス様の周りで起こっていた出来事を記すことで、イエス様が安息日を定めた神ご自身であること、そして、危険や困難や苦しみの中で生きる私たちが、イエス様に対する信仰を持つことによって、安心を感じることができるようになるためです。神の愛と神の守りに信頼を置くことができるように、聖書は私たちを励ましてくださっています。今日の、聖書箇所がそのことが良く分かる箇所ではないかと私は思います。

まずは、麦の穂を摘んで食べた出来事を見ていきたいと思います。

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコによる福音書2章23節~28節)

安息日というのは、ユダヤ教徒にとってとても大事な日です。

申命記にも書いてありましたが、安息日は、人がこの日を聖別する日であり、また、神さまもその日を覚えてくださっている日でもあります。

昔も、イエス様の時代も、そして、今も、ユダヤ人はこの安息日を大切に守っています。この安息日の規定に関しては、神さまは、ユダヤ人たちに、それを守るように厳しく戒められました。その厳しさゆえに、誰も(王様であっても、家の主人であっても)、国民や家族や僕に対して働かせることができませんでした。安息日は、神さまが人を労働という苦役から解放される日でした。

それだけでなく、神さまと交わりを持つ時、また、神さまの御業、また、恵みを、自分のこととして実感する日にもなっていたんです。さて、今日の一つ目の話ですが、ある時、イエス様と弟子たちが、神の国の福音を宣べ伝えている時に、弟子たちが空腹になったんです。弟子たちは、麦畑を通っていた時に、麦の穂を摘みそれを口にしました。その姿を見て、ファリサイ派の人たちは、“訴える口実”として安息日の規定を持ち出すんです。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」恐らく、穂を摘むというのは収穫に当たるんでしょうね。また、食べるためにもみ殻を取る作業は脱穀にあたるのだと思います。まあ、彼らも、これは、本当に駄目だと思っているのではなくて、イエス様を非難する口実として持ち出しただけだと思います。

さて、彼らの言葉に対して、イエス様は旧約聖書の出来事を持ち出されます(サムエル記上21章1節から8節)それは、ダビデ(この時は王ではありません)が、彼の従者と共にサウルから逃れていた時の話しでした。

ダビデは祭司アヒメレク(大祭司アビアタルの子)から聖別されたパンをもらい、それを持ちかえって従者に与えたのでした。聖書では、幕屋に備えられたパンは、聖別されたパンであって、これは、祭司以外誰も食べることは赦されていませんでした。しかし、祭司アヒメレクは、ダビデと出会い、ダビデの話を聞いて、彼にパンを与えたんですね。勿論、ダビデはそれを持ち帰って、従者に与えました。このことを通して何が分かるのかと言えば、聖書の規定(律法)は、“人の命を守るため”また“みんなが助け合って平和に生きることが出来るように”と神さまがお定めになったものであって、決して、人を不自由にするために律法が定められたのではないということなんです(これは善悪の知識の木を定められたことにも共通しています)。この根本的な考え方を彼らに教えられたわけです。でも、イエス様がこの話を持ち出されたもう一つの理由があります。それは、ダビデが特別な人(王)であったように、イエス様も特別な人(王)であるということを分からせるためです。ダビデと従者はイスラエルの国のために働きました。イエス様と弟子達は神の国のために働いています。その関係を重ね合わされたのだと思われます。ダビデがイスラエルの王となり、特別な人物となったのですが、イエス様は、それを超えて、「神の国の王であり、安息の主、つまり、安息日を定め、安息日を覚えるように民に教え、そして、安息日を守る民と関わる安息日の主である」ことをお示しになったのでした。さて、今日の二つ目の安息日の話の中にイエス様のもう一つの姿が示されています。イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(マルコによる福音書3章1節~5節)安息日はいかなる仕事をしてもいけない日でした。してはいけない仕事の一つが医療行為でした。イエス様は、多くの人を安息日に癒されていました。恐らく、会堂でもその奇跡を起こすと誰もが考えていました。そして、そのことを口実にイエス様を責めようと考えている人たちがいたのでした。イエス様がお入りになった会堂に、片手の萎えた人がいました。勿論、訴えたい人がどんな思いで、どんな目でイエス様を見ていたのかを知っておられました。そんな彼らにイエス様はおっしゃいました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」勿論、彼らは知っています。

善を行うこと・命を救う事です。でも、言えません。

なぜなら、イエス様がしていることを認めることになるからです。

では、「悪を行うこと・殺すこと」と言えば良いのか?決して、そのようなには言えません。ですので、彼らは黙るしかありませんでした。

イエス様は、彼らのかたくなな心を悲しまれました。目の前に安息日の主であるイエス様がいるのに(安息日の主として相応しいイエス様がいるのに)

それを認めようとしないからです。イエス様は、手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃいました。すると、その人の手は元通りになったのでした。医療行為をするのではなくて、言葉で(つまり、神のご意志によって)人が癒されて行ったといのが焦点になります。マルコにとってイエス様が奇跡を沢山なさった中でこの安息日の出来事を記したのには意味があります。

それは、先ほども言いましたが、イエス様が安息日を制定された神ご自身であり、安息日の目的に相応しいことを、ずっとなさり続けたお方であることを、イエス様ご自身の姿を通して伝えたかったからです。勿論、イエス様は、決して、安息日だけに癒しをなさっていたのではありません。

安息日以外の日も奇跡を行っていました。目の見えない人を見るようにし、空腹の者にはパンを与え、悪霊を追い出し、死んだ人さえも蘇らせておられました。イエス様こそ、天地創造の神、安息の主なのです。私は、教会に通い始めた頃、自分に自信がありませんでした。神さまに受け入れてもらえるのだろうか…そんな思いで礼拝に集っていました。ある時、もう礼拝に行くのをやめようかなって思ったことがありました。自分は神さまに受け入れられていないと思ったからです。そんな時に、今日のこの“手の萎えた人の癒し”の話が礼拝で説教されました。牧師先生はこうおっしゃいました。「この手の萎えた人は会堂のどこにいたでしょうか?彼は、白い目で見られていたので、ひっそりと会堂の隅にいたでしょう。当時は病気をするというのは何かの罰だと考えられていたからです。多くの人が集っている中で、イエス様は、その隅にいた彼に目を向けておられたのです」そのようにおっしゃいました。私は、ずっと会堂の後ろに座っていたのですが、その時、「神さまは、私を見てくださっている」そのように思えたんです。「神さまは私を受け入れてくださっている」と思えました。そのことがあって、もう少し礼拝に行こうと決心することができました。そして、教会に通い始めて一年も経たないうちに洗礼を受けることができました。皆さまも洗礼をお受けになった時のこと覚えておられるかと思います。

皆におめでとうございますって声をかけてもらえることはあっても、自分の中で大きな変化ってなかったかと思います。でも、洗礼を受けた時に起こった出来事が一つあります。それを今日覚えて欲しいのですが、それは、神さまとの永遠の安息、父と子の関係に入ったということです。神さまとの安息に入ったというのは、神さまとの豊かな関係に招き入れられたということです。

これは、私たちにとって、大きな平安、安らぎを戴ける関係性だと思います。でも、このことは、どのようにしたら実感できるのでしょうか?

それは、イエス様を知ること、イエス様と交わること、イエス様の声を聴くことだと思います。♪主にある子供は み胸にいだかれ、巣にある小鳥にまさりてやすけし♪。この賛美の歌詞の深みに入っていくには、長い信仰生活が必要となってくると思います。私は、その礼拝で、神は見ておられると実感しました。そして、洗礼を受け、牧師となり、聖書を深く学ぶようになると、見ているだけでなく、イエス様が礼拝の場に御言葉と共にいてくださるということがわかりました。私たちは、主の祈りで「父」と呼びます。これは神さまとの関係が回復しているからこそできる呼びかけですし、この「父」と呼べるからこそ、恵みをくださるお方であると信じられるわけです。また、「日毎の糧を今日もお与えください」と願っていますが、「日毎のパンを今日もお与えください」というのが本当の意味なんですね。イエス様はちゃんと、聖餐式を通して、日々のパンを与えてくださっています。また、罪の赦しを主の祈りで願っているのですが、聖餐式を通してもこのことが実現しているわけです。

イエス様は、今日の二つ目の出来事のように、礼拝の場にみ言葉と共に、約束と共におられます。洗礼を受けた私たちにとっては、毎日が安息日です。

でも、この日曜日の礼拝は特に、神さまの安息の招きの日なのです。

イエス様は、私たちが霊的に飢えることのないように、み言葉を語り、また聖餐の恵みを持って満たしてくださいます。神さまが、私たちに与えたいのは、安息です。それは、休みだけを意味するのではありません。そこに、安らぎと平安があるのです。また、父が共にいてくださるという喜びと安心感もあります。私たちは、それを遠い未来に頂きます。それまでも、神さまは、日々、また、この日曜日の礼拝で、その安息の喜びを実感させてくださっているのです。「わたしはある」というお方は、礼拝の中でみ言葉と共におられます。

1.主にある子供は み胸にいだかれ 巣にある小鳥に 勝りて安けし。 

2.恵みのみ腕に 悪より守られ み国の子供は 育ちて安けし。 

3.生くるも死ぬるも 我らは主のもの、悲しみ消えゆき 心は安けし。 

4.み神の子供は 常世とこよに主のもの、尊き恵みに 頼りて安けし。

 

 

【本日の集祷(コレクト)】

全能の神よ、天にあるものも地にあるものも、全てあなたの尽きることのないご意志と摂理の中で治められています。私たちはあなたに信頼し全てを委ねます。どうか、全ての悪いものから私たちを守り、イエス・キリスト -私たちの救い主 を通して、私たちに良い物を与えてくださいますようにお願いいたします。あなたと聖霊と共に、ただ一人の神であり、今もそして世の終わりまで、生きて治められる御子イエス・キリストによりお祈りいたします。